第9話 本場のキムチと二人の距離感

 一緒に住み始めて早くもひと月が経とうという折、秀吾による『ヨメいびり』は尚も続いていた。

 だが毎度失敗に終わり、未だに千鶴ちづるを追い出すに至らぬままである。いびり方がとても稚拙であるということも一因なのだが。


 とある休日の朝の事だ。

 千鶴が家事担当の日、作られた朝食は白米に目玉焼き、ほうれん草のソテーと目玉焼き、そしてウインナーの炒め、と、市販のキムチだった。

 一見普通の朝食ではあるが秀吾は市販のキムチの上にパチンとかけ箸し、冷ややかな眼差しで嘲笑する。


「は。自分の家庭のキムチもまともに漬けられないなんて俺の嫁として認められないな」


 とんだ言い掛かりである。


「なんで韓国テイスト混ぜてくるのよ。ご両親アメリカ国籍でしょ」

「先に食卓に韓国テイストを混ぜ込んできたのはキミだろ」

「キムチぐらい日本の食卓にも並ぶじゃないの」

「俺は完璧主義なんだよ、なんで市販のキムチなんかに箸をつけなきゃなんないんだ」

「なんて幼稚なの? じゃああなたが漬けなさいよ、キムチを、本場の味で」

「言ったな? 後悔したって知らないぞ?」


 どこから来る自信なのかわけもなく威圧感を感じた千鶴はふとそれを真に受けてしまう。

 ―― (え もしかして韓国に住んでたとかホームステイで学んだとか? やけに自信満々ね)


 ところがそれもまったくと言っていいほどの見当違いだったようで結局は市販のキムチの素で漬けるのであった。


「ちょっと。完璧主義はどこに行ったのよ」

「韓国人だってキムチの素ぐらい使うだろ!」


 普通は唐辛子粉をメインとしイカや甘エビの塩辛、水飴などを混ぜてそれぞれの家庭の伝統に沿ったキムチタレを作り白菜一枚一枚に塗って冷暗所で熟成させるものだが当然秀吾がそこまで手をかけるはずもない。そのようなことぐらい予想がついたはずだが千鶴はこの大ぼらを信じ込んでしまった自分を今更ながら恥じた。


 が。市販タレもなかなかに美味いものだ。二人でしばらくキムチブームを堪能していた。


 しかし事件はまだ続く。

 白菜一玉分だったこともあり、保管場所がなく家中にキムチの匂いが充満したのだ。

 幼馴染の晴弘はるひろにも押し付けてみたものの何の戦力にもならず、近所に片っ端からお裾分けすることになった。

 なんとその上、同じマンションには在日韓国人が住んでおりキムチの漬け方を教えてくれてしまったことによって更にキムチが増え、溢れかえったのだ。


「キムチ屋さんになれるね」

「冷凍できるとか言ってたけど冷凍庫もいっぱいだしキムチくさいわ…」

 二人してキムチの香りの中、キムチ色の夕陽を遠い目で眺める日々が始まった。


 あろうことかしばらくキムチチャーハンやチゲ鍋が続いたため、『胃熱証』が生じてしまう事態にも陥る。口内炎まで現れる始末だ。

 韓国では食後のフルーツで胃熱を冷ましカリウムでナトリウムを排泄することで食事全体の調和をはかるが日本ではそのような食文化がないため韓国料理が続くと胃熱証が起きやすくなる。


 そこで恥を忍んで出た行動は、

「そうだ、社員食堂に押し付けよう」

 ルックスだけは食堂スタッフからダントツ人気の秀吾が珍しく顔を見せたことで押し付けやすくなり、すんなりと受け取ってもらうことができた。

 そしてそのキムチは社内でも好評となり、『本場のキムチが味わえる社食』として社外からも来客が訪れるようになったのだ。


 思いもよらぬ売り上げ貢献で得たわけもわからない達成感からか、二人はいつの間にやら互いへの不満が少し緩和し、話し合いの場を改めて設けることとなった。


 キムチの話ではない。


「ちーちゃん…だと年上に失礼か」

「人を孕ませておいてなんでそこだけ礼儀を重んじるのよ」

「千鶴…千鶴さん…堅苦しいな。ちぃ…」

「まって。嫌な予感する」

「ちぃかわ」

「絶対いや」


 呼び方の件である。

 結局千鶴の呼び名は『ちーさん』に収まり、秀吾の呼び名は本人たっての強い希望により『シュウくん』に強制決定した。


 呼び名が決まるとまた少し距離は縮まる。

 もう『ヨメいびり』や『追い出し作戦』などすっかり忘れたように週末には秀吾のほうから「お互いの趣味を隔週交代で体験し合ってみよう」と歩み寄ってきた。

 今までの距離からすれば奇跡に近い話である。


 まだ就寝の消灯については話し合ってもいないが、これもおそらく一日交代で薄明かりを点ける日と真っ暗に消す日で分けることだろう。


 とは言え、二人の間に愛の文字が生まれる日が来るのかと言うと、依然想像だにできないことである。



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