31*愛をもらえなかった少女は今 -01-
ジェシカは望まれて生まれた子供ではなかった。
父にとっては。
母は愛してくれた。
記憶は少ないが、彼女の笑みには慈愛があった。
『フェイシー伯爵は愛妻家』。
当時は貴族界でも有名だった。
母であるニーナは美しく長いブロンドの髪。
オパールのように輝く瞳を持っていた。
彼女は誰からも愛されるほど笑顔溢れる女性であった。令嬢としての立場や立ち振る舞いに気品はあるものの、使用人達に優しく、親しみのある人だった。だから皆、彼女を好きになった。
そんな彼女が選んだのはジェシカの父。名はジェイク。娘から見て父は、どこに魅力があるのか分からない人だった。
容姿は女性から黄色い歓声が上がるほど。整えられた栗色の髪に、人の心を射抜くような、妖艶な蜂蜜色の瞳。だが基本無口で、感情表現が乏しい。
つまり、中身は面白みのない男。見た目だけなら魅力的だと思えるだろうが、母はそんなものに興味はなかったように思う。彼女は彼の、一見面白みのないようなところを、愛していたように思う。
元々ニーナは身体が弱く、子供は産めないと言われていた。だが奇跡が起きた。
彼女は強く望んだ。医師は危険が伴うかもしれないと警告した。ジェイクは即座に反対した。ニーナの方が大事だったからだ。それでも彼女は二人の子供が欲しいと言った。
最愛の妻の願いに、ジェイクも最後は折れた。
こうしてジェシカが生まれた。
ニーナは喜んだが、ジェイクはそうではなかった。外見全てが自分に似たからだ。出産をしたことで、ニーナの容態が悪化したからだ。それでも彼女は懸命に生きた。ジェシカが三歳の頃に亡くなった。
最愛の妻を亡くしてから。
ジェイクは娘に目もくれなかった。
「順を追って説明してもらおうかな」
バルウィンはぽん、と資料に手を置く。
「フェイシー伯爵には夢中になっている女性がいるそうだね。確か屋敷の使用人であるとか」
「ええ。屋敷に来たのは大体七年ほど前ですわ。最初は使用人として誠実に仕事をこなしてくれました。……思えば最初から、父は彼女を気に入っておりましたわ」
「……亡くなられた奥方に似ていたから、と?」
資料を読んだ上での質問だ。
ジェシカは顔色を変えなかった。
「ええ。似ていたからですわ」
「……娘である君も、似ていると思う?」
「顔はあまり覚えていませんが、屋敷に残る肖像画を見る限り、外見は似ているかもしれませんわ。笑顔は似ていると思いませんが」
母はもっと優しい笑みをする人だったと思う。
「使用人の名前はキャレット・リンガー。過去に一度結婚歴がある平民で、娘が一人、か」
「離婚後、私の屋敷に縁があって働くことになったようですわ」
「娘は現在二十歳。名前はレイナ・リンガー。彼女も外見は似ているの?」
「若かりし頃の母に似ていたそうですわ」
「……だから彼は両方に夢中になっていると」
「本物の娘よりも娘だと思っている様子ですわ。学校にも通わせておりました」
バルウィンは渋い顔をする。
「君は……ずっと耐えていたんだね」
(耐える? 何に?)
ジェシカは内心冷めていた。
相手の言葉の意味が理解できなかった。いや、理解しようと思えなかった、というのが正しいだろうか。客観的に見れば、境遇に耐えていた、と見ることができるかもしれない。だがジェシカからすれば、耐えていた感覚はなかった。
父の態度に最初は困惑し、次に哀傷し、徐々に疑問に変わり、やがて無関心になった。最初から「いないもの」のような扱われ方をされたせいで、自分の存在理由や価値が分からなくなった。
それでもこうして生きられたのは、昔から屋敷で働いてくれている使用人達のおかげだ。ジェシカを放置し続ける父に代わって、まるで家族のように育ててくれた。侍女長も、執事長も、世話をしてくれた侍女も、皆がジェシカを心配してくれた。
おかげで、ここまで育つことができた。
父は娘にずっと無関心だったが、成長すると目障りになってきたのだろう、結婚は早めにするよう、使用人を通じて言われたことがある。ジェシカは自分の立場を考え、社交界に出たり、人脈作りを意識してきた。だが途中で馬鹿馬鹿しくなった。なぜ自分の人生を人に決められなければならないのかと。
文官になることを決め、士官学校に行けば信頼できる友人に出会えた。恩師にも出会えた。昔も今も、味方になってくれる人達はいる。
だから今、一人で立てている。
ジェシカの脳裏に皆の顔が浮かぶ。
その中には、銀髪の彼も入っていた。
「つまりフェイシーは……ジェシカ嬢は、立場を奪われたということか?」
ロイはアイリスの話に困惑する。
実の母を失った悲しみの直後、父から全く相手にされていなかったなんて。仲違いと聞いていたが、想像以上に冷たいすれ違いに、ロイはもどかしい気持ちになる。それに、使用人として来たはずの女性とその娘の方が、実の娘よりも愛されているだなんて。
アイリスの表情は固かった。
ジェシカの過去を話すのが辛いのだろう。
二人は手を繋いでいた。
ジェシカの話をする前から繋いでいたが、アイリスが繋いだ手を少し強く握った。少しだけ強張っているようにも感じた。ロイもそっと握り返す。
「伯爵が二人を気に入ったせいで……特に娘のレイナは、ジェシカに対して態度が変わりました」
「態度が変わった?」
「伯爵に気に入られてからは、まるで自分が伯爵令嬢になったかのような振る舞いをするようになったそうです」
アイリスはある光景を思い出していた。
令嬢は十六になるとデビュタントに参加する必要がある。簡単に言えば「貴族令嬢のお披露目会」だ。社交界に興味がなかったアイリスもそれは義務として参加しなければならず、父と母と参加した。その時、会場にジェシカもいた。
その時はまだ士官学校に入学していなかった。ジェシカとは面識がなかった。そもそもフェイシー家は当時、他の貴族とあまり関わりを持っていなかったのだ。
ジェシカのことは噂でしか聞いたことがなかった。とにかく美しい令嬢がいると。実際見て確かに綺麗な子だなと思った。煌びやかなドレスを身にまとい、年齢にしては大人びたアンニュイな雰囲気を持っていた。なぜか彼女は一人だった。
彼女の噂を聞きつけてか、多くの男性やその親であろう人物が彼女に近付いた。彼女はその瞬間、天使のような微笑みと共に「私はあなた方に興味がありませんわ」と鋭い言葉をぶつけていた。第一印象と真逆な人物だなと一瞬引いたものだ。
『お姉様!』
そんな彼女に近付いた少女がいた。
途端にジェシカの顔は強張った。
対して小走りでやってきた少女は微笑んでいた。
当時アイリスはこの光景を見て、ジェシカには妹がいるのかと思っていた。彼女が「お姉様」と呼んだからだ。顔はあまり似ていないが、ジェシカと同じ上質なドレスを着ていたからだ。
まさか彼女がただの使用人の娘であるだなんて、その会場にいた者達は誰も気付かなかっただろう。
『こちらにいらしたのね』
『……レイナ。どうしてあなたがここにいるの。あなたはまだ十五でしょう』
『一人で来たわけではありませんわ。それに、挨拶のためです』
『挨拶……? そのドレスは』
『レイナ』
名を呼んだのはジェシカの父である伯爵だった。
彼は実の娘ではなくレイナの名前を呼んだ。
『俺から勝手に離れるな』
するとレイナは、まるで怒られるのは悲しいとでも言うような、媚びたような表情をする。目を潤ませ、小さい声でジェイクに問いかけた。
『ごめんなさい。私のこと、お嫌いになりました?』
『そんなわけがない』
伯爵はすっとレイナの背に手を回し、別の方向へと歩き始める。ジェシカには何も言わずに。目も向けずに。レイナはジェシカに対してくすっと笑っていた。どこか面白がるように。憐れむように。客観的に見ても、あまりいい笑みではなかった。
彼らが歩き出すと、入れ替わるように一人の女性がジェシカに近付いた。侍女なのか、ジェシカに気を遣うように声をかけていた。
その時のジェシカの顔が、アイリスには印象に残っていた。表情がなかったのだ。まるで「無」だと言わんばかりの様子で、彼らの姿を見るのをやめた。そして侍女と共にどこかへ行ってしまった。
『……あの噂は本当だったか』
アイリスの共に様子を見ていた父は、息を吐く。
そこでフェイシー伯爵家の噂を知った。
『あなたが同室? よろしくお願いしますわね』
『……え!?』
アイリスがジェシカと再会したのは士官学校の寮部屋だ。同室だった。アイリスが驚いたのは、ジェシカがいたからではない。いかにもお嬢様な彼女が、こんなところにいたからだ。
すると彼女は鼻で笑った。
『侯爵令嬢のアイリス様ですわね。フェイシー伯爵家のジェシカと申します。騎士になるという話は存じておりましたが、本当に目指されるのですね。ご一緒できて光栄ですわ』
『……馬鹿にしてる?』
『あらごめんなさい。馬鹿にして笑ったのではありませんわ。信念を貫く姿勢がとても凛々しいと思っただけです』
後半の言葉は、本当に賞賛しているような様子だった。令嬢で騎士になる者は多くない。むしろ女性らしくないと言われてしまうことが多かったので、ジェシカの言葉は素直に嬉しかった。
だから、仲良くなれる気がした。
『敬語は外して。士官学校では身分は関係ないから。これからよろしく、ジェシカ』
アイリスから手を伸ばす。
すると相手はあっさり応えた。
『堅苦しい間柄にならないようで安心したわ。正直面倒だもの。よろしくねアイリス』
『……あなた、けっこう正直ね?』
『ええ。何か問題が?』
満面の笑みで言われてしまう。
いい性格をしていると思った。
話してみればすぐに打ち解けた。
同じ令嬢だからこそ分かりあえることがたくさんあった。周りから嫌でも注目を受けるところも。自分の思ったことははっきり伝えるところも。士官学校時代は一緒に行動を共にすることが多かった。
そして彼女の事情も、少しは聞いた。
家に居場所がないこと。
一人で生きるだけの力が欲しいこと。
簡潔に言えばそれだけ。
屋敷に味方はいるらしい。家の状況も慣れたらしい。だから大丈夫だと。それ以上詳しいことは話してくれなかった。同じ令嬢だからこそ話したくない内容もあったかもしれない。知らぬ間に自身で証拠を掴み、自分の家族を密告するなど、どのような気持ちでいたのだろうか。
アイリスは今、ロイと共にいながら。
心はジェシカに向けていた。
(……ジェシカ。私を親友だと思ってくれるなら)
心の中で唱える。
(お願いだから、一人で抱え込もうとしないで)
「伯爵が夢中になっている女が平民であることは多少目をつむっていた」
急にシリウスが会話に入る。
「貴族界では別に珍しい話ではない。今までこちらの領分を踏み超えてこなかったから口出ししなかった」
ジェイクの行動は公爵であるシリウスの耳にも届いていたのだろう。父が一人の女性に夢中であることは、大体の貴族は把握している。
周りが何も言わなかったのは、今彼が言った通り。キャレットが使用人であることに変わりがなかったからだ。
だが。
「最近その女は大胆な動きをしているようだな。まるで伯爵夫人のような立ち振る舞いをしていると」
シリウスの声色に棘が宿った。
「ただの平民、しかも使用人が貴族同然に大口を叩くなど前代未聞だ。だが周りの貴族は伯爵に対し何も言わない。……そうだろうな。伯爵はいくつもの鉱山を所持している」
「ええ」
フェイシー家は代々鉱山を所有していた。
それも一つではない。いくつもある。
鉱山のおかげで金や銀、宝石を採取することができ、それだけお金になる。材料となるものも多く採れ、代々フェイシー家はこの鉱山で生計を立ててきた。王族への献上品も多くあったことから、爵位をもらった。それに、商人達との関わりも深い。誰もがフェイシー家の鉱山に注目している。
ジェイクが一人の女性に夢中になり、その女性が使用人の身分であるのに好き勝手な振る舞いをしていたとしても、誰も何も言わない。それは「鉱山」という金になる物を持つ彼を、敵に回したくないからだ。取引をしている者からしたら、彼と仕事の縁を切られるのは困る。だから誰も批判せず、黙認している。権力を使っている、と言われても仕方がない。
シリウスがこの場にいるのは、バルウィンの右腕であるから、というだけではない。貴族界の上にいる者として、ジェイクが貴族に相応しくない行動を取っていることを指摘しているのだ。
「娘である君にこんなことを聞くのもどうかと思うけど、」
バルウィンが控えめに聞いてくる。
ジェシカは「お気になさらずに」と微笑んだ。
「伯爵は再婚する可能性があったと思ったけど、そうではないの?」
「屋敷の使用人達によると、何度も求婚していたそうですわ。ですがキャレットはその話が出る度に断っていたそうです。『自分はあくまで使用人であり、どうか亡くなった奥様を大事にしてほしい』と」
「言っていることとやっていることがだいぶ違うな」
シリウスが皮肉と共に鼻で笑う。
バルウィンは分からないように眉を寄せた。
「再婚した方が、彼女にとっても利益があると思うけどね」
「身分的に結婚は簡単ではない。貴族と平民なら尚更だ。そもそも俺が許さない」
ばっさり切るようにシリウスは言う。
バルウィンは嗜めるように声をかける。
「シリウス……。身分的な障害はあるけど、王族は結婚自体を禁じてはいないよ」
「王族がどのような考えであろうと、俺が貴族界の規律を正していく。乱れているところを放置すれば、どんどん膿が溜まるだけだ」
最近貴族界で会議があったようだ。
ジェシカの耳にも届いている。
公爵であるシリウスは立場上、貴族に関することは王族から任されている。その彼が言うのだから、今後貴族界でうやむやになっていることも、正しく修正するつもりだろう。
シリウスは貴族の正式な血筋を大切にする。高貴な身分の者は、その血を引き継ぐために高貴な者との結婚が必須だ。平民の血を入れるということは、自身の家名を下げるような行い。それはタブーとされており、平民と貴族の結婚は多くない。
大体の貴族は、平民を愛人にするかどこかの貴族の養子にする。養子でも貴族となれば、結婚もしやすい。貴族界では家名がとても重要であり、いい噂も悪い噂もすぐに駆け巡る。注意しなければ没落してしまうリスクが高くなる。それを防ぐ意味でも、シリウスは目を光らせているのだろう。
「伯爵は愛人にも養子にもしていないだろう。その平民の女の言い分も謎だな」
「そうですわね。彼女の真意は分かりませんわ。父はそれでも彼女を傍に置いておりました。そして彼女も……その位置を利用するようになってきました」
ジェシカは一度言葉を止める。
父親にどんな扱いをされようと、父親がどんな振る舞いをしようと、ジェシカ自身はどうでもよかった。
耐えられるから。
味方がいるから。
元々一人で生きていくつもりだった。
誰かを巻き込むつもりもない。
だが。
父親のせいで、その周りのせいで、自分以外の人が巻き込まれるようなことが起きるなら。……黙ってはいられない。
大事な親友に関することなら。
尚更許さない。
「あの件、だね」
バルウィンは別の報告書を取り出す。
それを見ながら、深い溜息をついた。
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