第21話 新婚旅行のような

「来てたならカフェで合流すればよかったのに」

 最近は家でも一緒にいられる時間が限られている千鶴ちづるが今、目の前にいる。そんな嬉しさに秀吾しゅうごは部屋の前で見えない尻尾を振り続けていた。


 秀吾は嘘をつく必要のない環境で育ったせいか考えていることも顔に出るのだ。言葉を飾る必要もなく正直に生きることをひたすら赦されてきたこの男がこうして気持ちを全面に表しているということは本当に千鶴のことしか見えていないということだ。

 今しがたのカフェでの会話も、それに浮気を疑って提携旅館の女将との後を尾けた日も然り。相手の気持ちを完全に推しはかることは不可能だが一部でも垣間見る機会があるというのは、時に思い知らされて傷を負うこともあるが反対にどこまでも前向きに捉えることもできる。

 千鶴の心境がまさに後者のそれだった。

 互いに互いの味方で在ろうと心に決めた梅雨のいつかを思い出して千鶴は浅い深呼吸をし、実に久しぶりの笑みを浮かべた。

「まったく。……仕事でしょ? 公私混同はダメよ」


 その『公私混同』の単語に秀吾は持ち前の語彙から何やら良からぬことを思いついてしまったようで、ちょっとしたキメ顔を見せて千鶴の手を引いた。

「今まさに公私混同するから、ちょっと来て」

「え?」


 ホテルの評価をするために一泊するという出張であるため千鶴は仕事の邪魔にならぬよう秀吾の泊まる部屋の前で少し挨拶をしたら帰る予定だった。が、秀吾は経費で取っているシングルルームとは別に追加でツインルームを取り、千鶴をそこで一泊させることにしてしまったのだ。


「当日受付でも取れてよかったな~。マタニティーツアーの視察だから実際の妊婦さんに体験してもらうのが一番だって伝えたら眺めのいい部屋を取ってもらえたよ」


 身重の千鶴を理由にしあまつさえ職権乱用に近いことまでしでかしたにもかかわらず意気揚々としているのは新しく取ったツインのほうに移る気満々だからだ。何より会社にバレたところで同じ口実を使うつもりだろうことは言うまでもない。

 善悪で言えば悪ではなく、社内規定違反かと問われれば否、経費ではなく個人資金で取っており、シングルもキャンセルせず使用している(荷物置き場として)。これはただ出張先でほんの少し公私混同しているだけなのだ。


「なんか悪いことしてる気分だ」

 そう言う秀吾はとても楽しそうだった。近場だがあれほど意固地に否定していた新婚旅行でもしている気になるからだ。それゆえ千鶴も何も言わない。互いに、同じ場所で同じ時間を共有できることが嬉しくもあり胸の奥がとてもこそばゆい。


 ホテルの近くにある雑貨店で千鶴の着替えを買い、早めに開いた居酒屋を転々とし、今まで出来なかったような会話もたくさん交わした。取り留めもない話ばかりだが二人は不思議と満たされた。

 それからホテルまで戻りコンビニであれこれと物色したのち、ツインに移り込む。


「こんなことなら出張に追われ始めたときからキミを連れてくればよかったなあ。体に負担かかると思ってたけど、そう遠くない場所やこんな街の近くなら病院もたくさんあるし安心だろ?」


 荷物を整理する前に、当たり前のように千鶴を優先してソファーに座らせる。こんなひとつひとつが千鶴の頑なに閉ざした昔の記憶をほころばせていく。


 本来なら互いに望まない結婚だったはずだ。

 あるのは責任と義務のみ、当然離れる時間が生じれば羽を伸ばせると思うのが普通だろう。以前の秀吾であれば風俗街にでも行っていただろうし千鶴もこのように遭遇してしまった限りには秀吾の邪魔をしてしまったのではないかと負い目を感じていたに違いない。しかし今や『仕事場に来てしまったのに邪魔じゃないの?』などという質問は野暮と化している。きっと今の秀吾であれば『何の話??』と首を傾げることだろう。


 そのような考えすらも馬鹿馬鹿しく思える。ならば昔に捕らわれるよりも今この瞬間を大事にしたいと感じた千鶴は

「そういえばここバストイレ別なんでしょう? いいところね」

 やや観光業務モードに切り替わり始めた。


「家族向きのホテルだから泡風呂もできるよ、一緒に入る?」


 サラリと放った半分冗談で半分本音の言葉に千鶴も半分冗談だが半分本音で「いいわね」と返す。さすがの秀吾も内心では心臓がバクバクと緊張していたが半分の冗談ではなく残り半分の本音を選択し、二人で泡風呂を満喫した。

 ――(家じゃ掃除が面倒だから泡風呂なんてしないし、だからこれは泡風呂のためだ。それに……普通に楽しい!)

 秀吾の精神力も大したものである。千鶴の体を大切にしている様子がよく窺えるほど抑制心がかなり鍛えられていた。


 室内着で互いに髪を乾かし合うまでの一連は秀吾にとって至福と拷問の狭間を往復する行事だったがここは男らしく後悔していない。酒ではなく自分自身に酔いしれることで平常心を取り戻していた。

 ――(よく耐え抜いた、さすが俺……天才かよ)


 秀吾が半分苦しんだことを微塵も知る由のない千鶴は室野むろの観光により作成された評価項目にいろいろと書き込んでいる。

「広めのお風呂、とてもよかったわ。朝食の品数もいいし妊娠してても選べるなんて助かるもの。明日が楽しみね。やっぱりレストランのディナーも摂っておくべきだったんじゃないかしら」


「ディナーの評価なんて他のメンバーに任せればいいよ。それより明日は屋内プールで遊んで帰ろう」

「!? 水着なんてないわよ」

「プールの受付で売ってるよ? 温水だから体も冷えないし、キミのコンディションさえ悪くなければどうかなって」

「あなたがそう言うなら。……だけど見苦しくないかしら」


 千鶴の言葉は体型のことを気にしてのものだったが秀吾は何の話か読めずに一瞬首を傾げた。だが腹に手を当てる仕草を見てすぐに察しがつき「そんなわけないだろっ」と否定した、までは良いのだが、慣れない言葉を紡ぎ出そうとして墓穴を掘る羽目になる。


「キミは綺……」


 勢い余って口走りそうになった手前で我に返り恥ずかしさが込み上げる。

「? き?」

 今度は千鶴のほうが首を傾げていた。それでも伝えてあげねばと感じたのだろう、秀吾はこの続きを絞り出そうと必死だ。

「綺……」

「??」

「綺麗だよ!」

 何を言っているのか聞き取れないほどの早口で言い放つと同時に顔を背けてしまう。目が合わなかったにもかかわらずそれが秀吾の心からの言葉だというのは、顔を背けた彼の耳が赤く染まっていたことから容易に伝わった。

 千鶴は思わず笑い声をあげる。

「ふふっ、そういうことにしておくわ。ありがとう」

「ほ、本当なのに」

 まるで近所の気になる子に意地悪して叱られた子供のようにバツの悪そうな顔でブツクサと呟く姿に、生まれてくる子供の性格を想像して重ねた。



 就寝時、秀吾が照明を真っ暗に消すと千鶴が薄明かりに切り替えた。

 ツインとは言えダブルサイズのシモンズベッドのため「そっちに行ってもいい?」と千鶴のほうから歩み寄る。

 秀吾はすかさず起き上がり、先ほどまでの羞恥心などどこかへ飛んでいったように両手を広げて「おいで」と全身で千鶴を迎え入れる。そのままハグをして千鶴をベッドに寝かせたは良いが、「ゆっくりでいいから向こう向いて」と言う。

「?」

 千鶴が不思議そうな表情を浮かべながらも言われるがまま反対を向くと、秀吾は後ろから千鶴を抱きしめて「こうしたかったんだ」と、胎児を包むふっくらした腹をさすった。


「ほら、このホテルにはこれからキミのようにお腹の大きな人もたくさん来るんだよ。見苦しいなんて失礼だろ?」


 千鶴はその体と言葉の温もりにただ無言で頷く。その相槌のあと秀吾は千鶴の後頭部に柔らかく数回 口付けし、千鶴の腹をなでながらウトウトし始める。

 その際、寝言混じりにこのようなことを呟いた。



「忙しくて式も挙げられなかったけど、赤ん坊が生まれたらやっぱり式を挙げよう。小さくてもいいから思い出を作りたいな。それから一緒に写真を撮ろう。俺とキミで、中心に赤ん坊を抱っこして。…きっと、…この子にいつか写真…見せたら、喜ぶだろ…」



 一人では想像もつかなかった未来が、一緒ならば鮮明に見える。


 千鶴は先ほどの秀吾のように頬を赤く染め、口に手を当てて少しの涙声を殺した。向かい合っていなくてよかった、と安堵し、秀吾の描く幸福な未来を反芻しながら呼吸を整える。そして自分の腹をなでる仕草が止まったその手の甲にそっと自分の手を重ね、起伏に欠けた自身の中に次から次へと生まれて来る感情を噛み締めるように眠りについた。



 翌朝モーニングビュッフェにて千鶴と鉢合わせたチームメンバーは

「え!? 何ですかこのサプライズ!」

 そう驚くも普通に受け入れ、一緒の卓上で食事を済ませた。

 もちろんここだけの秘密である。



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