第17話 基本の話4
二十三、受信能力を高めるⅡ
前回の話で、会話の根底はキャッチボールであり、大事なのは受け取る側としての能力を高めるべきだということを述べたが、これについては一定の理解を得られたのではないかと思う。我々は一人で生きていく事はできず、必ず相手が存在する。その相手に対して「どう伝えよう」と考えるところに、小説を書く上での基本があると言っているわけである。
では、会話における「キャッチボール」とは何なのだろうか。「ボール」といっているからには、ボールを投げては受け取るわけであるが、あなた方はこの「ボール」とは一体何なのかと疑問を感じたであろうか。会話という目で見えないものに対して、何がボールであるかを定義しないでキャッチボールといってもできるわけがないという、あたりまえなことを不思議に思わなかったのであれば、やはり上辺でしかわたしの話を理解していなかったと考えてほしい。
おそらく、ボールが何であるかを誤解して、実生活でも過ちを犯した会話のキャッチボールならぬドッチボールをしているのが、わたしを含め大抵の人間である。その大きな原因は、ボールを「理屈」だと思っているからなのだ。
理屈で投げて理屈で返している(つもりだ)と、結局相手が何を言っているのかを理解できず、さらには自分が伝えたいことも相手に伝わっていないという不満をぬぐえない。わたしは「会話」と言っているのであって、「議論」と言ってはいないのだ。生活の中でお互いがつまならい言い合いになるのは、結局、理屈で相手を説得しようとして泥沼にハマってしまうからだ。いつのまにか、どちらの理屈が正しいかのドッチボールを始めて収拾がつかなくなる。そんな犬も喰わない喧嘩など、どこにでもあるのではないだろうか。
つまり、会話のキャッチボールにおいて「理屈」というボールを投げ合うのは、お互いの気持ちを満足させるには不適格ということだ。極論すれば、生活レベルでの理屈などどうでもいいわけで、互いがハッピーになれる会話ができる方が、よほど意味があるのでないだろうか。物事の大抵のことは右から向かっても左から向かっても対して違わない。生活レベルでの会話であれば尚更だ。それをあたかも右でなければならないように主張したり、左から行きたいがゆえに相手の話を遮るどころか否定までして左を主張して、互いに感情的になって泥沼に嵌る。そんなことをして何になるのかと思いながらも、世の中の大半の会話が難破するのは、理屈それも「屁理屈」をぶつけ合うからだということをまずは認識してみよう。
では、何をボールにしてキャッチボールをすればいいのだろうか。大抵の正しい解答は間違いの正反対にあるがごとく、答えは「感情」である。感情というボールをお互いがお互いを尊重して投げ合えば、美しいキャッチボールは成立するのだ。
感情的という言葉は大抵ネガティブな捕らえ方をされるが、「本当に真正面から相手の感情を受け取ろうとしているのか」という本道を見ていない偏見から生まれたレッテルでもある。前回、わたしは医者となり、患者である小さな女の子の言葉を聞く姿勢のたとえをした。理屈の受信であれば、その小さな女の子が、いつから、どこがどう痛くて、どなっているのか。そういう上辺の「現象」をおさえようとするだろう。しかし、本当の根源たる不安や痛みは小さな女の子の「感情」を受け取らない限りはわからないのである。その「感情」をどう受け取るのかが本来、大事な仕事なのだ。結論めいた断言をすれば、受信能力とは、相手の「感情」を受け取れる能力なのである。
夫婦喧嘩という戦争は、こちらが不安や不満という感情を解決したいのに、相手側がそれを面倒臭がって「理屈」として聞いて反応してくるから勃発する。喧嘩になるという事はどちらも悪いわけで、結局のところ、どちらともが感情を上手く投げ、受け取る事ができないから、不毛な喧嘩という不毛な争いがおきるのである。
もしあなた方が、「相手の感情(思っていること)」だけを受け取れるようになれれば、あなた方は相手に合わせた「感情」を投げ返せるようになる。それが褒める言葉だったり、慰めだったり、励ましだったり、ちょっとした刺激的なお小言であったり、手段はなんでもいいのであるが、キチンと感情へのリターンができるはずである。逆に言えば、これができないから理屈で返そうとしてしまうのである。いかにわたしたちはつまらないところで不幸な会話というドッチボールをしているのか、せっかくなので、ここらで反省をしてみようではないか。
最後に、会話のキャッチボールについて何故これほどまでにクドクドと説明してきたかについて言及して終わろう。
そもそも、ここでなされていることは「創作論」である。本書の目的は、プロデビューあるいは二次選考通過のために足りないものを洗い出して理解させ、必要なものを与えることである。後者はまだまだ先のこととして、今まで前者について多く語ってきたと思う。しかしながら、それを「理屈」として聞いている限り、それは上辺だけを理解したつもりのドッチボールでしかないのだということを、まずは思い知ってほしい。本書に対するコメントでも、「こうですよね?」というものをいただくことはあるが、それはどこまでも理屈であって、本来受け取るべきは「わたしが何故そう言っている/考えているのかのという感情(思い)」なのである。
深刻な現実として、小説においてもこの「感情」でのキャッチボールが出来ない限り、読者との対話など不可能である。不可能ということは、読者がどう思うだろうかということを考えられる能力がないということだ。つまり、あなた方の送信過多の小説は、一歩たりとも進歩しないということになってしまうではないか。
この事実だけを取れば、「そんな作家が物語を書いて、読者をどうこうできるわけがない」という結論になる。文章がどうだとか起承転結だとかの以前の、遥か手前の手前で躓いていることを理解させるためだけに、わたしは今日まで書いてきたといっても過言ではない。受信能力がないということは、それだけ重大な欠陥であることを、少なくとも作家としてのあなた方は猛省しなければならないとわたしは考えている。――そうでなければ、この先ずっと上辺だけの評価に振り惑わされ、悲願を果たすなど、夢のまた夢でしかないのだから。
今回はここまでにしましょう。正直なところ、文章力があり、話が面白ければ、ネット公募くらいであれば運次第で二次選考までなら通ると思います。ですが、その運にただ身を任せるのではなく、プロという本道で歩くには、読者との対話だけでなく、あらゆる相手へのキャッチボールができなければ続けることはできません。物事の基本は自分ではなく相手にあることを、深く確信してほしいと思う次第です。
☆お知らせ☆
自主企画「第一回 さいかわ水無月賞 テーマは「雨」」を開催いたしております。わたしとゲスト選者二名が選者をいたします。
https://kakuyomu.jp/user_events/16818093078387055933
U-18参加でアドバイス希望の方にはアドバイスを書かせていただいております。カクヨム甲子園に出る前に、まずはわたしという小うるさいおばちゃん審査員にどういう読まれ方をしているのかを知る機会になればと思っております。ふるってご参加くださいませ。(くれぐれもルールをキチンとお読みの上、ご参加くださいね)。
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