第8話 海
暖炉の火が燃え続けるこの部屋には、今はオルゴールの音と火の弾ける音しか聞こえない。
私とアーキルはお互いに何も言わずにその火の温かさに手を当てていた。
自分は何も知らなかった。
けど、彼に出会わなければもしかして私は永遠にこのことを知らずに生きていただろう。
そう思うとアーキルには感謝してもしきれない。
こんな無知な私に優しく丁寧に教えてくれたのだから。
「…さて、重い話ばかりでごめんね。そうだ、君に見せたい物があるんだ」
やがて沈黙を先に破ったのは彼だった。
アーキルはそういうと立ち上がり、また私に優しく手を差し伸べた。
出会ったばかりのさっきと比べて、彼とは少し距離が縮まった気がする。
けれどやっぱり彼との触れ合いには慣れないもので、一度躊躇ってからそっと彼の手の触れると優しく包み込んでくれた。
彼は私の手を握ると、さっきの本棚の部屋へ向かった。そしてまたランプを手に取るとそっと足元を気遣いながらゆっくり歩いていく。
そうして彼と初めて出会った本棚の突き当たりまで行けば、アーキルはそこにあった扉に手をかけた。
彼がその扉を開けば、そこは玄関のような場所になっていた。
緑の長い絨毯の先に、また新たに扉を見つける。
そうして長いような長くないその廊下を歩くと、やがてその扉を彼が開けた。
その途端に、冷気が私の頬を掠めた。
降り積もった銀世界を見てさっき私が倒れた時のことを思い出した。
「寒いからこれを羽織って。それから、この靴も」
外に足を踏み入れる前にアーキルは私に暖かくて白い上着をくれた。
そして履き心地の良い靴も用意してくれる。
こうして寒さ対策をすると、さっきとは比べ物にならないくらい暖かかった。
どこに行こうとしているのかは分からないけど、何となく彼は信用することが出来た。
出来ればこのまま攫って欲しいと願う程、この瞬間が堪らなく幸せだった。
アーキルがランプを持ったまま先を歩く。
孤独で寂しかったさっきとは違い、今度は彼がいる。
握られた手はしっかりと掴まれて離れない。
何だかこんなに寒い筈なのに心に火が灯ったように暖かかった。
彼とならどこへでも行けそうだ。
真っ暗闇で同じような木々の間を歩いていく。
一人だったら絶対迷子になってしまうようなそんな道も、彼といれば迷わない。
時々後ろを見て私がいるかどうか確認する彼の髪が月光に照らされてとても綺麗だった。
「寒くない?」
『うん、アーキルがくれたこの上着のおかげで』
「良かった、寒かったらすぐに言ってね」
そんな優しい声かけをしながら彼は先を歩いた。
繋がれた暖かい彼の手のおかげで私の手もすっかりほかほかになっていた。
そうして歩いた先に、やがて私は息を呑むこととなる。
『…わぁ!!!』
森を抜けた先には、美しく輝く海があったのだ。
広く輝く海、ずっと夢見た海。
そして、その海を照らす月と無数の星。
あまりの美しい景色に私はその場から動けなくなった。
絵本で読んだだけでずっと憧れていた海の側に、私は今立っているのだ。
波打ち際でさざめくその音が耳に心地いい。
風と海の音以外、ここにはなかった。
私は瞳を閉じて、大きく息を吸った。
懐かしい、音だ。
海を見たことがないのに、何故そんなことを思ったのだろう。
そう思って静かに息をしていれば、私の頭の中にあの夢の中に出て来る花畑が浮かんできた。
そうだ、あの花畑で寝そべっている時も、この音が聞こえていた。
ここには花畑はないけれど、この音はあの場所と変わらない。
目を閉じれば懐かしさが溢れて、私は気づくと涙していた。
「!ユキ?大丈夫?」
すると、私を心配する優しい彼の声が聞こえた。
そっと瞳を開ければ、そこには海の色と同じ瞳をした彼がいた。
『…そういえば、あなたの瞳ってまるで…』
"この花みたいよね"
『っ…!』
何かを言いかけて、私の言葉の続きを心の中で誰かが呟いた。
また私の知らない記憶。
以前も私は、誰かに同じ話をしたんだろうか。
「ユキ、大丈夫?寒い?」
また頭を抑える私にアーキルは心配しながら声をかけてくれた。
今の言葉は無意識に私から出たものだった。
まるで何かに操られたかのように言葉を発した私は、自分を一瞬だけ見失いそうになってしまった。
けれどずっと繋いでくれていた彼の手が、私をすぐにここへと引き戻してくれた。
『…ごめんね、何でもないよ』
「無理はしないでね」
心配そうな顔をするアーキルを見て、私は頷いた。
海は静かにさざなみ、時々荒さを増しては静かに踊る。
やがて、アーキルは優しく微笑むと私の両手を握った。
「君に見せたいものがあるって言ったでしょ?この海も勿論君に見せたかったんだけど、実はもっと特別な贈り物をしようと思って」
そう言うと、彼は握っていた私の手を離した。
そして海へ向かって少し歩くと、彼は両手を出して目を閉じた。
少し離れた位置にいる彼が、何だかこのまま海に呑まれてしまうのではないかと思ってしまう。
そうして彼に手を伸ばそうとした瞬間、海から大きな龍が現れた。
『!!!!』
それは海の水で作られた龍で、アーキルは背後に現れた龍を操るように両手をゆっくり上にあげた。
水龍は、そのままアーキルに従うように空高く舞い上がると月のシルエットとなって輝いた。
あまりの美しさに言葉を失い、私はただそれを眺めた。
やがてアーキルが片手を振り下ろすと、月まで登った龍が勢いよく海へと潜った。
水龍が空からの衝撃のまま海に潜ったことにより、あたり一面に水飛沫が舞い、月光に照らされ宝石のように輝きながら落ちてくる。
そのことに感動して目を輝かせる。
しかしそんな美しい光景の中で、月光に照らされたアーキルの横顔はまるで一人取り残されてしまった孤独な少年のようだった。
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