第6話 魔法
恋。
それを自覚してしまうと、さっきよりも彼と目を合わせられなくなってしまった。
こんな話ルキアにしたら絶対にバカにされる。
出会ってすぐの人に恋をして、恥ずかしくて目を合わせられないとか。
そんなことを言ってバカにして笑うルキアが頭の中に浮かんできた。
アーキルとジッと見つめ合う。
何だかこの時間がやけに長く感じて、私は誤魔化すように彼の手から空になったマグカップを奪った。
何かしていないと爆発しそうだった。
『あ、洗うね!ついでに私のマグカップも洗おうかな!洗う物とかって、どこにある?』
あまりに不自然だと自分でも分かる。
少し震える手でマグカップを握れば、近くにあるタルの蛇口を捻って水を出そうとした。
しかしその蛇口から出てきたものは明らかに水じゃなかった。
赤い液体はそのまま独特な香りを漂わせて流れていく。
この液体は、おそらく赤ワインだ。
時々ルキアが部屋に持ち込んで飲んでいたからよく知っている。
彼が言うには赤ワインは高級で高くて滅多に手に入らない物だとか。
そうして自分が貴重で高価な赤ワインを無駄にしてしまったと気づくと、私は急いで蛇口を止めた。
『わ、わぁ!!ごごごごめんなさい!!こんな、貴重なワイン無駄にっ!!』
あまりの大失態に泣いてしまいそうになる。
ちゃんとアーキルに聞いて水を確認すればこんなことにならなかったのに。
そもそも自分の部屋じゃないのに、出しゃばった時点で最悪だ。
私は彼にちゃんと謝ろうと思い後ろを向いた。
その瞬間、地面のカーペットに気づかず足を引っ掛けまた尻餅をついて転けてしまったのだ。
視界が回りダンッと大きな音を立てる。
腰に地味な痛さが走り、うっと声を出す。
だけど転ける寸前で、私は咄嗟に持っていたカップを庇うように自分が下敷きになったから、なんとかマグカップは無事だった。
『…はぁ…良かった、カップは無事ね…』
そうしてハッとし私は転けた態勢のまますぐに頭を地面につけて謝った。
手にカップは持ったまま地面と向き合う。
彼の表情は確認出来なくても、あまりに自分が馬鹿すぎてこのまま地面に溶けてしまいたくなった。
『本当にごめんなさい!!!ワインの弁償はします!!高いよね…いくらか教えてくれたら、働いて、返すから!!!』
そう早口に言って何度か頭を上げ地面につければ、やがて沈黙が走った。
働いたこともないのに軽々しく言ってしまったことにも、大事なワインを無駄にしてしまったことにも、全てに対して後悔しか出てこない。
彼を見る勇気がなくて冷や汗を流しながら地面と見つめ合っていると、突然彼の大笑いした声が聞こえた。
「あははッごめ…面白すぎて、ごめんね笑いが止まらないッ…」
そんな予想外な笑い声が聞こえて、私は反射的に顔を上げた。
そうして見上げた先には片手で顔を覆って爆笑しているアーキルがいたのだ。
思わずポカンとして彼を見つめる。
あまりに耐えられなくなったのか、やがて背を向けて長机に片手を置き本気でツボに入ったらしいアーキル。
あの落ち着いた雰囲気からは想像出来ない程、彼は大笑いしていたのだ。
『あ、えっと…』
「だって君、一人で漫才やってるみたいだからッ…はははっ、転んだなら自分の心配をすればいいのに、マグカップが安全か確認するなんてっ…」
面白すぎる、そんなことを言ってアーキルは暫く笑い続けた。
何だか段々恥ずかしくなってきて、私はゆっくり立ち上がると持っていたマグカップを近くにある棚の上に置いた。
そうして爆笑しているアーキルに近づく。
肩を震わせてツボに入ってしまった彼を見て、何だか分からないけど私もつられそうになってしまった。
『笑いすぎだって!』
「ごめんって、君が面白いのが悪い!」
『面白いって、人の失敗をそんな笑うなんて』
「いやっ…でも、良かった、普通に話してくれるようになったね」
笑い続けるアーキルについ少しだけムキになって返せば、そう言って彼は目元の涙を少し拭った。
ハッとすれば、確かに自分が普通に彼と話せていたと感じる。
さっきまでは震えが止まらなくて彼ともまともに話せなかったけど、今は普通に話せていた。
自分でもそのことに驚きながら目を見開く。
やがてアーキルは棚に置いたマグカップと長机に置いてあった私のマグカップを持つと、その瞬間カップを空中に浮かせたのだ。
初めて見るその光景に私は思わず息を呑んだ。
そうしてマグカップを浮かすと、空いた片方の手に彼は雫を浮かび上がらせた。
あまりに信じられない光景が目の前で繰り広げられて言葉を失う。
そうして水の粒は段々と大きさを増しやがて一つの塊となった。
彼の長い指がその水で遊ぶように回ると、水たちはたちまちカップを洗い流した。
さっきまで汚れていたその二つのカップは、あっという間に綺麗になったのだ。
そして彼はさっき入っていたカップの棚を開けるとそこへと戻した。
驚く私をよそに彼は平然とした顔でそれを行っていた。
『…これ、夢?』
やがて呆気に取られた私がやっと発した言葉がこれだった。
夢じゃなければこんなこと起こるはずない。
ルキアは魔法のことなど一切教えてくれたことがないんだから。
あれは空想で、存在しないものだと聞いていた。
けど今目の前では、確かに彼は魔法を使っていた。
だってさっきまで存在していなかった水を自分の手元に出現させ、更にはカップを浮かせていたのだから。
これが空想なら、きっと私は今夢の中にいるのだ。
でも確かに夢の中なら、こんな人間離れした容姿の人が現れてもおかしくないし、もしかしたら本当に夢なのではないかと感じる。
けれどそんな動きを止めた私を見ると、アーキルは小さく笑ってこちらに近づいた。
そうして近くまでやって来るとポカンとする私に視線を合わせ彼は口を開いた。
「君はもしかして、魔法を使えないアヴァースかな?」
『…え』
そう言われて、私は何も言えなかった。
アヴァースなんて言葉、初めて聞いた。
彼は魔法が使えないアヴァースと言った。
もしかして、私が知らないだけでこの世界では魔法が使えるのは当たり前なのではないか。
そんな疑問が頭に浮かび、私は目の前の彼の瞳を見つめ返した。
けれど、何故か分からない。
初めて聞いたはずなのに、アヴァースという言葉を知っている気もした。
どうして。
なんで。
私は、魔法を見たのだって初めての筈なのに。
魔法を、知っている気もした。
その瞬間、頭に霧のようなモヤがかかって私の脳を刺激した。
"アヴァースめ!!どうせ目が見えないんだろ!
おれらジザーズたちに逆らった罰だ!やっちまえ!"
"やめて…お願い、僕はただ皆と仲良くなりたいだけなんだ、皆が平等に、アヴァースもジザーズも皆平等に"
ふと、頭の中で何かの声がした。
私は頭を抑えて膝をつく。
そんな私の手を、彼はそっと握ってくれていた。
また、私の知らない記憶だ。
いや、知っているのかもしれない。
けど、知らないんだ。
もう何が何だか分からなくなって自分すら見失いそうになる。
けれどそんな叫んでしまいたくなる衝動の中で、目の前の彼がそっと私の頭を撫でてくれた。
『っ…』
「大丈夫、深呼吸して。大丈夫だよ側に俺がいるから」
やけに落ち着く声で、そう言ってくれる。
彼の暖かいその手は暴走する私の気持ちを鎮めてくれた。
暖かい。
この人は、本当に暖かい人だ。
いつまでもこうしていたいと願いながら、私は彼の温もりを感じていた。
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