34*恋愛初心者たち -01-

「はぁ……」


 城内にある、比較的人が少ない場所。

 ジェシカは座って、遠い目をしていた。


 ここ最近なんだか目まぐるしい。


 伯爵令嬢たるもの、仕事で何か起ころうが、家に何か起ころうが、決して溜息なんてつかなかった。それなのにこうして力尽きた姿になっている。


 こうなった原因は、グレイだ。


 ルーカスから助けてくれたあの日、告白まがいのことを言われた。あれで分からないほど子供ではない。相手の気持ちを知ってしまったものの、本人はまだはっきり理解していないようで、いつもと変わらない様子だった。


 本人が気付いていないなら、無理に自覚なんてさせる必要はない。知らないふりをして、いつも通りの接し方をしようと考えていた。


 それなのに。


 あの日以来グレイは、毎日仕事が終われば、ジェシカの仕事場まで迎えに来るようになった。一日だけだと思えば、数日続いた。


『グレイ。毎日は来なくて大丈夫よ』

『また怪我を負ったらどうするんですか』

『さすがに同じことは起こらないでしょう』

『不用心すぎます』

『…………』

『主から許可はいただいています。それに、恋人役の話も聞きました』

『!』


 いつの間に勝手なことをしてくれたのか。


 グレイに限らずリアンもだ。

 その話は秘密にするように言ったのに。


 渋い顔になると、グレイも少し眉を寄せていた。


『なぜもっと早く言わないんですか』


 そんな風に言われると思わず、唖然とする。


『先に聞いていれば、ガードナー殿にも恋人だと言えました』

『それは……まさかあの場でルーカス様に会うなんて思わなかったもの』

『主から、あの日に話したと聞きました。自分が助けた時、恋人だと言って下さってよかったのに』

『グレイの意見を聞いていないのに、勝手なことはできないわ』

『主が許可したことに、自分は否とは答えません』


 断言した言い方に、少しだけ怯んでしまう。確かにグレイはリアンの命令に必ず従う。そうであっても、本人から了承を得るのも筋ではないだろうか。


『許可を出したのに一向に保留のままだと聞きました。なぜですか』


 ジェシカは顔を強張らせる。


 そんなの、グレイに恋人役をやってほしくないからに決まっている。だがそれだと、なぜリアンに許可をもらったのかという話になる。


 ジェシカはしばらく無言を通した。

 するとグレイが口を開いた。


『これからは恋人として迎えに来ます。一人にはさせません。いいですか』

『…………』

『いいですね?』

『……はい』


 なんだか脅されているような気分になった。


 こうして毎日仕事場に来るものだから、多くの好奇の目を向けられている。やっぱり恋人なのだと、想像以上に話が広まっている。迎えに来るだけではない。わざわざ手を繋いでくるせいだ。


 しかもただ繋ぐのではない。

 手を絡ませる、恋人繋ぎだ。


 最初は驚いたが「恋人ですから」とさらりと言われた。牽制のためにも、と追加で言われた。あまりにスマートな振る舞いに、ジェシカは少しどぎまぎした。必死に隠したが。


 「ジェシカ殿の手は小さいですね」「女性は大体男性より小さいわ」平常心を意識しながらそんな会話をする。グレイは繋がれた手と手を物珍しそうに見つめながら、少しだけ握る力を強くした。決して痛くはないのだが、より互いの指が絡み、心臓が大きくなってしまった。緊張しているだけだど、言い聞かせた。


 周りにはこの関係がバレないよう、グレイといる時も女神の微笑みを意識している。仲睦まじい様子を見せなければいけないから。だが最近は、グレイと目が合わせられなくなった。


 グレイはなんだか余裕なようで、以前と比べて小さく笑うことが増えた。微笑み程度だが、それが常に向けられる。他の人には変わらず真顔なのに。それがさらに心を乱してくる。


「溜息なんて珍しいね」


 歩きながらクロエが顔を覗き込んでくる。

 どことなく楽しそうだ。


「…………」

「わ、ひどい顔。高嶺の花にあるまじき顔」


 そこまで言うなら相当なのだろう。ジェシカ自身も自覚はあった。さすがに人前では見せられないが、友人の前でなら素でいられる。


「相談したいことって? 今は甘えられる恋人がいるはずでしょう? 白昼堂々いちゃいちゃしているし」

「いちゃいちゃなんてしていないわ……」


 茶化して言っているのは分かっている。クロエはジェシカの事情を知っている。でも今は、それを笑って返せるほどの余裕はなく、弱々しい声になる。


「十分恋人同士に見えるよ。グレイ殿の方が愛が大きいって感じだね」


 それを聞いてまた溜息をついてしまう。


「え? 私、変なこと言った?」

「いいえ……。クロエには、そう見えるのね」


 恋人役をお願いすることになったとはいえ、普段と何も変わらないだろうと思っていた。一緒に話したり一緒に過ごす。それだけで十分周りにアピールできる。それ以上のことなど、望んでいなかった。


(それなのにグレイは……)


 クロエはにやっと笑った。


「思ったよりグレイ殿が攻めの姿勢で来るから、戸惑ってるんでしょ」

「っ!」


 ジェシカは反射で少し顔を赤らめてしまう。


 今までジェシカは、誰かに主導権を握られたことなどなかった。絶対に握らせるつもりはなかった。どんなに相手から言い寄られても隙なんて見せなかった。グレイに対してもお姉さんぶっていた。それが適切な距離だと思っていた。


 でもあの日以来、主導権を握られてしまった。


 基本グレイは、何かする前に許可を取ってくれる。だが急に手を繋いだり、不意に髪に触れたり、いつも距離が近い。肩と肩が触れ合うくらいに。少し顔を動かせば息さえも届きそうなくらいに。心の準備をさせてくれない時もある。相手のペースに、まんまと乗せられている。


 そのせいで常に心臓の音が聞こえるくらいに鳴っていて。距離が近いから顔を見ることも困難で。ずっと側にいることに耐えられなくなって。こうしてクロエに助けを求めた。


 アイリスには言えなかった。こんな自分、かっこ悪いと思ってしまって。恋愛講座の講師をしていたこともあり、こんなことくらいで恥ずかしく思ってしまう自分が恥ずかしいのだ。


 その点クロエは、特に女の子の気持ちに敏感で、相手が求める的確な答えを示してくれる。彼女が女性からモテるのはそういうところもあると思う。


「ジェシカよりグレイ殿の方が一枚上手だったか。これは予想外だったね」

「なっ……」

「で? 私は何をしたらいいのかな?」


 改めて相談の内容を聞かれる。


 ジェシカは少しずつ、胸の中にある思いを語った。恋人役を引き受けてくれた経緯。今は戸惑いの気持ちが大きく、一歩引いてしまっていること。グレイが思った以上に恋人のように振る舞ってくれて、翻弄されていること。


 普通にしてくれていいのに。

 普通でよかったのに。


 心地よかった友人のようなあの関係には戻れないのだろうか。


「グレイ殿って絶対ジェシカのこと好きだよね」


 開口一番がそれで思わず黙ってしまう。

 グレイの気持ちは一切言ってないのに。


 クロエは人を見る目がある。そして人をよく観察している。だから女性の喜ぶことを考えられる。同期の羨ましがる男性達をよく小馬鹿にしているのは、彼らが何の努力もしていないからだ。


「その様子だとジェシカは気付いてるよね。告白は? された?」

「いいえ。……彼は、自分の気持ちにはっきり気付いていないと思うわ」

「無自覚であれなんだ?」


 クロエは組んでいる足の上に肘を置き、手に顔を乗せてジェシカを見る。含み笑いをしながら。


「グレイ殿ってすごく分かりやすいね。リアン殿下に一途なのは知ってたけど、好きな人にもすごく一途。ずーっとジェシカを目で追ってる。大切にしたいんだなって伝わってくる」

「…………」

「なに怒ってるの?」

「怒ってないわ」

「グレイ殿に好かれて嫌なの?」

「嫌とか、そういう話じゃないわ」

「自分にはもったいないって?」


 相手の声色が急に変わった。

 真面目な表情になっていた。


「ねぇジェシカ。自分は幸せになれないとか思わないでよ」

「……思っていないわ」


 嘘だ。本当は思っている。今の自分が幸せになる道なんて、見えない。自分は幸せに値する人間じゃない。だから話を逸らしたくなる。


「グレイには幸せになってほしいわ。私よりもっといい人がいるはずよ」

「どうしてジェシカが決めるの。グレイ殿の幸せは、グレイ殿が決めることでしょう」


 正論を言われてしまい、言葉に詰まる。


(そんなことを、言われても)


 自分の状況や境遇を思うと、どうしてたって未来を考えることは難しい。まずは目の前のことをどうにかしたい。落ち着いてから、今後のことを考えたい。


 そんな中、急に好意を持ってもらえても、それを受け止める器すら、今の自分にはない。初めてなのだ。こんなにも真っ直ぐ来られて、どういう反応をしたらいいのか、分からない。


「ねぇジェシカ」


 クロエがのんびりした口調で呼ぶ。


「今まで興味のない人に対しては毅然とした態度だったよね。やたら近寄って来る相手も一蹴して」

「急にどうしたの……?」

「それがグレイ殿にはちがうって気付いてる?」

「彼は、今までの人とちがうもの」


 ふーん、とだけ言われて間が空く。

 クロエは一呼吸置いてからこう言った。


「ジェシカはデニール殿のことどう思ってるの?」

「どう、って」

「好き?」


 聞かれて、答えられなかった。

 しばらく考えてみるが、やはり答えが出なくて。


「分からない、わ」


 自分の正直な気持ちを伝える。

 なぜか「そっか」と嬉しそうな顔をされた。


「どうしてそんな顔をしているの……?」

「前は友人だ、弟みたいだ、って即答したでしょう? 今のジェシカは迷ってる。ということはグレイ殿を男性として意識してるってことでしょう?」


(それは)


 あの時は、友人だと、弟だと、本当にそう思っていたから言えた。今は……そうは、思えなくなってきている。グレイのせいだ。真っ直ぐ自分だけを見つめてくるから。守ろうとしてくれるから。


「それは、グレイが」

「グレイ殿が?」


 それを言うのはなんだか気恥ずかしい。

 ジェシカは別のことを口にした。


「どうして私を好きになったのかしら」


 ジェシカにはそれが分からなかった。

 いい人なんて他にたくさんいるだろうに。


 見た目しか褒められたことがないこともあって、ジェシカは自分の良さがよく分からない。見た目以上に価値のあるものなんて持っていただろうか。いや、グレイは価値があるから好きになってくれたわけではない。それは分かっているが、不思議なのだ。自分のような者を好きになったことが。


「いいところたくさんあるけどね」

「そうかしら」

「ここで一つずつ並べて言ってもいいけど、ジェシカはそれを素直に受け入れないでしょう」

「そう、ね」


 頑ななところはアイリスと同じだ。


 人の良いところは浮かぶのに、自分には厳しい。見た目は可憐でも中身まで可愛いとは思えない。自分を守るために笑みを浮かべ、常に凛と見せるだけ。


「私はこのまま、グレイ殿としっかり向き合ったらいいと思うよ」

「え……?」

「リアン殿下の命令とはいえ、恋人役を何の躊躇もなくやってくれたんでしょ? しかもグレイ殿から言ってくれたよね。真っ直ぐジェシカに向き合ってくれたの、男性では彼が初めてなんじゃない? とことん向き合ってみたら?」

「な……。彼に申し訳ないわ」

「申し訳ない? 何が?」

「私は……彼に何も返せないし、同じ気持ちになるとも限らないわ」

「最初は好きになりそうって言ってたよね?」

「あれは私のことを好きにならないと思ったから」

「ちょっと気持ちぐらついてるよね?」

「真面目に聞いて」


 思わず口調が強くなる。


「私は本当に、グレイの幸せを願っているの。だから、私じゃない人と結ばれてほしいわ。いい人がいるはずよ」

「……さっきと同じことを言うかもしれないけど、グレイ殿は幸せになりたくてジェシカを好きになったわけじゃないと思うよ?」


(それは)


「色々気になることはあると思うけど、グレイ殿が好きなのは今のジェシカだ」


 クロエの言葉に、ジェシカは無意識に表情を変えた。最初は曇った空のようだったのに、雲の切れ目から光が差し込むような様子だった。それを見たクロエは、優しく諭すように言う。


「ねぇ。今一番ジェシカが気にしてることって、家のこと?」

「……ええ」


 一番考えるべき、解決すべきことだ。

 今はこれ以外に考える余裕なんて正直ない。


「それが無事に解決したら、グレイ殿のことも考えられる?」

「……どう、かしら」

「ていうか、そもそもジェシカもつの?」

「え?」


 急に相手の雰囲気が変わったような気がして、きょとんとしてしまう。クロエは考えるように視線を上にした。


「剣術大会までまだ日があるよ。グレイ殿、毎日ぐいぐいなんでしょ? ジェシカ、もつ?」

「……はぁあ」


 思わずしたことない溜息をつく。


 核心を突くようなことを言われ、気が遠くなる。確かにそうだ。今でさえ近すぎる距離に耐えられないから、こうして友人に話を聞いてもらっているのに。今一番考えないといけないことは、グレイへの接し方だ。


 クロエは苦笑する。


「恋人として受け入れないといけない立場だし、思ったより押し気味に来るし、そりゃあ戸惑うよね」

「一体どうしたらいいの……」


 こんなの初めてだから分からない。

 どういう態度が正解なのだろうか。


 普段のような堂々とした様子でいたいものの、グレイのせいで翻弄されっぱなしだ。表と心の様子が違うから、後からどっと疲れたりする。


「さっきみたいな反応でいいと思うけどね」

「……さっきみたいな?」

「恥ずかしい、って態度に出すってこと」


 ジェシカはぎょっとする。

 赤面したことを言っているのか。


「そ、そんなの無理だわっ」

「どうして?」

「今まで私は、余裕のある大人の女性の振る舞いをしてきたのよ。もちろんグレイにも。こんなことで慌てふためいた姿を見せるなんて……」


 貴族令嬢でもあるため、身の振る舞い方は板についている。こんな態度を見せるだなんて、淑女にあるまじき行為ではないだろうか。それに自分はグレイより年上だ。年上らしく、落ち着いた姿を見せた方がいいのでは。


「ギャップになると思うけどなぁ。ジェシカが本当は経験ないことも知ってるんでしょ?」

「それは、そうだけど」


 恋をしたことがない話はした。慣れていない、という意味では理解してくれるだろうか。いやそもそもグレイも慣れていないはずなのに、なぜ平気そうなのか。簡単に触れてくるのか。じっと見つめてくるのか。思い出して少しだけむっとしてしまう。


「ジェシカの態度にグレイ殿がどう思うのか、確認もできるよ。もし恋心が冷めるならそれまでだろうし、それも含めて受け入れてくれるなら、なんでも受け入れてくれるんじゃないかな」

「……なんでも、って」


 どうしてそんな話になるのか。


「その方が、ジェシカも安心して身を委ねられるんじゃないかなって」

「……グレイは、優しいから」


 素直な人だ。何をしたところで受け入れてくれるような気がする。


「ええ? まさか」


 クロエは素っ頓狂な声を出す。


「グレイ殿は優しいんじゃなくて、好きな人以外に興味がないだけだよ」

「……え」

「前のグレイ殿はリアン殿下以外何も見てなかったよ。何にも興味を示さなかった。剣の腕前があるから憧れてる騎士もいるけど、稽古つけてほしいってお願いに『主の側にいたいので』って何度も断ってるの見たことあるもん」

「…………」


 確かに彼はそういう人だった。

 リアンのこと以外無頓着な人だった。


 どうしてそれを忘れていたのだろう。最近のグレイが以前と違い過ぎて、分からなくなっていた。


 黙り込むジェシカに、クロエは微笑む。

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