第8話 互いの不満

 同居を始めて早々から反りの合わないことに気付いた二人。

 特に千鶴ちづるの言動一切が神経質な秀吾しゅうごに障り、千鶴にとっては神経質を振舞っている秀吾の行動が逐一目につくようだ。


 秀吾にとって千鶴は安らげるような相手ではなかった。目の上の瘤、ならぬ、目の中に入った塵のごとくチクチクとした存在である。

「物を幾つも持ち出すからと冷蔵庫を開けっぱなしにしないで。電力も馬鹿にならないのよ」「トイレの蓋は使い終わったら閉めてくれるかしら。次に使う人への礼儀として承知おきしてほしいの」「買い物をするときは小銭のほうから使ってくれない? ジャラジャラと小銭が溜まる一方よ」

 ―― (我慢。我慢だ。俺の最終目標 華やかな終末のためにも…!)

 華やかな終末、目標、とは。千鶴から妊娠報告を受けた際に秀吾が休日返上で一人悩みに悩んだ (本人の中では) 末、結婚を決定づけた結論のことである。(第二話参照)

 ――『多くの愚民のように慎重になりすぎて先延ばしにするほど老後が押していくんだ。若く美しく負担の少ないときに全部終わらせて余生も周囲より若々しく美しく生き生きしてるほうがいいに決まってる!』

 あまりに不純で利己的なそれは本人も自覚しているためか千鶴には当然伝えていない。あくまでも結婚に愛と責任感の二点など不要だと言わんばかりの確固たる信念が秀吾をかろうじて夫たらしめている。


 神経質、もとい干渉嫌い、もとい自己中心的な秀吾にしてみれば千鶴の一挙一動が衆合しゅごう地獄なのだろうが、千鶴にとっても秀吾は難解な成人を育児し直している気分でたまったものではない。

 水道光熱費や家賃もまた収入加減で分ける旨を規約に入れて承諾したものの、支払う分母は同じであり分子だけが膨らむのだ、フェアとは呼べまい。トイレの蓋も男性一人暮らしならではの『二段目開けっ放し』、掃除は行き届いているものの男性が使用したあとのトイレに入るや便座二段目を毎回わざわざ降ろして使わねばならないのは衛生面でも酷である。「座って用を足して」の一言はさすがにプライバシーの侵害に当たるためつぐんでいる代わり「蓋をして」と告げてみたが依然馬耳東風である。買い物にしても共有のスマホ決済やカードの登録がすべて終わるまでは現金払いとしているが秀吾は今まで個人のスマホで決済することが多かったためやはり面倒くさがり毎度一万円札だけを出していくのだ、小銭が増えることを指摘した限りには「自動精算機なんだからこうすればいいだけじゃん」とすべての小銭を一気に流し込んで両替しようとし目詰まりのエラーを起こして客の列まで詰まらせる始末だ。

 感情に乏しい千鶴が他人に対して初めて強く抱く『もどかしさ』である。


 もどかしさゆえ、千鶴は秀吾にとって決定的な一言を発した。

「薄っすら灯りを点けると眩しくて眠れないの。消してもいいかしら」


 ―― (このクソ嫁! 俺は最善を尽くしたぞ! なら手早く『不一致』を理由に絶対に追い出してやる…!)


 初志貫徹の文字は秀吾にないのか颯爽と信念を捻じ曲げ、目的は自身の『今』の安寧のみに移行していた。


「ニンジンきらい」

「わがまま言わないで。ニンジンにはカロテンがたくさんあるでしょ」

「レバーを食べたほうが効率がいいんだよ、レバーも嫌いだけど」

「そんなこと言ってると視力落ちるわよ」

「口にするもの一つにまでとやかく言うなよ」

 現に夜盲症 (※) の傾向があるため微量にでも点灯していなければ安心して眠れない、つまり生活に支障をきたしているのだ。千鶴は電気を消して眠りたいよりもそれを懸念して配慮したつもりだったが秀吾にとっては大きなお世話であり生涯常夜灯でよいと開き直っている。

 (※) 夜盲症:ビタミンA群の欠乏により暗闇で光の調節ができず目が見えにくい栄養失調症のひとつ。


 緑黄色野菜やミカンなどに多いβ-カロテン。

 これは All-trans- レチナールに変換を受けたのち、暗闇下での動物体内では 11-cis- レチナール、続いて最終産物ロドプシンへと代謝を受ける。この速さが光の速度であるようにまさにロドプシンは網膜における光の感知に関与する因子であり欠乏すると夜盲症にまで進行してしまう必須栄養素なのだ。植物由来では一段階多いステップを踏むが、レバーにはビタミン A (レチノール) の状態で多量に存在しているため夜盲症対策として鶏レバーなどの摂取は実に効率がよいと言える。もちろん過剰摂取は肝障害のリスクを高めるため一日の上限量は厚生労働省により決められている。

 東洋医学の五行図においては『肝臓に良いものは目に良い』とされる。それは毛細血管の多い網膜の血管壁を保護する意味でも通ずるが光を調整するレチノールの存在にも依存していると考えられる。したがって肝臓の代謝を助ける枸杞子や菊花だけでなくレバーや緑黄色野菜もまた目に良いとされているのはそれが所以だ。ただし枸杞子は肝氣の鬱滞が生じている者に用いれば毒となり肝硬変や脂肪肝のリスクを高め、菊花もまた摂りすぎは肝や肺の熱を逃がし全身を巡る氣を冷やすため肺の気虚や陰虚を患う者に用いるのはあらゆる病原体への抵抗力を失うことに繋がるため危険である。


 いずれにせよ秀吾には禁忌も当てはまらぬ上、千鶴の言葉が本当に根拠あっての理屈だと熟知はしているが

「せめてパプリカぐらいは食べてくれる? 少しでも視力を維持したいでしょう?」

 このように根拠を以て言われると余計反抗したくなるというものだ。


「迷信だよ迷信。一度や二度食べたからって変わるわけないだろ」

「その一度や二度を甘く見て積み重ねた結果 未来が大きく変わるのよ。脂溶性ビタミンであるほど遅効性のものが多いじゃない」

「ならルチン (ルテイン) があるだろ? 食事にオリーブオイルを使ってデザートにブルーベリーでも食べれば問題ないじゃん。サプリメントだってあるしさあ。わざわざニンジンとかパプリカなんかにこだわる必要はないんだよ」

 聞くに耐えない争いである。ニンジンやパプリカを食卓から排除するためだけに知識を駆使して論破し、最後に妻をも排除しようというのだ。


 妻の排除はさておいて秀吾の言い分も間違いではないが欠点も多い。毎日欠かさず同じものを摂り続けるより一番健康寿命を伸ばす方法は人体の持ち得る別の代謝経路も定期的に動かすことであり、つまり

「外気 (季節) の流れに従って旬のものを含めあらゆる食材を満遍なく摂り続けるのが一番に決まってるでしょう」

 そう、まさに千鶴の言うこれが『薬膳』というものだ。

 秀吾が自ら述べておきながら (第四話参照) 今まさに口論中に易々と覆し、あまつさえサプリメントまで持ち出そうとする始末。サプリメントは確かに『足りている』者には必要ないが『欠乏している』者が補うには便利である。

 が。

「あら? まって、そもそも主任がサプリメントを飲んでるところすら見たことないわよ」

「当たり前だろ面倒だし。それでも生きてんだから問題ないじゃん」

 この傍若無人クズぶりには日ごろ淡々と業務をこなすタイプの千鶴でさえ物理的に匙を投げたくなるものがあった。



 このようなギスギスとした二人の間に、微細だが変化が訪れる。


「千鶴さんって、主任からは家でも千鶴さんって呼ばれてるんでしょう?」

「逆に千鶴さんは何て呼んでいるの?」


 同僚たちはいつまでも『和泉いずみさん』と呼ぶことに抵抗を感じ『赤羽あかばねさん』に改めようとしていたところ、秀吾が敢えて皆の前で『千鶴さん』と呼び、それにならって皆もそのように呼び始めた。

 家庭でも秀吾が『千鶴さん』と呼んでいるのだと誰もが疑わなかったが、その実ずっと『和泉さん』のままである。千鶴は気に留めていなかったが実際に問われると家で『主任』と呼んでいるのもおかしな話だ。


 何と呼べば、と模索する中で引越しの際 矢倉やぐら晴弘はるひろが初対面で開口一番にかけてきたジャブを薄っすらと思いだす。


=====

「本当にクズが申し訳ございません !」

「呼び方」

「被害者である姐さんに対してこんなこと言える立場じゃありませんけど、シュウの捻じ曲がった性根を治してやってくれませんか」

 幼馴染というだけで家族でもない赤の他人が代わりに謝るという事実に戦慄さえ覚え「そのクズ男が自立できない原因が今わかったわ」と呟いた。ついでながら晴弘とすぐに打ち解けられたのは次の会話である。

「姐さん…あんまりあのクズをクズとか言わないでやってください。そのうちアイツがクズ呼ばわりされてることにハッと気付いたときプライド傷付いて泣いちゃうと思うんで」

「どこから突っ込んだらいい?」

=====


 夫は妻をクソ嫁と呼び妻は夫をクズ男と呼ぶまでに事態がこじれた最中。

『シュウ』

 このような愛称は特別じゃなければ許されないと感じた千鶴はまず許可を得られるのかどうか確かめるべく、給湯室で秀吾と二人きりになった折にそれとなく話題に出してみた。


「主任。最近みんなから自宅での呼び方を尋ねられるの。どう呼んでることにしたらいいかしら」

「?? まあ呼びたいように呼びなよ (呼び方なんか今更変えたってどうせ追い出すし)」



「じゃあ、晴弘くんと同じように『シュウくん』って呼んでもいい? 一応許可を取ろうかと思っ……」



 どうやら後半のセリフは聞こえていない様子の秀吾は黒曜石のような瞳を丸く見開いたまま給湯室から飛び出していった。結局、いいのか悪いのか千鶴には全く分からなかったのでひとまず『秀吾くん』と呼ぶようにしようと検討中である。


 だが当の秀吾の中ではすでに『シュウくん』に決定しておりその日のチームメンバーはホラー映画のような仄暗い寒気を共有することになる。

「赤羽主任、ついにブライダル症候群になっちゃったんでしょうかね」

「マリッジブルーって言わない? 普通」

「やたら優しくて上機嫌で光に満ちたジョークを飛ばしてきましたよ気持ち悪い」

「俺なんて企画書に一切何も言われなくてそのままパスだった。主任がパスしたからって理由で部長をすっ飛ばして専務のところにまで通ってて…あとが怖すぎる」


 嬉しかったのは間違いないようだ。秀吾はその夜、自らニンジンとパプリカのマリネなど作り、枝豆とハマグリの和風ペスカトーレの添えにして「ほらキミの好きなニンジンだよ千鶴さん」と差し出し自分もスパークリングワインを片手に食卓を囲み普通に食していた。

 ―― (ま~こんなクソ嫁でも『シュウくん』なんて呼んできたら可愛く思えるってもんだよな~。追い出すのは少しだけ待ってやってもいいだろう)


 上機嫌にペスカトーレをスパークリングワインで流し込む秀吾の傍ら、千鶴は思わず涙ぐんで顔を覆う。



「……料理、……これだけ出来るなら早く言ってよ……主任」



 秀吾がニンジンを食べた、という目覚ましい進歩よりも今の今まで料理だけは頑なに千鶴に押し付けていた秀吾が憎たらしくてたまらず呼び方の件など完全に忘れ去ったようだ。

 先はまだ長い。

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