第15話 ヨメから妻へ

 それは七月、千鶴ちづるの妊娠六カ月目のことだった。

 職場のコピー機の前で座り込み、動けなくなったのだ。「大変! 千鶴さん!」そのチームメンバーの叫びを聞き、真っ先に仕事を放って駆け付けたのが他の誰でもなく、秀吾しゅうごだった。大きな取引先とのオンラインミーティング中だったにもかかわらず、である。代わりに秀吾よりも上の部長が慌てて秀吾の席に座り、謝罪を述べていた。


 あとで公私混同で処罰を受けることは目に見えているが秀吾は始末書で済むのならと千鶴を優先した。おそらく以前では考えられなかった姿だろう。

「浅いけどちゃんと呼吸してるな、脈も弱いけど乱れてない」


「主任、救急車呼びますよ!」

 脈診する秀吾に最初千鶴を発見したメンバーが声掛けし、電話をかける。その間秀吾は意識確認に取り掛かった。

「俺の言うことわかる?」

 千鶴はか細い息を繰り返すも、頷いた。

「痛みは?」

 その問いに首を横に振る。

「ごめんけど確認するよ」

 スカートに手を入れ下半身を触る。

 そしてすぐさま通話中の女性職員に告げた。


「妊婦の意識障害、意識レベルは JCS で II-10 程度、脈は浅いけど速度は正常、痛みと下血は無しって伝えといて」


 いつも以上に張りのある声に皆 動揺が落ち着いていき、通話中の職員がその旨を救急隊員に伝える。

 ミーティング中の取引相手も何が起きたか察したようでむしろ取引よりも興味を引いている様子だった。相手をしている部長は「いや、本当にご無礼を申し訳ございません」と苦笑いを浮かべる。このようなは未だに存在しているということだ。


 そこに現代日本のまで加わる。

 大抵、このように体調不良者が出た時はのが一番だと現代日本の誰もが知っている。その美徳をもつすべての者は、道端で誰かが倒れている場面に居合わせても決して触れることはせず傍観しながら見届けるのだ。


 これが日本の常識である。


 それゆえ身体調査にまで乗り出た秀吾には皆も困惑し、慌てて牽制にかかった。

「主任! ここは何もせず大人しく救急車を待ちましょうよ!」

「そうですよ、医師免許もないのにこんな医療行為やっちゃダメですって!」

「自分の奥さんだから良いと思ってるんじゃないですよね!? 千鶴さんに何かあったらどう責任とるんですか!」

「何もしないのが一番ですって!」


 対処するのが偉いのではない、救急車を呼んだあとは遠目から見ているだけ、それがたる手本である。


 それらの言葉を一掃したのは秀吾本人の一言だ。


「病人の前で騒ぐな。お前らにとっては傍観するのが常識なんだろうけど俺は良いんだよ、夫婦だからじゃない、だ」


「まためちゃくちゃな理屈でこの人は…」

「人の命まで左右するなんて有り得ない」


 何の根拠もないが、これが『ですよね』と緊張を和らげる。インカムを使用していなかったためこれらの背景音は取引先に筒抜けだった。そしてどうやら交渉成立したようだ、部長も大喜びである。


 一方、救急車が来るまでに千鶴の体を支えて抱きしめながら背をさすり、

「平気だよ、子供もきっと無事だ。キミは強いから、この子も丈夫だろ? もう少しで精密検査ができるから安心しなよ」

 落ち着いた声でゆっくりと、ひたすらそう語りかける秀吾の腕の中で顔色が戻っていく千鶴。その様子を傍観する者は少しだけ千鶴を羨ましくも感じていた。


 現代日本においては傍観するほうが『正義』であるが、その『正義』を貫かれた病者にとっては『悪』に等しい。何もされず通り過ごされるよりも間違った方法でもよいので、いや、そばにいてくれるだけで『正義のヒーロー』とさえ映るものなのだ。それで危険に陥ったとしても恨みはしない、危険に陥れたとして罰せられる者に対しては心底申し訳ないのだが、間違いでも構わない、ただその恩は決して忘れない、と、死と隣り合わせの者はそう思うものだ。

 無論、ほどこしを受けた者にとっての『正義のヒーロー』が本当に失敗した際、された側は恨まないにせよ、した側は『犯罪者』となる。

 嘆かわしいことではない、これが時代というだけのことである。



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「母子ともに問題ないです。やや貧血傾向があるので危険と言えば危険ですけど点滴中にフェロミア®️も打っておいたので少しずつラクになるはずですよ。できるだけ安静にして。レバーや赤身肉を摂るとか、苦手ならホウレンソウや金針菜なんかを摂るのもいいですし、植物で鉄分を摂るならアレルギーがなければ一緒にササミや大豆、プロテインでもいいのでタンパク質も摂ってくださいね。鉄だけ摂ってもヘモグロビンを構成するのは結局タンパク質ですから動物肉が一番ですよ。妊娠中ってとにかく胎児にも胎盤にも血を使うので産後ぐらいまでは成人二人分くらい必要になりますからね、って、釈迦に説法かしら、センセ!」


 女性医師は点滴中の千鶴に付き添う美青年に愛想を振りまいた。

「このお方がウワサに聞く奥様ですね!」

 ニコニコとプライバシーの侵害にかかってくる。秀吾も千鶴も慣れているが今は相手をする気力はない。

「わかってるなら空気読んで休ませろよ」

 秀吾のその威嚇に怯む様子さえ見せず医師はグイグイと発言を重ねた。


「おお~、聞きしに勝るナマ毒舌! いいですね~! それに、おさすがでした。普通は誰かが…特に妊婦さんが倒れたらどうすれば良いか分からないものですからね。こちらが先に知っておきたいことを電話ごしに指示したのって王子ですよね? 救急隊員も対処を搾ることができたので助かりましたよ! しかも本物は動画やホームページで見るよりイケメンで何だか得した気分! 薬膳スムージーも看護師さんたちに人気なんですよ~!」


 その褒め言葉の連続に秀吾は椅子から立ち上がり、切なげな表情で髪を掻き上げた。

「あ〜、困ったな。こんな大きな病院にまで俺の存在が轟いてるなんて。もう外を歩けないじゃん」

 この非常事態に自己愛主義ナルシズムの発動である。批判されると倍返しをする秀吾だが、おだてられてもまた避けられないのがこの幼い頃から培われてきたナルシズムなのだ。


「わぁ…旦那さん大丈夫ですか? 脳神経外科紹介したほうがいいです?」

「いえ、これが彼のまともな状態なので結構です」


 毒舌で有名になった秀吾だが、ナルシストであることは認知されていない。


 さらに言うなれば薬膳王子あらため毒舌王子となったが、それもあらため、もうすぐ『王子』として有名になりつつあることを本人は知らない。


 新規アロエの件も依頼された植物分類センター側が「毒薬王子が毒物を薬物利用しようと我が社に依頼してきたけどこれは取締り案件ではないだろうか」などと慄いており、それをセンターの従業員の一人がネットで呟いてしまってまことしやかに水面下で拡散していた。もはやそこらの底辺芸能人を超越していることに気付いていないのは本人とその周辺だけだった。


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 千鶴の点滴が終わるころ、秀吾は千鶴の手を握り、ふっくらと大きくなった腹を撫でた。


「あのさ、ちーさん。……俺ね、本当はめちゃくちゃ怖かったよ」

「うん」

「こんなの初めてだ」

「知ってる」

「経験したこともないしさ」

「そうよね」

「でも、キミとこの子が俺の家族なんだってちょっと実感湧いた」

「私も、あなたが夫なのだと感じたわ」

「もう仕事は休もう。今まで分担してた家事もやっぱり俺がやるからさ。キミはたまにでいいから料理を作ってくれるぐらいでいいよ」

「でもあなたが大変でしょう?」

「別に? ずっと今まで一人でやってたことだし……料理以外」

 千鶴はクスクスと笑った。『料理できるでしょ』という言葉はもう呑み込んでやるのだ。この幼いクズのために。

「それじゃあお言葉に甘えます。でも料理のほかにも出来る時は私がやるわ」

「キミは二人分の人生を生きるだろ、そこに別の作業までしたらしんどいじゃん」

「そこまで大袈裟じゃないわよ、お医者さんが言ってた通り貧血に気をつけながら生きるから、大丈夫」


 実際は秀吾の言うことも最もなのだ。

 人の腎は二個、その腎の精、つまり生命力によって人は生かされている。だが男性も女性も腎臓は同じ二個、つまり妊娠中の女性は、男性と同じ腎精二個でも自分と子供、二人分の生命を養うのである。

 それを秀吾が理解しているだけ、性格がクズなりにマシかもしれないというものだ、クズでなくとも知識のない男よりは。


「血の成分を摂っても血を作れなきゃ意味ないから、ちゃんといっぱい睡眠取って、造血作用のある棗も摂るんだよ。睡眠不足で骨髄からの造血が鈍くなるから人の二倍は寝るんだ」

「そんなんじゃ私、ずっと寝てなくちゃならないわ」


 睡眠不足や過労による貧血では鉄分の豊富な食材で血を補えばいいだけではなく血を作るもの、棗(大棗タイソウ)や竜眼肉リュウガンニク、それに加えて血を巡らせる当帰トウキ紅花コウカ芍薬シャクヤク白桃花ハクトウカなどを同時に摂るのが理想である。が、胎盤は血の塊であるためそれを溶かす(喀血作用のある)血を巡らせる食材は禁忌であるためあくまで一般人に対する理論である。

 妊娠中に補血をし、それを巡らせる場合、血を蓄える肝と水を巡らせる腎の氣を補う杜仲トチュウなどが無難である。実証でむくみがひどい場合は杜仲をやめ蒲公英ホコウエイに変えてもよい。反対に、むくみ対策と言って薏苡仁ヨクイニン(ハトムギ)を摂ると今度は胎児を異物とみなし瀉下に働いてしまうため禁忌である。



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 この日の家事担当は千鶴だったが夕食は秀吾が作るのだと言い張ったので根負けし、お任せすることにした。


 二人で帰りにスーパーで夕食の買い出しをしながらも秀吾は千鶴の様子を伺い、「冷蔵コーナーは冷えるから」と過保護なまでに気を遣う。そして時々、ふと目が合うと黒曜石のような瞳を細めて整った顔をほころばせるのだ。

 そこで千鶴は気が付いた。

 今まで秀吾がよそよそしかったのは態度を変えるきっかけを探していたのだと。

 お互い確かに距離は縮まったようだったのに、それを表に出す手段を二人して知らずに生きてきた。それゆえ溝が出来たように感じていたのだ。


 それが杞憂だったことに気付いた千鶴は、秀吾の荷物を持っていないほうの手をそっと握り、二人で手を繋いで帰宅した。



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