第20話 俺のヨメは俺のもの
観光サイトのレビュー項目を増やすべく
ウラジオストクのティファニーブルーをモチーフとしたロシアンカフェが有名であり、県外からの旅客を欲しがるホテル側が真っ先にマタニティーツアーの提携にと
自宅から近いため尚更秀吾の不満はメンバーへの八つ当たりに変換される。いつものことながら
「ツボ押しの本ってあるだろ? 時々ヨメが読んでるんだけどああいうのってたまにいい加減なこと書いてるものがあるから心配でさ。何とかの症状に効くどっかのツボなんて全部指圧でイケるみたいに書いてんだ。たかが指圧で全ての症状が解決するんだったら薬なんていらないんだよ。経絡はそんな単純なものじゃない、肺経から始まって肝経に終わるまでの流れ(※)があるのにさ。ツボ一つ押せば根本治療になるなんてそんな容易な話じゃないだろ? 角度、深さ、鍼を刺す時間とか、鍼を回すか否か、気を補う補法か除去する瀉法か、そこまで考えてんのが鍼灸治療ってものさ。手の
なんともロシアンテイストを崩壊させうる話題である。ブライダルホテルの優雅なカフェにて途中までは我慢し黙って聞いていたメンバーも秀吾が喋り終えるより前に ある意味遮る形で言葉尻を捉えた。
「まってください、妊婦さんに三陰交はマズいでしょう」
「まさか押しちゃってるんですか主任。下血しませんか」
当たり前だが本気で言っているわけではない。秀吾もその冗談には乗ってくれたようだ。
「俺がそんな馬鹿な真似するはずないだろ。なんでそんな馬鹿な質問を冷静にしてくるんだよ」
「だって話長いし絶対押してないってわかってるから当然冗談ですよ」
「そうですよ主任の蘊蓄ってホント長いですけど
随分とハッキリ物申しているが秀吾は自分への侮辱など気に留めない。
「彼女は俺の蘊蓄にツッコミ入れたことなんか一度もないよ?」
秀吾のこの言葉に一度この優雅なカフェから現実に戻り冷静になった彼らはここからが正念場だと言わんばかりに決定的一言で片づけようとする。
「そりゃ言い返されても面倒だからでは? 時間の無駄ですし」
『時間の無駄』
これには秀吾も反感を覚えた。それでも千鶴のおかげで、まるで高度数のアルコールを氷とシェイクして角を削ったショートカクテルのように随分と温和な性格になったものだ、以前は相手への批判混じりに罵詈雑言を浴びせかけていただろう返答が今や自分の中で収まるまでにツルツルに磨き上げられていた。
「ヨメの時間は俺のもの!」
傍から聞けば亭主関白のような一言だ、しかしこれでも素直になったほうである。同僚たちには通用していないようだが。
「うわ。出た」
秀吾はさらに有無を言わせず続ける。
「俺のヨメは俺のもの。ヨメのものも俺のもの」
「完全にクズのセリフじゃないですか」
「三段論法だからかクズ感半端ないですよ」
引きがちにコメントを挙げる彼らも内心では少し羨ましく映っていた。なぜかはわからないがそこに信頼のようなものを感じたからだ。蘊蓄に比べれば大いに言葉数は少ないにもかかわらずこの夫婦はこれでいいのかもしれないとさえ思う。そんな肯定要素を裏付ける言葉がまさかあの毒舌王子から出る日が来ようとは夢にも思わなかった。
「完璧な俺のヨメだから完璧なんだ」
「でもそれって奥さんに理想押し付けすぎじゃないですか」
押し付けでも何でもない愛情表現である、ということぐらいわかっていた。しかし普段と立場が逆転したように二人は秀吾に少しだけの意地悪を試してしまう。
秀吾がそのようなことに揺らぐような性格ではないことぐらい重々承知の上で腹を割っているのだ、この昼間に。当然ながら秀吾は揺らがず押し通す。
「まったく察しろよ。俺のヨメになった時点で彼女は完璧な存在なんだ。口論も小言も、ちょっと何かを言い淀むところも、自家製じゃなく市販のキムチを使うところだって、ちーさんは全部が揃って完璧なんだよ」
「あー、(ちーさんって呼んでるんだぁ意外) つまり短所も含めて全部が千鶴さんって言いたいんですね」
「そうさ、笑顔や怒った顔だって」
「あの人そんな喜怒哀楽あったんですか!?」
「もちろんだとも。けどそんなのは俺しか知らないわけで逆に俺さえ知ってればいい事じゃん、キミらが知る必要のない事さ。そりゃ最初は嫌だったよ。俺も彼女も一人暮らしが長かったから誰かと暮らすなんて無理だと思ってた。だけどどんな人柄でも、この俺のなんだと思うとそれだけで完璧なわけじゃん、そう思わない?」
「全然思わないですけど良い感じにまとまったことだけは理解できます」
「主任って案外情熱的ですよね。いや いつも自己愛が絡むと過度に情熱的ですね」
確かに『良い感じにまとまった』のだが、ここでひとつ問題が発生してしまった。
同じ時間、同じカフェにいるのが、旧友ならぬ同級生の呼び出しに応じた千鶴だということだ。それも席はかなり近いため会話は筒抜けだった。
同級生からこのホテルのこのカフェを指定されたときは耳を疑ったものだ。まさか同じ時間に同じ場所にいるなど思いもよらないことだ。それも席もこれほど近いなど何かの策略に嵌まったような気分だった。陰口にせよ悪く言われるならまだしもここまで称えられると逆に恥ずかしいものがある。
それまでは呑気に身の上話をしていたのだ。こと目の前にいる同級生は
「まさかあの
などと千鶴の膨らんだ腹にも驚いておりその言葉に対する千鶴もまた『式は挙げてないし挙げても呼ぶ仲ですらなかったのに』と思っていた。
その矢先に今しがたの会話が聞こえてきたのだ、当然、近隣の席から思いっきり聴こえてくるその会話には尚更驚愕していた。
「ねえさっきからあの席『千鶴』って名前が出てるけど和泉さんと同じ名前? それとも『ヨメ』とか言ってるし同一人物?? もしかしてあのイケメン、和泉さんの旦那さんだったりする? 見覚えあるんだけど」
千鶴は面映ゆさから控えめに縮こまりアイスカモミールティーのストローに口を付ける。そんな仕草も相まって、その同級生はハッと手で口を覆った。
「ちょっとまって、そういえばここの近くの商店街で観光業の毒舌夫婦が騒ぎを起こしてたとかって動画……え、あれ、和泉さん!? あ! あの人、毒舌王子じゃん!!」
そのように驚いて身を乗り出そうとする同級生を千鶴は慌てて引き留めた。
「駄目、今向こうは仕事中だから絶対にやめて」
「どうして!? 旦那さんでしょ? 他人にこれだけヨメ自慢してくれる人なんか絶滅危惧種に等しいんだから堂々と出ていけばいいじゃない!」
賛成したいところだが今出ていくとおそらく秀吾が恥ずかしさに慌てふためくかもしれないと察した千鶴は隠れに隠れて息をひそめてしまう。
とは言え、せっかく同じ空間にいるのに黙って帰るのも気が引けたところ、
「そうだ、このあと少し自由散策してレビュー項目を作っていこうと思うんですけど主任って何号室でしたっけ、角部屋ですか? 部屋の比較しません?」
という会話が都合よくしっかり聞こえた。
それを聞き逃さなかった千鶴は、同級生と分かれたのち、なんとなく居ても立っても居られなかったので秀吾の宿泊する部屋まで赴いてしまう。
そこで秀吾に一報入れておいた。
『じつは同級生から同じカフェに連れてこられてさっきまで近くの席にいたの。聞くつもりはなくて。ごめんなさい。せっかくだし部屋の前にいるわね』
千鶴からの連絡に驚いた秀吾はすぐさま部屋に駆け付けた。
ヨメ自慢を聞かれたことなど意にも介さない様子であり、まるで何日もご主人様に会っていなかった犬のように尻尾を振る幻影さえ見える態度だった。
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