第10話 事実の湾曲はグレーか黒か

 キムチ騒動以来秀吾しゅうご千鶴ちづるの距離は少しだけ縮まり、週末は交互にお互いの趣味を経験し合うというイベントを開催しながら歩み寄りを続けている。現時点ではフラストレーションと呼べるほどの憤りもない様子で早くも初夏が訪れた。


 地域活性化プロジェクトチームは地産地消の一環で作られた『春の薬膳スムージー』が好評だったことにより続編『季節の薬膳スムージー 〜梅雨〜』の開発に追われ、体内に必要な水分を除去し不要な水分を排泄することで水の巡りを正常に戻す作用がある生薬として重宝されている茯苓ブクリョウ(※)の収穫部隊が現在総動員している。

(※ 本来は日本では採れない)


 おかしな話だが『地産地消』とは特にその地の理を生かした特産物をその地で消費する旨が主であるはずだが秀吾たちの勤める室野むろの観光はこの地での栽培に合わぬ茯苓までも無理矢理に手を広げ、見栄が祟って本末転倒を辿っているのだ。

 秀吾から見れば「生薬すべてをこの地域で栽培して収穫するなんて絵に描いた餅に金額を乗せてるようなものじゃん」、要するに『Pigs might fly』、この上なく馬鹿げた不可能な話である。だが自社を大きく見せたい夢追いタイプの中堅企業では十八番とも呼べる手法だ。


「茯苓ってサルノコシカケのことでしょう? だったら霊芝レイシって呼んでもいいんじゃない?」

「おお! 霊芝と言うと万能薬、神の妙薬じゃないか!」

「うちの県でそれが採れるなんてますます名が轟くぞ!」


 ただでさえ春のスムージーがヒットして上機嫌な筆頭株主たちに『霊芝』というワードが火をつけてしまい、進めざるを得なくなった次第だ。

 企画チームの主任のデスク周りは秀吾が怒りで投げ散らかしたペンや書類で大荒れである。


「茯苓と霊芝の違いもわからない豚どもが! どうせ高級料亭で豚のエサを出されたって有りがたそうに食うんだろ!! だったら豚は豚らしく豚小屋に戻って豚のエサでも食って健康意識に浸ってろよ!!!」


 株主の耳に入れば即解雇の案件だろう。とは言え、


 茯苓と霊芝は確かに木も菌核も効能もまったくの別物であることは確かだ。


 加えるならば『万能薬』などこの世に一つたりとも存在しない。


 吸う酸素にも吐く二酸化炭素にも、すべての物に毒の面がある。

 我々生命体は皆、微々たる毒に適応し代謝する能力を以て生命活動を営んでいるのだ。その毒の製法や量を症状に合わせて使うことで初めて薬効と呼ばれるものになる。

 薬効が行き過ぎると『毒』の面が強くなるのだが、嘆かわしいことにそれをあたかも『副作用』とする者もいる。『副作用』は理論上の薬効と異なる経路で起こる反応を指し、もちろん過剰摂取により起きうることも事実だが、過剰摂取の場合は副作用ではなく『毒』の面が強く出ただけということも充分に考えられるものだ。

 いずれにせよ、薬や健康食品というものは摂らずとも健康ならば摂る必要はなく、摂りすぎて健康を害するのであればその量が毒なのである。


 無論、茯苓にも霊芝にも毒の面はあるということだ。副作用の報告がないことも事実ではあるが、過剰摂取や合わない体質に処方して毒と化すこともある。



 秀吾が上層部や株主への苛立ちから職場環境にまで差し障るようになったため室野社長は直々に企画チームに出向き、皆の前で言い渡した。


「奥さん、ちょっと旦那くんを気分転換させてきてくれない? 有きゅ…公休でいいからホント」


 そして二日間も休みが与えられ、周囲は羨ましく思うどころか一気に安堵。「千鶴さんまで休むのは痛いけど主任がいないうちに仕事を進めとこう!」 とまさに鬼の居ぬ間に集中し始めた。


 ---


 有給、ならぬ公休を利用して二日間の休みを得た千鶴は産婦人科へ定期健診に行くというので秀吾も付き添いに出た。

 また少しお腹が膨らんだ千鶴の体内をエコーで眺めたおかげなのか秀吾も少し落ち着いたようで、会計待ちの間に

「何かがそのお腹の中にいるってことはわかるよ、よくわかんないけど」

 とよくわからぬことを述べる。千鶴はフフッと笑い、「そんなもんよ」 とだけ返した。


 この沈黙が、秀吾は嫌ではなかった。


 地産地消に過剰にこだわった無茶難題を押し付けられている今、『薬膳』という文言を安易に付けた商品で茯苓を霊芝とまで偽り販売開始してしまえばそれを訴えられた暁に全責任を追わされるのは自分なのだ。社長も秀吾を失うのは痛手だと考え直したのだろう、少し冷静になれる時間を与えようと千鶴に委ねた苦肉の策はしっかりと昂じ、今まさに秀吾は千鶴の隣で束の間の平穏を取り戻している。

 千鶴の前では何故だか素直になれるのだ。


「……ちーさん、俺は金なんていくらでもあるから別に働く必要なんてないんだ」


「ええ、知ってるわ。ご両親も豊かだものね」

「……俺なんかいなくたってどうせ株主が会社を回すだろ」

「そうよね。(でもそれはプリンシパル・エージェント問題だけど)」

「今回の企画だって俺、別に頑張る必要なくない? 詐称の容疑で社会的に排除されるより先に辞めてやるほうが賢いだろ?」

「うん。(社長はそうならないように一旦休みをくれたのだけど)」


「キミは俺の味方でいてくれる?」


 プライドの高いナルシストが隣で弱々しくそう尋ねたからではない。千鶴の答えは初めから決まっている。


「そんなの当たり前でしょう? 確かに叱るときは叱るけれど、あなたの敵になることは絶対にないわ。だからもし周りが全員敵になっても私はシュウくんの味方でいるからいつも通りでいて」


 気休めではなく本心だった。秀吾もそれを実感した。秀吾の隣にいるただ一人の女性は絶対的な味方なのだと。だから秀吾も同じことを考えた。千鶴が未だに実家に行かないのは理由があるからだろうがどんな理由であれ何があっても自分だけは千鶴の味方でいようと。


 ここに生まれた小さな絆はこのあとすぐに会社のみならず町ごと大きな波紋を呼ぶことになろうとは、誰も知る由もないことだ。



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