ほとスペ火星一号店

織野 帆里

第1話

 姿勢制御用の手摺りで身体を引き寄せて、わたしは、微小重力のなかをスライド移動する。棚と棚のあいだ、小さな隙間に、幅二十センチの鏡が埋め込まれている。鏡に映るのはいつもの自分の顔――の上半分。見たいのはもっと下だ。油断すれば吹っ飛んでいって頭をぶつける微小重力下で、わたしは慎重に、自分の身体という名前の剛体を動かして、ようやく目的のものを見る。


「うわー……」


 ――やっぱ、唇、ガサガサだなあ。


 荒れまくった唇を見て、わたしは眉をひそめた。そこかしこの皮がべろべろ剥けたせいで色むらがあるし、乾いたカサカサの皮がうろこみたいに貼りついている。極めつけに唇の右端が切れていて、大きく口を開けるとやたら痛い。ポケットから保湿クリームを出して塗りたくるが、このクリームはあまり肌に合わなくて、塗らないよりはマシだけど、塗った後にはピリピリと痒くなってくるのだった。


 トン、と自分の身体を突き放して、対面のクッションに背中から飛び込む。


 柔らかいコイルスプリングが背中を受け止めてくれる。わたしは肩掛け鞄からブロック状のクッキーを取り出して、ひとくち囓る。水気が飛びきってぱさぱさのクッキーだが、カフェオレでふやかしながら食べれば悪くない味だ。栄養だってちゃんと計算して作られているし、程よい歯ごたえは咀嚼能力の低下を防ぐ。たぶん世界で一番合理的に作られた食事だと思う。でも。


「うーん……」


 ――海苔塩味のお煎餅、食べたい。


 ぱりっとした歯ごたえと、噛んだあとにふわっと広がるお米の匂いと、ちょっとぺたつく油の感じ。あれが懐かしい。食べると歯の隙間に挟まるし、もちろん脂質も炭水化物も山盛りなんだけど。昔ながらの丸盆に丁寧に盛り付けてもいいし、いっそビニール袋からそのままでもいい。お供は煎茶でもサイダーでもいい。気ままに、気軽に、つまみたい。なんて、ここにないスナックへの暴走する憧れはさておいて、わたしは噛み砕いた滋養クッキーを飲み込む。どろりとした甘みと、わずかに薬草めいた香りが、喉元から下に消えていった。


 次の仕事まで時間がない。レポートに沿ってナノプリント操作の説明を受けるって話だけど、わたしの専門分野じゃないから、アブストラクトくらいは先に確認しておかないと。わたしは右頬を覆うデバイスを操作して、人工音声にレポートを読み上げさせる。頑丈さを重視した骨伝導マイクは、お世辞にも音質がいいとは言えない。オペレーターの指示が聞き取れなかったら大問題だから、ノイズキャンセリング機能だけは盛りに盛られているけど、耳馴染みの繊細さとか重低音の響きとか、そういう部分は気持ちいいくらいにコストカットされていた。音が矩形波じみているな、とわたしは思い、それからふと、意識の片隅で違うことを考える。


「あ……」


 ――そういえばあのバンド、年始に新曲を出すって言ってたような。


 わたしには、子どもの頃からずっと、新作を楽しみにしているロックバンドがある。敢えて音質を落とす加工をしたり、ざらついたノイズを入れたりする、ちょっと変わった音作りのバンドで、爆発的に売れてるわけじゃないけど、大学生のころはツアーを追いかけて海外に行くくらいにはハマっていた。二年ぶりに新曲を出すらしいけど、わたし個人に割り当てられた通信量はごく少ないので、ミュージックビデオを観るのは難しい。もちろん、現物のアルバムを手に入れるなんてのは、夢のまた夢で。


「……ふぅ」

「Hey、ミシル?」


 埃ひとつない白色の天井を眺めて息を吐くと、横のハッチがガコンと開いて、同僚が顔を出した。


「まだご飯ですか? ディスカッション・ルームに行きますよ?」

「あー……うん、行きましょう」


 クッキーの包みをくしゃりと潰して、ダストシュートに放り投げる。六十センチ四方のハッチをくぐり抜けて、わたしたちは休憩室から外の通路へ。小さな部屋をいくつか通過すると、中央軌道通路に出る。幅は縦横に百メートル、全長およそ四万キロ、世界最大の人工通路であるそこを、わたしたちはふわふわと移動していく。五百キロ向こうから来た人員輸送船や、一万キロ向こうから来た貨物とすれ違いながら、赤道上を西に向かう。区画が切り分けられているから衝突することはないが、微小重力下での滑るような移動は、どうにも縋るものがなくて頼りない。


「……ねえ、キャシー」


 同僚の、後頭部で結った髪は、風圧を受けて紡錘形に広がっている。頭から風船をぶら下げたような彼女に、わたしは尋ねてみた。


揺蕩たゆたう、って日本語、知ってますか」

「たゆたう? どういう意味ですか?」

「今の、わたしたちみたいな。ゆらゆらフラフラ、掴まる場所がないこと……みたいな」


 これだけ人工物を極めた場所にいるというのに、わたしは、唇の荒れで頭を悩ませる。慣れ親しんだあの味が食べたい。あのアーティストのハイトーンが聴きたいと思う。悠遠の宇宙に飛び出そうとすればするほど、広い宇宙と反比例するみたいに勢いよく、小さなひとつの身体に還ろうとする。


 ミシルは、宇宙時代の最先端を揺蕩う、ひとりの若者だった。

 

 ***


ライさん、ボーナス、何に使うんですか」


 と、ありきたりな話題を振ってきたのは後輩の田中くんである。「貯金」「家賃の補填」「あと車のローン」と立て続けに答えると、うわあ夢がないなぁ、と青年はきゃらきゃら笑った。じゃあ田中くんは何に使うつもりなの。尋ねると、待ってましたとばかりに彼は胸を張った。


「僕、来年の夏、カノジョとアース・リングの観光ツアーに行くんですよ。その資金にするつもりでして。いやぁ、順番待ちで一年待ちました。三泊で九十万っす」

「へー……うちのボーナスで足りんのか?」

「見くびらないでくださいよ。僕、このために、毎月二万ほど別口座に入れてるんで」


 田中くんはそう言って二本指を立ててみせる。軽薄なノリに見えて、きっちり締めるところを締めている、出来た青年である。田中くんはだらだらと雑談をするわけでもなく、すっと切り上げて自席に戻り、一時間後には「お先に失礼します」と言って颯爽と出て行った。残務片手にそれを見送りながら、アース・リングねぇ、と鼻を鳴らす。


 二一〇〇年、地球に、木星や土星みたいなリングができた。


 リングといっても、岩石や氷塊が円盤状に並んでいるアレではない。赤道上から伸びる六本の軌道エレベーター、その中継ポートを結んで地球を囲む総長九万五千キロの構造物。それを、宇宙開発機構の誰かが「アース・リング」と呼んだのが、そのまま採用された。もっとオシャレな案が世界中から集まっただろうけど、全人類の共有物なら、このくらいシンプルで誰の目にも明らかな名前の方がいいのかもしれない。


 それが、今から三十年前。ちょうどライアスが生まれた頃である。


 明賀が成人して、たっぷり八年かけて大学院を出たときには、もうアース・リングは、最初からそこにありましたみたいな顔して赤道上空に居座っていた。東京の緯度からは直接見えないけど、ウェブニュースではよく出てくるし、リングのポータルには定点カメラが設置されていて二十四時間つねに映像をシェアし続けている。だから、地球が球体だと――実際に宇宙空間から見たことはなくとも――知っているように、地球にはカーボンナノチューブ製の輪があるのだと知っている。それは明賀たちの世代にとって常識だった。


 二一三〇年、十二月。


 終わりきらない仕事は明日の自分に回し、自分もそろそろ帰ろうと思っていた明賀のもとに、課長がやってきた。明賀の勤め先は、コンビニエンスストアチェーン「ほっとスペース」本社のクリエイティブ企画本部と呼ばれる部署である。ブランド名も部署名も、外来語と和語を織り交ぜると響きが良いという百年前の流行をそのまま引き継いでいるが、手取りは悪くない。クリエイティブという単語とは裏腹に、実態は毎年飽きることもなく繰り返される季節のイベントを乗り遅れずにこなす仕事だけど、ゆえに、忙しさの目算もつけやすい。


「あ……春シーズンの日程のプレゼンなら来週に設定してますよ?」


 先んじて言った明賀だが、課長は「春の? もう?」と腕を組んで、唇を尖らせる。そろそろ春に向けたイベント毎のスケジュール管理をする時期だが、課長はきょとんとした顔をしている。永遠に冬のなかにいるつもりなのでしょうか。寒いのは懐だけで結構なのですが。皮肉は胸のうちだけに留め、明賀がええそうですと頷くと、課長は「そうではなくね」と隣の椅子を引いて腰掛けた。


「賀来くん。ほっとスペースのブランド名の由来は、覚えているかな?」


「はい?」突然の抜き打ちテストに動揺しつつも、研修や定例会でよく聞くせいで、そのフレーズは記憶の浅い場所にしまわれている。いわゆる会社のコアミッションというやつだ。「街ゆく人にほっと息をつける憩いのスペースを。ですよね」


「惜しいね。五十点だ」

「減点される箇所はないと思いますが」

「いや、違うね。というのも、聞きなさい、賀来くん。我らがほっとスペースは、来年――アース・リングに進出する!」


 ばあん。と効果音でも背負いそうな大言壮語。明賀は「はい?」と聞き返すしかない。


 そこからの課長の話は、やたら壮大な比喩が多かったので省略する。要約すると――現在アース・リングは、全世界から集まった多くの研究者および技術者を抱え、軌道上十二箇所の居住区に合計三万人ほどが生活している。この規模になると、かつての宇宙飛行士みたいに、知力も体力もエキスパート級の人間が互いに力を貸しながら生き長らえる、という気配ではなくなってくる。つまり、アース・リングは、限られた人間がサバイバルするキャンプから、不特定多数の人間が生活する街になったのである。


 ――賀来くん、と課長が低く作った声で言う。


「街には勿論、コンビニが必要だろう?」

「勿論かは分からないですけど、ほとスペの営業がどんな口八丁を使ったかは分かりました」

「プレスリリースされてない情報だから、口外しないように。ちなみにさっきのクイズの答えだけど、社長は、宇宙時代の躍進を見据えてブランド名に『スペース』つまり宇宙を冠したそうだよ」

「ぜったい嘘ですよ。苗字を社名に付けるような安直なセンスしてるんですから」

「まあまあ。――さて、賀来くん、君への相談なんだけどね」


 課長はさらに声を低くする。芝居めかした声を聞いて、オッこれは、と明賀は背中を強ばらせる。面倒ごとを回避すべく真面目に仕事をしていたのが、裏目に出たらしい。忙しさの見当がつきやすいのが、弊クリエイティブ企画本部の良いところ……だったはず、なんだけどな。

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