第24話 そのお産の裏には怒涛の闘いがある

 十月の臨月を無事に終え、ついに十一月、千鶴ちづるの出産イベントが幕を開ける。


 同時期、秀吾しゅうごのほうも観光事業から地域活性プロジェクトまで目まぐるしくこなしていた。繁忙期は観光シーズンよりも前に来る。つまり年の瀬は直接的に観光事業を担っているわけではない秀吾はゆっくりできる、はずなのだ。年末には念願の家族三人でゆっくり過ごす、そう目標立てた秀吾は片っ端から仕事を捌いていっていた。


 しかしそんな秀吾の想いとは裏腹に仕事をすればするだけ新たな業務が飛び込んで来る。


 多くの経営者が行なうブラックシステムは『年末までに~』などと欲を出すことにある。年明けから改めてスタートすればよいものを(私怨)。


 製品会社などは特に年末セールで一気に売ってしまうことにより年明けの売り上げが尻すぼみになるのは目に見えているはずだ。年末に大量に購入したのだから消費者も正月以降は初売りとて年末ほど財布のひもは緩むまい。それと同様、何かのプロジェクトにしても年末にプライベートの充実を返上してまで無理をして経営者の欲を満たしたところで年明けには燃え尽き症候群と化すだけなので仕事の効率は落ちる上に自殺率も高まっているに違いない。

 貝原益軒の『養生訓』でしきりと言われているだけあって何事も『腹八分』、ほどほどが一番、命も意欲も長く続くものである。


 だが室野むろの観光における秀吾にとっての新しく投下されたブラックシステムは、皮肉にも新規アロエの『胎児エンブリオ』への影響がテーマだった。

 千鶴の妊娠により下調べをしただけあってこの時期に降って湧いたそのテーマに対してはそれはもう入念に実験計画を立て有無を言わせぬよう息を巻いてまくしたてたものだ。


「胎児への影響を見るのにはトランスジェニックマウスを使った in situ ハイブリダイゼーションとエンブリオゲノムの PCR が一番確実なんだけどそれはあくまで医大がやることであって一般企業ではそこまで求められてない。特にうちは製薬会社でも化粧品会社でもなく観光業だ。地元としても耳触りいい実験に収めないといけないんだ。母胎の実験ひとつでも医大の動物センターで実験許可を取ってパイプカットした ICR マウス最低 2 匹と偽妊娠かつレシピエント出産 ICR をポジコン・ネガコン・検体用で最低 12 匹、C57/BL の種マウス 3 匹と受精卵ドナーのメスは最低 10 匹は仕入れなきゃならないし動物実験計画書も提出しなきゃならないんだ。その時点で企業は大学で実験したいという申し出も落とされる可能性は充分ある。仮に通ってもトランスジェニックの装置をお前らは扱えるか? せいぜい授業で習うぐらいだろ。大学ならいいけど企業は予備の受精卵を簡単に用意できないから失敗が許されない。核を傷つけることなく的確にニードルで目的 DNA を注入しなきゃならないんだ。その作業から偽妊娠レシピエントマウスの卵管へ受精卵を流し込み縫合まで入れて 1 匹につき 30 分、これが基本なんだよ。プレゼン資料 1 枚に 30 分かけてるやつに何ができる。万一トランスジェニックがうまくいってもエンブリオを PCR にかけるのにミンチにするんだぞ、医大では簡単だけど企業がやったらモンスターたちからのクレームが半端ないだろ」


 後半からはほとんど秀吾の自分勝手な言い分と見て取れるがそれについてはチームメンバーの誰も言及しない。秀吾の気持ちもわからなくはないからというのが一点、何より自分たちも年末をゆっくり過ごしたいというのがもう一点。


「実験内容を世間に公表しなければいいのでは」

 面倒くさくなり思考が停止した一人がそう言うと秀吾は用意したかのように返答で追い討ちをかけた。

「じゃあ胎児への影響が見られなかった旨をどう伝える? 出産前に親マウスの腹を裂いてエンブリオを採り出してるってことぐらい消費者も容易に想像つくだろ? 他人に対して『想像力がない』なんて他者を誹謗してるような人間がまさかそんな想像もできずに医薬品を服用してるような頭の中お花畑な連中わけがないよな。治験だけだとでも思ってるのか」


 しかしここで、どうにも平行線のような気がしたまともな一人が挙手をした。

「あの、もし許可が有れば研究を手伝う旨で医大に出張してもよいですか? その手の助成金は取るの得意なんで費用は医大と半々で、教授は論文を出して、うちは商品を試してもらってエビデンスとして論文を引用させていただく、とか」


 これもまた見計らったかのように秀吾は意外な返答をしたのだ。

「だよな、そうだよそれが普通の企業だよ。いいよそれで。あ、でも助成金はすでに社長秘書さんが手配済みだからそこまでやんなくていい」


「え?」


 皆、驚きを禁じ得ない様子で唖然と呆ける。その反応に秀吾もまた眉を寄せて「? 何かあるのか?」と逆に質問をした。いつも毒が云々と言いながら食べているカップ麺がついに内分泌かく乱という謀反を起こしたのかと思うような状況に一人がしどろもどろに答えた。

「いえ、思った以上にすんなり…」


 ところがやはり通常運行であることは間違いないようだ、それもいつもに増して鬱陶しい自己愛が発動してしまった。

「考えてもみろよ! お前の業務でうちの商品の安全性が保証されればお前の功績になる。つまりお前は主任になれるチャンスだし、お前が主任になれば俺はチーム長だ!」


「わあ…出たよ利己主義」

 そうある意味一安心したのも束の間、これが秀吾のランナーズハイ状態であることに気付いた者たちはすぐに背筋を凍てつかせた。そんなことなどお構いなしに秀吾は安定の台風ぶりを発揮し始める。

「事業計画はもう商品のもので出してるけどそこに医大への委託も追記すればいいし。なんなら教授と仲良くなれば商品の効果もわざわざうちのラボで地道に細胞実験なんかやらなくても医大に検体を送って金を渡せばいいよね」

「まあ…どこの企業もやってる至極普通の考えですね」

「だろ? うちがやっちゃダメなわけないしさ」

「利益の点で社長が動くかどうか…」

「企業が大学に委託する理由は費用にあるんだよ、BtoB なんかで委託業者に依頼すると制限も多いし金額も跳ね上がる。その点、『派遣』って形でこっちからも大学に人員を遅れば大学は 24 時間営業してくれるわけだ、払う分より得られるメリットがデカい」

「それって誰かがブラックラボの生贄になるってことじゃないですか!!!」

「うるさい。営業マンなんか生活かかってるからそれ以上に働いてるぞ」

「うわああパワハラ…パワハラですよ!!!」


 このような騒ぎが収束した矢先、次の騒ぎが到来することになるなどとは誰も考えも及ばなかったようだ。



 そう、千鶴の陣痛が訪れたのだ。



 事の顛末までに前振りをすると、

 節分は年に四片ある。立春 立夏 立秋 立冬とあるその四つの季節の変わり目の前日がそれであり、まさに今、立冬の節分の真っ只中にあった。

 つまり『季節の薬膳スムージー 〜冬〜』の開発を始めた時期なのである。

 さらに秀吾は地産地消を兼ねた東洋医学の事業から観光事業まで目まぐるしいスケジュールを掛け持ちしていた。その戦争のような最中、千鶴の陣痛が発端となり事件が起きたわけである。



 こともあろうか、秀吾は社会的人権の放棄をして出産に立ち会ったのだ。



 無論、このような事態を想定してのスケジュール調整をしていたつもりではあった。だが出産は予定日ピッタリなどいかぬもの。その日が突如訪れたとしても普通は仕事を優先するものである。


 にもかかわらず秀吾は

「俺たちだって命懸けで産んでくれた人がいるからこうして社会に出ていられるんだ。仕事ひとつのために出産の立ち会いを諦めるならそんな社会には用はない、どうせ俺は働かなくたって生きていけるんだ」

 と俺様らしい主張で社会的地位をすべて放り出し有給申請をしてしまったのだ。まさか社会人としてこのような暴挙に出るなど誰も思いつきもしないだろう。


「赤羽! 自分の立場を弁えろよ! いくら出産だからってお前が産むわけじゃないだろ、最近じゃオンラインで観れるんだよ 何ならアーカイブで我慢しろ!」


 これは地域活性化企画チームの範囲内で収まる話ではない、会社全体、そして取引先にまで影響する一大事である。

 ところが開き直った秀吾のことだ、自責の念など微塵もなくこう言い放って勝手に出ていってしまった。


「ふざっけんなクソ常務が!」


 アメリカンにもほどがある。

 当然 主任という立場でこのように勝手な行動を取ったからには責任が伴うものだ。


 上から受けていた上述のような大きな仕事にキリが付いていたのは不幸中の幸いとも言える。しかしこの日に発生した緊急案件は案の定 滞ったため、下で働く者たちも溜まったものではない。

 一人分の仕事を数人で分担しても間に合わない時期に秀吾の担う仕事をたかだか数人に振り分けたところで周囲の負担は何倍になったか計り知れない、それを「出産だったら仕方ないですよー」などと笑って許せる者などいないのは当然である。


 これらを踏まえると有給など認められるわけもなく欠勤扱いとなり本人の知らぬ間に給与から天引きされる事になっていた。


 この繁忙期に出産が予定されていたにもかかわらず引き継ぎが滞っていたのも原因だが引き継ぎを準備する時間がないほど新しい仕事が降ってきていたのも事実だ。それでもやはりこのような事態に備えておくべきだった上、せめて欠勤中でも緊急の連絡ぐらいは繋がるように配慮するに越したことはない。


 しかし社長も秀吾には甘いもので、今までの秀吾の功績から解雇までには至らなかった次第だ。



 出産そのものは事なきを得、少し時期が速かったこともあり 2580g という体重で生まれたが、健康には何の問題もない女児であった。


 桜の季節に妊娠がわかったため名は安直に『美桜みお』と名付けたという。

 冬の節分の穏やかな昼下がりにこのサラブレッドは生を受けたので誰も忘れもしないだろう。



 そして怒涛の一日を追えた翌日、秀吾はまず常務の元へ向かった。普通は先にチームメンバーと社長に謝罪に行くのが筋というものだが『暴言を吐いた』という自覚のある点で一番に常務に声をかけたようだ。

「常務。無事出産に立ち会うことができました。自分で正しい事をしたと自負してるのでお礼も謝罪もしません、だから処罰を受けます」

「自覚してるんなら形だけでも謝罪しろ、それが社会人だろ」

「……えーっと。昨日は突然のことで混乱して、ふざけんなとか禿げ散らかせとか正月に餅を喉に詰まらせろとか申し上げて本当に失礼いたしました」

「途中から聞いた事ない言葉が混ざってんだけど!?」



 その日、秀吾は生まれて初めて『形だけでも』社内全員に頭を下げて回った。当然、過ぎたことをとやかく咎める者もなく「おめでとう」と祝福し、それについては秀吾も素直に礼を述べる。


 処罰に関してはこの忙しい時期に謹慎処分など下すわけにもいかないため減給のみに収まったという。半月分を減らされたが。


 この日は昨日とは打って変わって穏やかな立冬の始まりだった。



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