第23話 ほしかったもの
千鶴は実家で一人、闘っていた。
家族から結婚を歓迎されていないのは目に見えていたが、それでも出産間近となった今、告げないわけにはいかなかった。
「
父親は今どき珍しい亭主関白だ、田舎ゆえ昭和の名残があるためだろう。千鶴はそのような父親の否定的な一言一言がいつも息苦しくて仕方なかったので意地でも自立を選び社会に出て一人暮らしを始めたのだ。これで縁を切ることが出来たと安心していたが、まさか秀吾との子を孕んだことでまた縁するなどとは予想だにしなかった。
当初は避妊もせず能天気にやり過ごしていた秀吾に憤りを感じたものだが今となっては掛け替えのない存在である。だからこそこうして一言でもこの結婚を…容認など求めてはいない、ただ伝えるためだけに一人で実家に乗り込んだ次第だ。
本当はあわよくば流れで秀吾をつれてきて紹介までこぎつけるに至るのが理想だが。
父も父なら母もそれに
「まぁ、あんたみたいに無愛想な子ならああいう男ぐらいしか貰い手もいないんだろうけど。それでもねぇ。ご近所さんになんて言えばいい? 私が育て方を間違えましたって報告したら、あんたもご近所さんも気が済むと思う?」
この田舎町では全員がすべての家庭事情を把握し合わねば気が済まない、まさに昭和で時が止まった田舎町だ(今でもこういう集落はリアルに存在しています)。
被害者である旨を全面に出して訴えてくる母の言葉はこの家では通常運行である。そのようなことはどうでもよい、昔はこれが更に千鶴を追い詰めた上、このおかげで友達もうまく作ることができなかった。しかし今は違う。
帰れば秀吾がいるのだ、その子供が自分の中でついていてくれる。
そんな現実がこの空間を虚構のように思わせてくれる。
「私の悪口まではいいけど私の夫のことまで言わないで」
自分はどう言われてももう平気だと実感した。むしろ、だから連れてきたくなかったのだ。
特定の女性よりワンナイトで済ませていたにもかかわらず今ではもう誰の誘惑にも耳を傾けなくなったような単純な人が。出張先で出くわしただけで嬉しさを隠しもできないような人が。自分が一人で実家に行くというのを駄々をこねてまで付いて来ようとしたような人が。この大きな腹を『綺麗だ』と優しく撫でてくれるような人が。
この家の者から避難されるのは耐えがたかった。
――(最初は確かにクズだと思ったし責任感もない人だと思ってたけど。もっと自由にさせてあげたいとも思ったわ。いつでも逃がしてあげられるように籍は入れないでおきたかった。本気で嫌ならあの人だって遺伝子検査を改竄してでも拒絶していただろうし私も堕ろしてたわよ。でも、もう子供もここまで育ってしまって、同じぐらいに私の気持ちも大きくなってしまった。手遅れなのよね)
千鶴が反論したのは幼稚園のころ一緒に遊んでいた子が勝手に転んだのを恥ずかしさから千鶴のせいにしたとき以来だった。そこでは千鶴の両親は『うちの子がご迷惑をかけて面目ございませんでした』と千鶴の頭を押さえつけて三人そろって相手方に謝罪をした。
それ以来、千鶴は自分を見せなくなった。自分を出すとかえって不和を招くと悟ったからだ。
だがそれももう終わりだ。
「最初に言い出したのは彼だったけど…」
――『ねえ一回だけシよ!』
昨年の忘年会の夜を思い出す。
――『一回だけですよ』
そのとき話に乗ったのは、少しだけ変化が欲しかったからだ。この軽い男性に自分を委ねることで自分の何かが変わる気がした。
「私もきっかけが欲しかったの」
無感情だと言われるぐらい変化に乏しい日々。その凪いだ青空に霹靂が訪れた。
――(私の感情はずっと揺さぶられ続けて、ノアの方舟のように豪雨で洗い流されて、方舟からは最後に残ったものが出てきた。それを何と呼ぶのか私の学歴の中には存在しないものだけれど、確実に浮き彫りになったその感情が私と彼を繋いでくれている。それはなんだかとても大切な気がして手放せないものなの)
「お父さん、お母さん、私が自立できるまで育ててくれた事には感謝してるわ。だけどそれはそれ。もう自立したの。許可を取りに来たんじゃないのよ、ただ私が自分で相手を選んで、お父さんとお母さんの人生じゃなくて自分の人生を生きていきますって報告をしに来ただけ。これ以上話すことはないから、もう帰るね」
『戻る』ではなく『帰る』と言い残すと、心がとても軽くなった。秀吾の待つ家に帰りたいと思うと、自然と足取りが速くなる。
無意識だが千鶴の耳には秋晴れの木々のざわめきが聴こえていた。西陽に乱反射するそれらが冬の匂いをもたらすとひどく物哀しくて心細く感じたものだ。でも今は、胸踊っていた。
帰りの電車に揺られながらスマホを見ると自分の夫とその幼馴染が公開処刑されていたことには思わず吹き出してしまった。
秀吾と何気に始めた関係によって千鶴は感情表現を確実に取り戻している。そのことにハッと気づき、口角の上がった口元を押さえて窓の外に目をやる。
昔はここから見える夕陽を目にするたび『家に帰らなきゃ駄目かな、いなくなれたらいいのに』と感じていた。しかし今ここで見ている夕陽はとても
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