第3話
十二個ある居住区は、黄道十二星座の名前をそれぞれ割り振られており、
「アクアリウスとアリエスで間違えてますね、賀来さん」
「……すみません」
オープニングスタッフの瀬川さんに指摘されて、明賀はそんなことを考えながら頭を下げた。本来ならアリエス区に配送してもらうべき飲料商品を、住所指定を間違えてアクアリウス区に配送してしまった、つまりは発注ミスである。アクアリウス区にはほとスペ店舗がないので、存在しない住所への発送ということになったのだ。幸いにも軌道流通システムのオペレーターがミスを発見して、すぐに連絡をくれたので、一万五千キロ離れたアクアリウス区に商品が誤配送されてしまうという最悪の事態は避けられたのだが。
「ただ――定期運輸便に間に合わなかったので、今日はドリンク系の補充はできないですね。棚がスカスカになっちゃいますがどうしようもないです」
「うう……すみません」
「謝ったって仕方ないですよ。外に張り紙しておきます」
瀬川さんは淡々とした口調で言って、バックヤードを出ていった。怒られたわけではないが、瀬川さんは口調があまりにも平坦なので、なんとなくやりづらい。こちらが勝手に叱られた気になってしまうし、それが被害妄想なのは分かっているし、ミスをしたのは事実だしで、眉間をシワシワにしながら明賀は制服に着替えた。アクアリウスとアリエスという、いかにも取り違えそうな命名に内心で八つ当たりするくらいしか、感情の吐き出しどころがない。
カウンターの辺りで瀬川さんが作業をしている。なんとなく近寄りがたくて、外の掃除でもしておこうと明賀が出ていくと、金属格子の前に、あの水色のジャンプスーツがいた。爪先だけを床につけて、なかば浮いてるような姿勢で、計七カ国語で書かれた張り紙を眺めている。
「あのときの店員さん。おはようございます」
「あっどうも、……おはようございます」
明賀はぼやけた調子で一瞬唸ってから、一泊三十万円、の呪文を思い出して笑顔を作りなおす。失態でべこべこにヘコんだ顔は、お客様には見せられない。ましてや相手は宇宙時代のホープ、知多ミシルである。別になんの利害関係もないけど、少なくとも彼女からの覚えが良いことは、弊ほっとスペースにとって損にはならないはずだ。
「お掃除ですか?」
濡らした雑巾を手に持っているのを目ざとく見つけて、ミシルが尋ねる。
「わたし、邪魔でしたら、退きます」
「あー……いえ、看板を拭くだけです」そう言って、明賀は姿勢制御用のバーをたどり、天井付近によじ登る。片手でバーを握り、もう片方の手で看板を拭くというサーカスみたいな芸当も、微小重力下なら難しくない。青とオレンジでデザインされたほっとスペースのロゴが大きく記された看板を拭きながら、明賀は横目にミシルを見る。彼女は、明賀の邪魔にならないよう通路の対面に移動しながら、店内をじっと眺めているようだった。よく見ると、栄養食のクッキーを片手に持っている――食事の途中らしい。
「……開店はまだですよ」
前もそんなことを言ったな、と思いながら、思わず明賀はそう言った。拭き掃除が終わったので、バーから手を離して床に下りる。言われたミシルは、え、と目をひとつ瞬かせて、ああ、と頷いた。
「分かってます。十時ですよね。ただその、見てるだけです。お邪魔でしょうか?」
「いえ、邪魔とかでは……。見てるだけ、ですか」
景色を肴にするなんて、桜か紅葉くらいしか聞いたことがない。コンビニのマニアというのは、そりゃあ探せばいるだろうけど、知多ミシルも実はそういう趣味なのか。明賀の不審げな目つきに気がついたのか、ミシルはあどけなさが残る目元をにっこり細めて「ほとスペができたの、嬉しいんです」と付け足した。
「あの……。わたしたちって、なんていうか凄く、宇宙を
ふわ、と軽くジャンプして、ミシルは言う。
「ここには土も森も海もないし、和菓子屋も、フェス会場も、コスメカウンターもない」
「はあ」知多ミシルの口から出てくるにしては俗なワードに思える。「そうですね。アース・リングに、和菓子屋やフェス会場やデパートのコスメカウンターがあってほしい、というお話でしょうか?」
「あったら嬉しいです」ミシルは頷く。「でもアース・リングは、あくまで研究都市であって、宇宙開発のための基地ですから、そのような文化の裾野が広がることはないでしょう」
「……そうですね」
そりゃそうだ、と思う。研究所内に和菓子屋やフェス会場やデパートがあっても、採算が取れないのは分かりきっている。向こうが言い出したことを反復しただけなのに、なんだか恥ずかしいことを言った気がする。誤発注に始まり、今日はなんだか肩を縮めてばっかりだ。明賀が声のトーンを落とすと、ミシルはふっと柔らかく笑って、
「だから、コンビニなんです」
と、今しがた拭き終えたばかりの、青とオレンジの看板を指さした。
「どこでも同じような看板で、同じような内装で、同じような品揃えでしょう。わたし、それが好きなんです。世界のどこにいても、コンビニは変わらない、馴染み深い景色で……。大学に進学したときも、渡米したときも、コンビニだけは変わらなくて。コンビニって、どこにでもいてくれる故郷みたいだなって思うんです。アース・リングに来たときは、ついにコンビニがない場所に来ちゃったなって思ったけど――」
えへ、とミシルは頬を持ち上げて笑った。
「ほとスペがわたしを追いかけてきてくれました。だからもう、アリエス区はわたしの故郷です!」
「知多さん……」
天真爛漫な笑顔に引き込まれつつ、でも、と明賀は思わず問いかけていた。
「なら、店舗に来て下さらないんですか。プレオープンしてるのに、今まで一度も……」
「行きたいですよ。買いたいものいっぱいあります。でもわたし、九時半から十四時まで、訓練とディスカッションが入ってるんです。……って、あ、まさに時間ですっ、そろそろ行かないと!」
壁掛けの時計――ほとスペ全店で共通したデザインの、丸い時計――は、九時十五分を差していた。知多ミシルはクッキーの包装紙をオーバーオールのポケットに突っ込むと、すみません失礼します、と早口に言って通路を駆けていった。表情も所作も、まるで旋風みたいにくるくると動き回る。火星に一番近い日本人、というキャッチコピーを明賀は思い出していた。宇宙を揺蕩う、なんてどこか夢見がちな表現のまま、知多ミシルは人類未到の星に手を伸ばそうとしている。その足取りに誰も追いつかないのだと思っていた。けれど。
「……故郷、か」
青とオレンジの看板を見上げて、明賀は呟く。手に握る冷たい雑巾の感触が、不意に、誇らしいものに思えてくる。
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