第2話

 二一三一年、一月。


 年明けを赤道上空で迎える日が人生に訪れるとは思わなかった。壁一面のビューウィンドウに貼りつき、地球の影から太陽フレアが滲み出てくるのを眺めながら、果たしてこれを初日の出と呼んでいいのだろうか、とアスは考える。大気のない宇宙のなかに浮かんだ、二十四時間のあいだ稼働し続ける生命圏維持装置エコスフィアサポートは、つねに夜のようでもあり、つねに昼のようでもある。


 ――田中くん。カノジョと年越ししてますか。


 明賀の異動を聞いたとき、誰よりも羨ましがっていた同僚の顔を思い出して、明賀はため息を吐く。田中くん、アース・リングの生活は、君が思うより安っぽいですよ。マジで君が、私の代わりに異動してくれたら、どれだけ有り難かったかって話なんですがね。ため息とともに、明賀は、「ほっとスペース/アース・リング軌道アリエス店/スタッフ」と印字された胸元の札を突いた。


「アース・リング第一号店のオープニングスタッフ!?」


 あの日、田中くんのでかい声が、クリエイティブ企画本部のオフィス中に響いた。


「えー、僕っ、僕それ、行きたいです課長!」

「課員の異動希望はできるかぎり尊重ってスタンスですよね」


 口々に希望を申し立てるも、課長は譲らなかった。曰く「これは社長直々のご指名だから」「宇宙時代におけるほとスペの行く末を左右する重大プロジェクトだから」とのことである。先に申し上げておこう、明賀は別にそこまで仕事の成績が飛び抜けているわけではない。平均よりは多少できる自負はあるし、要領はいいと思う。でも多分、社長が明賀に目を付けたのは、そんな理由ではない。


「――それに賀来くん、U市工大の出身だろう?」


 うわぁやっぱり、と明賀はそのとき頭を抱えたのだった。「大したことないですよ」と早口に言う――これは謙遜とかじゃなくて、本当に、大したことがない。そのうえ明賀は、入学試験の点数も、期末試験の点数も、どちらかといえば下から数えたほうが早かった。思いがけず気の合う指導教員と出会ってしまったせいで、うっかり大学院まで行ってしまったけど――ともかく明賀も、母校のU市立工科大学も、アカデミアで賞賛を受けるような地位にはない。


「普通大学の普通学部の普通の学生でしたから!」

「まあ確かに、君の受験した年度の偏差値は、そこそこなんだけどね」それはそれで失礼なことを言って、でも、と課長は鼻息を吐いた。「偏差値ってのは入りたがる人の数で決まるからね。今じゃ立派な人気名門大学だよ――どこの学習塾もU市工大の入学者数を看板に掲げてる。いわば君は、学歴の先物買いに成功したってことだよね」

「成功……。はあ……」


 保戸田社長、どうか入学年度くらい調べていただきたい。


 なんて、社長に直訴できる訳もなく。明賀は「無茶な異動をゴリ押しする盾にされるのが、果たして成功なんですかね?」という皮肉を最後に、クリエイティブ企画本部から一時追放され、あれよあれよという間に特別研修センターにいた。この時点で日付は十二月七日。そこから十日間は休んだ記憶がない――ずっと訓練を受けていたのだ。微小重力下での移動方法、筋肉を維持するための日々のルーチン、無国境地帯において国際秩序を保つためのルール、絶対に開けちゃいけないハッチと押しちゃいけないスイッチ――そんなもの作るなよと明賀は思ったが要はマンホールと非常停止ボタンですと言われて飲み込まざるを得なかった――他多数。頭が筋肉痛を起こしそうな目まぐるしさだったが、そう言っても十日で宇宙に旅立つ準備ができるのは、前時代からすえば考えられないことだという。


 宇宙のコモディティ化って言うらしい。つまり一般化、普遍化、大衆化。


「やはり――アース・リングの建設が、地球と宇宙の距離をぐっと近づけたんです」


 赤道上のエレベーター・ポートで、明賀を受け入れてくれたスタッフが、そう言って笑った。トロピカル感溢れる鮮やかな青空を、白いラインが一本、端から端まで貫いている。あれがアース・リングだ。あそこはもう宇宙なのだと思うと、たしかに宇宙って思ったよりも近いんだな、という感覚になる。実際、エレベーターに乗り込んでからはすぐだった――高度に応じてどんどん重力が弱くなっていき、およそ一日後、明賀は地表からおよそ一万キロ離れたアース・リングにいた。


 到着翌日、十二月二十五日。


 地表の五分の一ほどになった重力に感動している暇もなく、仕事が始まった。地表ではクリスマスとか呼ばれる日だったはずだが、軌道上には飾りのひとつもなかった。いわく、大概のイベントは宗教と紐付いているため、共用区域では無用なトラブルを回避するために一切のイベントごとが禁じられているのだという。暦から季節のイベントを逆算してプロジェクトを滞りなく進めるのが今までの主業務だった明賀からすれば、畑違いも良いところで、ますます「なんで私が」という思いが強くなる。


 いや……理由は分かってる。


 分かってるんだけど。と私は無関係なんです、社長。


 とはいえ、まさかアース・リングまで来ておいて、モチベーションが上がらないということを理由に仕事をサボるわけにもいかない。一般客が一日あたり三十万払って観光する場所に、いま明賀は会社の経費でやってきて、そのうえ特別手当までせしめている。手を抜いたら、田中くんと田中くんのカノジョと、その他多くのツアー参加者に、銃口のひとつでも向けられそうだ。ゆえに明賀は普段の三百パーセント増量できりきり働いたし、同じくオープニングスタッフとして招集されたほとスペ社員には「名誉ある幸運なことですね!」という態度で振る舞った――ほかのオープニングスタッフたちは、それこそ田中くんみたいな趣味嗜好の持ち主ばかりで、自己推薦のうえ厳しい倍率を勝ち抜いて配属が決定した人々だったからである。


「……はー……」


 誰にも愚痴を言えない環境は、思ったより心身に堪えた。


 一月一日。地球のシルエットの向こうに太陽が出てくるのを眺めたのと、パウチの餅入り味噌スープを飲んだことだけが、明賀の正月だった。現在ほとスペ店舗はプレオープンの状態にあり、一日のうち三時間だけ試験開店をしている。もうすぐ開店時間だ――と、まだ慣れない微小重力下を移動していくと、店舗の前に誰かがいた。ほとスペのオープニングスタッフかと思ったが、違う。水色のジャンプスーツを着て、黒髪をボブの長さに切り揃えており、なにか真剣な顔をして店舗を眺めていた。


「あの……すみません、入ります」


 見たところ日本人だろうと踏んで、明賀は声を掛ける。「なにか御用でしょうか」と付け足したところで、その女性は明賀を見た――視線が合い、彼女の顔を視認した瞬間、明賀は思わず「うわっ」と零していた。


「……チタ・ミシル?」

「あっどうも、知ってもらってるんですね。……えへへ」


 明賀の反応は、ほとんど「げっ」というニュアンスだったのだが、計算か天然か、彼女――ミシルは面映ゆそうに笑った。知ってるも知らないもあるかい、と明賀は内心でぼやく。知多ミシルの顔も名前も、彼女がアリエス区にいることも、明賀はとうの昔に知っていた。


 そもそも明賀がアース・リングに配属されたのは、知多ミシルのせいなのである。厳密に言えばミシルが、明賀と同じU市立工科大学の、同じ物理工学科の、同じ第百二十九期生だからである。ただしミシルは明賀のように留年なんてせず、学位を取ったあとに海外に飛び、飛び級で博士を取った。そして宇宙開発機構にスカウトされ、アース・リングでの研究チームに選抜され、この辺りからニュースでも多く名前を聞くようになり、今では、火星に初上陸する日本人の第一候補と噂されている。知多ミシルを排出したことで、U市立工科大学の知名度は飛躍的に上昇し、入試偏差値はこの十年で二十も上がったのだ。


 ――あんたのせいで私は。


 恨み言のひとつでも言いたくなるが、アース・リングに住んでいる以上、知多ミシルはほとスペのお客様である。明賀がぐっと堪えて「開店は十時になります」と言うと、はい、とミシルは笑顔で頷いた。今どき小学生でもしないような、眩しい笑顔だった。


「知ってます。ほっとスペースが出来るって聞いて、すっごく、楽しみにしてました」


「はあ――」雑なため息をつきそうになって、一泊三十万円、と明賀は内心で唱えて、営業向きの声と笑顔を作り直した。「心待ちにしていただき、ありがとうございます。お越しくださるのを店員一同、お待ちしております」


「えっと、……ええ。ありがとうございます」


 曖昧な笑顔で頷いて、知多ミシルはぺこりと礼をした。華々しい経歴に似合わず、どこか無邪気な所作だな、と明賀は思った。そのままミシルは、慣れた様子で微小重力下を飛び跳ねて、通路の向こうに消えていった。


 明賀が店内に入ると、すでにオープニングスタッフは全員が揃っており、熱意をたぎらせて開店準備をしていた。明賀も彼らに混じってテキパキと飛び回り、店が開いてからはさらに忙しくなる。もともと内勤だった明賀はただでさえ接客経験が乏しいのに、多言語での応対まで求められると、脳のキャパシティはつねに百パーセントを超えているような状況だった。たった三時間のプレオープンで体力と精神力を使い果たし、閉店後のバックヤードでため息を吐きながら、そういえば、と明賀は思い出す。


 ――知多ミシル、来なかったな。


 十時から十三時のあいだ、明賀はずっと店内にいたが、知多ミシルが訪れることはなかった。彼女が着ていた水色の、いま思えば宇宙開発機構の制服なのだろうジャンプスーツは、結構目立つから、見落としたわけではないと思う。楽しみにしてたっていうのは出任せだったのか、と明賀はちょっとだけ苛立った。


 あれだけキラキラ笑ったくせになあ。――別に私も、本心から、お越しくださるのをお待ちしていた訳じゃないけどさ。

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