33*愛をもらえなかった少女は今 -03-
「いいぞ」
リアンは書類を見ながら答える。
ジェシカは即座に、反応できなかった。
「? グレイを恋人役にしていいぞ」
返事がなかったからだろう。
手を止めてもう一度言われる。
「…………」
「なんで頼んだ側が驚いた顔してんだ」
変なの、とでも言うようにリアンは片眉を上げる。ジェシカは言葉に詰まったが、不自然にならないよう、ゆっくり伝える。
「恋人役ですのよ。リアン殿下はてっきり嫌がると思っていましたわ」
友人になりたいと持ちかけた時、明らかに警戒していた。メイベルの提案も、余計なことをするなと言わんばかりの様子だった。
このお願い自体、論外だと思っていたが。
リアンはとんとん、と机の上で書類を揃える。
「事情が事情だろ」
「私のためですか」
「それだけじゃない。今のグレイなら、ジェシカの願いはなんでも聞くと思ったからだ」
(……バルウィン殿下と、同じことを)
「ジェシカはグレイを傷つけたりしないだろ。それは理解してるし今は感謝してる。何にも関心がなかったあいつが、徐々に人間らしくなってる」
「……ですが」
「なんだ。断ってほしかったのか」
半分はそうだ。
リアンが断ってくれたら、グレイにこの提案をしなくていい。……したくない。今のジェシカは、グレイに協力して欲しいとは思えなかった。
元々グレイに近付いたのはいずれ「恋人役」になってもらうため。レイナの思考を考えれば、それなりに顔が良く、実力もあり、目立つ人がよかった。誰かいい人はいないだろうかと、機会を伺っていた。
ただ優しい人では駄目だ。
レイナの愛らしさに騙されてしまうから。
すぐ自分に惚れてくる人も駄目だ。「恋人役」という役を使い、それ以上の関係を求めてくるから。
その点、グレイは心配がなかった。
主人であるリアンにしか興味がなかったから。
女性に騙されるタイプでもない。リアンの命令しか聞かない。リアンに認められたら、二人共が協力してくれる。その方が上手く動ける。そう信じていたから、リアンに許可をもらい、まずは友人になった。
結果、思い通りに事が進んでいる。
だが、彼の傍は。
思ったより居心地が良すぎた。
「グレイのことが好きになったのか」
「ちがいますわ」
するとリアンはむすっとする。
「なんでもいいが、グレイを外せと言うのは今回限りにしてくれよ」
この場にいるのはリアンとジェシカ。どこかにガクがいるはずだ。グレイは外して話したいと、事前にお願いしていた。
「グレイは勘がいいんだ。一人になりたいと言えばなぜ、と何度もしつこく聞かれたし。大体お前と二人きりなんて勘弁してくれ。『高嶺の花』と一緒だと勝手に周りが噂するんだよ」
「ガク様もここにいらっしゃいますわ。姿は見えませんが」
「ああそうだ。姿は見えないから周りに誤解される」
「それはご愁傷様ですわね」
「他人事みたいなこと言いやがって……」
ぶつぶつ文句を言っている。
それでもリアンは二人で話すことを叶えてくれた。彼はそういう人だ。言動はどこか自分勝手に見えて、臣下や民の願いを叶えようとする。
ジェシカはふっと笑った。
「ご承諾、ありがとうございます。しばらくは考えますわ。グレイにはまだ秘密にしてくださいな」
「は?」
「それでは失礼します」
「え。おい、」
ジェシカは歩きながら溜息を零す。
密告した件については王族に上手く伝わり、対処してもらえるようで安心した。グレイのことも、リアンが承諾すると予想していなかったわけではない。元々彼に頼むつもりで友人になったわけであるし。だが、断ってほしかった。
例え彼以外、適任がいないとしても。
バルウィンに言われてからも、グレイ以外に誰か頼めないか探してはいた。結局いないから、リアンに承諾をもらったのだ。
人柄で言えばロイにも頼みやすいが、彼は最初からアイリス一途。士官学校時代からアイリスに近付く輩をさりげなく牽制していたし、彼の気持ちを知る者も多いだろう。ジェシカに乗り換えただなんて噂が出回れば、彼の名に傷をつけてしまう。
(二人はやっと結ばれたようだし)
帰国したアイリスから、両想いになったと聞いた。婚約者になったとも。シリウスが貴族界の規律を正そうとするせいで結婚に多少障害はあるようだが、あの二人なら大丈夫だろう。
二人の心が無事に通じ合ったのだ。
親友としてとても喜ばしい。
とはいえ少しだけ。
心に冷たい風が吹いたような心地でいる。
(寂しい、のかしら)
周りの支えは確かにあったが、それでも
『俺が触れたいと思うのは、フェイシー殿ですが』
急にグレイの言葉を思い出し、無意識に足を止めてしまう。ここにいないはずなのに、胸が締め付けられるような思いになる。
(……恋人役なんて。グレイがいいと言ったら、一体どうなるの?)
以前一緒に出掛けた時、成り行きとはいえ抱きしめられた。顔が近付いただけで動揺した。彼だから。そんなことをしそうにない彼だから。
主人のためではあるだろうが、それでも彼は恋や愛を知ろうと動いている。そんな彼が、恋人役になってくれたら。本当に、恋人のように振る舞ってくれたら。
(……惹かれて、しまったら)
そもそもこの件を巻き込むのに躊躇している自分がいる。彼の素直で純粋な面を利用してしまうのはどうなのかと。これがドライな関係であれば、余計なことなど何も考えなくていいのに。最近のグレイの言動には、翻弄されている。
(……グレイなら、こんな私でも受け入れてくれるかもしれないわね)
彼の真っ直ぐで決してブレない姿。
それがとても美しいと感じる。
だからこそ。
(穢れている私は、グレイの隣にいてはいけない)
実の親から虐げられている自分だ。
愛を知らずに生きてきた。
多くの男性から言い寄られた。
皆、容姿や権力しか見ていない。
愛されることなど当に諦めた。
自分が誰かに愛されるなんて信じられない。
純粋な心を持つ彼には。
同じく純粋な人と幸せになるべきだ。
「――よお。ジェシカ」
背中から声が聞こえる。
途端に背筋が凍った。
誰よりもジェシカを狙う者。
誰よりもしつこくつきまとう男。
「ルーカス様……」
ジェシカは冷たい声色と表情で振り返る。遠慮なく警戒心を剝き出しにしたが、大柄な騎士は気持ち悪い笑みを浮かべるだけ。
「俺にはいつもその顔だな。『氷の花』と一緒にいるからか?」
「大事な親友に似たのなら嬉しいことですわね」
「今日は第二王子の側近と一緒じゃないのか」
「それが何か」
「あいつとできてるのか」
思わず眉を寄せる。
ルーカスには会う度に口説かれた。
その度にこっぴどく断った。
最近はグレイと一緒にいたためか、話しかけられることもなかった。だが一人であると分かった途端、すぐに近付いてきた。剣術大会では結婚と口づけを要求している。何をしたって諦める気がないのだろう。
もしグレイに恋人役を引き受けてもらえていたなら、ええそうですわと即答していたところだ。だがまだ迷っているし、グレイから承諾を得たわけでもない。勝手なことは、言えない。
「ご想像にお任せしますわ」
するとルーカスはにやっと笑う。
「俺はな、お前の家の事情を理解しているつもりだ」
(急に何の話を)
「お前の妹分から『姉を頼む』と言われている。フェイシー伯爵からも娘はどうだと言われている。俺も同じ伯爵家として、いつでもお前を嫁に迎える気でいる」
(レイナと父の差し金かしら)
二人共、自分のことを疎ましく思っている。邪魔だから早く嫁に出したい気持ちがあるのだろう。ルーカスは何年も前からアプローチしてきた。その時は家のことなど何も言っていなかった。もしや裏で取引でもしたか。互いの利害が一致したから、ルーカスはこの話をし始めたのだろう。
展開は薄々予想できたが、ジェシカは苦虫を嚙み潰したような思いになる。何年経っても、どこにいても、自分にとってあの家は帰る場所じゃなく、追い出される場所。娘なのに。母との大事な思い出もあるのに。それを、妹じゃないのに妹扱いされている、偽の娘に奪われている。そのどうしようもない事実を突き付けられ、息ができなくなりそうで。今すぐ嗚咽を出してしまいたい衝動に駆られる。
「お断りしますわ」
はっきりと発音して伝える。
彼の顔が、ぴくっと動いた。
「フェイシー伯爵の命令に背くと?」
「あの人は確かに血のつながった父ですが、私にとってもはや父ではありません。私の家の事情をご存じであるなら、今後のことも聞いているのでしょう。やることが山積みにあるのです。あなたに構っている暇などありませんわ」
そのまま彼の横を通り過ぎようとした。
だが、思い切り腕を掴まれる。
「っ!」
「――あんまりふざけるんじゃないぞ」
「ふざけているのは、どちらかしら」
圧迫してしまいそうなくらい強い力で掴まれる。
騎士として働いているのだから、鍛えている体付きからして、その力は強いだろう。だがそれをまさか、ただの文官の女性に向けるとは。あまりの力と痛みで思わず顔を歪めそうになるが、ジェシカは睨んだままだった。ここで怯みたくない。
ルーカスは口元を緩ませたままだ。
見定めするようにジェシカを見ている。
「俺はお前の美しいところだけでなく、その強い性格も好んでるんだ。俺の力で屈服させてやりたい。そうだな、このまま既成事実でも作るか?」
「冗談にしてはタチが悪いですわね」
「冗談じゃなかったらどうする?」
「っ!」
さらに強く腕を握られる。
ジェシカは少しだけ眉間に皺が寄った。
「お綺麗な顔が歪む姿もそそるな」
思わず罵倒しそうになるが、さすがに留めた。令嬢ともあろう者が使っていい言葉ではない。
そうしている間にも強く握られたままで、ジェシカは必死に抵抗する。その間にも、徐々に彼が迫ってきた。このままでは、彼の手にかかってしまう。そんなの御免だ。
「いい加減俺につかまってしまえ」
「絶対に嫌ですわっ……! っ!」
足のバランスを崩し、ジェシカはルーカスの方に引っ張られる。彼の意気揚々とした顔に嫌悪の眼差しを向けていると、後ろから手が伸びてきた。そのままそっと抱きしめられる。
思わずジェシカは振り返った。
「何をされているんですか」
(……グレイ!?)
そこにはなぜか、息が上がったグレイがいた。
走ってきたのだろうか。綺麗な銀髪も少し乱れている。ジェシカを抱きしめる手は、優しかった。
ルーカスはあからさまに舌打ちをする。
「何をされているのか聞いているんですが」
(……グレイ?)
彼にしては珍しく憤っているように見えた。
いつも通りなようで、声色は氷のように尖っている。目はルーカスに向けており、手はジェシカを抱きしめたままだ。そんなことを聞くなんて彼らしくない。人が何をしようと、興味がないはずなのに。
「俺達の将来について話してただけだ」
「それにしては乱暴な扱いでしたが。フェイシー……ジェシカ殿は物じゃありません」
名前で呼ばれたことにジェシカは少し驚く。
彼は誰に対しても姓で呼ぶはずなのに。
そっとグレイはジェシカの右腕に手を添える。
ルーカスのせいで少し痣になっていた。
圧迫するような握り方をしたせいだろう。
それを見たグレイは顔色を変える。
声色を強くした。
「ジェシカ殿が欲しいなら、剣術大会で自分と勝負してください」
「……出る話は本当だったのか。お前もジェシカを報酬に望むと?」
「自分が勝ったら、一生ジェシカ殿に近付かないでください」
するとルーカスは眉を寄せる。
思っていた返答ではなかったらしい。
「なんだそれは。お前、ジェシカのことが好きなんじゃないのか」
「好きだと思います」
ジェシカは愕然とする。
だがすぐに思い直す。
(人として、でしょうね)
「まだ確信は持てませんが、自分はジェシカ殿が好きだと思います。この感情の名前が何なのか、ジェシカ殿に確かめてもらいたいと思っています」
(えっ!?)
確かめるとはどうやって。
確かめてそうだったらどうしたらいいのか。
ジェシカはだんだん混乱してきた。
ルーカスもこの返答は予想外だったのか、よく分からないような顔になっている。最終的に面倒くさくなったのか、こう言った。
「俺と勝負するんだったらはっきりしろ。ジェシカが好きなのかそうじゃないのか。やりづらい」
「分かりました。では剣術大会までに確定させます」
(えっ)
するとルーカスも納得したのか鼻を鳴らす。さっきまで散々色々言っていたのに、勝負事になると単純になるのは男性共通なのだろうか。
「絶対に俺の物にしてやる」
そう言い捨ててルーカスはその場を去った。
どっと疲労が出て倒れそうになる。
「ジェシカ殿。大丈夫ですか」
はっとして見れば、まだ抱きしめられたままだった。すぐに「ええ、大丈夫」と答えて離れようとするが、彼の手はジェシカの腰にあるままだ。
「あの……助けてくれてありがとう。そろそろ離してもらってもいいかしら」
「医務室にいきましょう。腕が腫れています」
「え? あ……」
見れば確かに赤黒くなった箇所がある。
痛みが続くと思っていたら。
「一人で行けるわ。グレイはリアン殿下のところに行くんでしょう」
「自分も一緒に行きます」
「これくらい大丈夫だから」
やんわりと断ってその場から歩こうとする。
が、それよりもグレイが動くのが早かった。
「えっ」
いつの間にか横抱きにされていた。
「グ、グレイ」
「一緒に行きます」
「足は大丈夫よ。自分で歩けるわ」
「こうでもしないと一緒に行けないと判断しました」
言いながらグレイは歩き出す。
さすがに動かれたら降りることはできない。
(……ま、待って。待って……!)
身体が密着している恥ずかしさもあるが、先程ルーカスに言っていたことに対してジェシカは混乱したままだった。どうにか普段通りの振る舞いをしているが、内心はかなり焦っている。
(私のことが好きだなんて、絶対に勘違いだわ。一緒にいる時間が長いからそう思い込んでいるだけ。早く教えてあげないと)
「グレイ」
「はい」
「あなたが思う私への『好き』は、恋と愛の『好き』ではないわ。一緒に長くいるとそう錯覚することもあるの。だから」
「触れたいと思うのはジェシカ殿だけなのにですか」
目が合う。
紫水晶のように美しい瞳。それに自分の姿が映っている。真っ直ぐで、他には興味がないとでも言うように、ジェシカだけを見つめている。
「ガードナー殿の振る舞いに苛立ちが隠せませんでした。主を馬鹿にされた時の怒りとは違う思いです」
グレイの声色が固かった。
いつもは落ち着いているのに。
今は。何かに耐えるような、耐えきれないような物言いだ。
「あなたの腕に痣ができたことも許せない。誰にも触らせたくない。一人で行けばまたルーカス殿に会うかもしれない。これからは自分と行動を共にして下さい。一人にさせたくありません」
「…………」
「ジェシカ殿? 顔が赤いですが、大丈夫ですか」
「……大丈夫じゃ、ないかもしれないわ」
彼の言葉に眩暈がしてくる。
熱にうなされそうだ。
それでも胸にあるこの鼓動の音は。
甘く痺れるものだった。
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