29*振り回される高嶺の花 -01-

「フェイシー殿」


 グレイが右手を伸ばしてくる。

 手が重なった、と思えば。


「『手に触れると緊張する』というのは、どういうことなんですか?」


 抑揚のない声色。彼は左手に一冊の本を持っていた。第一王女であるメイベルおすすめの恋愛小説。とあるページを開けながら、質問してきたのだ。


(……まさかグレイから出かけようと言われるなんて)


 事の始まりはアイリス達が隣国へと旅立つ前日。

 グレイのことを頼むと、彼の主人であるリアンに言われてしまった。


 具体的なことは聞いていなかったため普段通り文官の仕事に向かおうと準備していると、寮までグレイが迎えに来た。今いる場所は街の図書館だ。今までジェシカが声をかけることはあったが、グレイから誘われることはなかった。だから驚いた。


 この二日は、リアンによって仕事が休みになっていた。ここ一か月はアイリスの恋愛講座のために休んでいたが、まさかグレイのために休むことになるとは。そこまで任せられるとは、随分とリアンから信頼されたものだ。


 友人となったグレイと過ごす時間は素直に楽しいと思っていた。異性の友人がいなかったこともあり、得られるものが多くある。男女が一緒だと、親しい間柄だと思われる。恋人か、それ以上の関係だと疑われる。だがグレイにそのような意志はないし、彼はリアンの側近という立場を持っている。ジェシカにとってこれほど過ごしやすい相手はいなかった。


 一緒にいる時間が増えると自然と相手のことを知る。彼は何にも興味がないようで、人並みに学ぶ姿勢があった。それは主人のためだが、彼自身、知れることに喜びを感じていた。そのきらきらとした眼差しは純粋のそれで、ジェシカには少し眩しく映った。と同時に、そのままでいてほしいと、心から願った。


 そんな時にメイベルによって、恋愛を学べと愛読書を渡された。このままいい友人関係を築きたいと思っていた矢先にそんな話になり、リアンだけでなくジェシカも若干渋い顔になった。


(グレイは、そのままでいいわ。そのまま、いつか出会う人と、幸せになってくれたらいい。わざわざ自分から恋と愛について知る必要なんて……)


「フェイシー殿」

「え?」

「教えていただけませんか」


 彼はジェシカを見つめたままだった。

 ついでに手も握ったままだ。


 ジェシカが何も答えなかったからだろう。

 色々考えている間も、ずっと待ってくれていたらしい。


 ここは図書館の中でも端の席だ。小声であれば少々話しても問題ない。向かい合わせで座りながら、グレイに聞かれたのだ。恋愛小説は一通り読んだが分からないことが多いと。だから一つ一つ、教えてほしいと。メイベルから言われたことを忠実に守っている辺り、根が真面目だなと思う。質問をしたくて、わざわざ外に連れ出したのだろう。


 もう恋愛小説を読んだのかと眩暈がしたが、分からないことが多いことに安堵はした。だがこれは、全て事細かく教えた方がいいのか、あえてぼかした方が彼のためなのか。人からの相談には大体即決で答えるが、この場合迷ってしまう。


「フェイシー殿は今、緊張していますか」

「触れられていることに?」

「はい」


 これには首を振る。


「だってグレイだもの」

「……?」


 分からないように首を傾げられる。

 ジェシカは小さく微笑んだ。


「私はグレイに緊張しないわ。安心しているから」

「安心?」

「ええ。あなたは絶対私に危害を加えない人だから」

「……安心していると、緊張しないんですか?」

「ええ。一緒にいてとても心地がいいの」


 本心だからか、自然と言葉が出てくる。


 グレイと一緒にいるのはとても気が楽だった。何かに気を遣う必要がない。彼は素直なので、ジェシカも自然体のままでいられた。


 グレイは少しだけ考えていたが。

 小さく頷いていた。


「自分も、そうかもしれません」

「グレイも?」

「はい。フェイシー殿の傍は、安らぎます」


 ゆっくりと、確認するように言われる。

 ジェシカは頬が緩む。


(そんなことを言ってくれるのは、あなただけよ)


 他の男性ならきっと、別のことを言うだろう。彼らはジェシカのことを、見た目でしか判断しない。ジェシカが人に向ける柔らかい笑みや物言いを、都合のいい受け取り方しかしない。


「嬉しい。私達、いい友人ね」

「友人は、安心があるものなんですか」

「それは……人によるわね」

「人による」


 グレイは繰り返すように呟く。


「相手との関係性によるかしら。互いの心の距離がどれくらい近付いているのか、それによると思うわ。それによって、緊張を感じるのか、安心を感じるのか、変わると思うの」

「……難しいですね」

「ええ、難しいわ。人の心を理解することは。特に、恋と愛は難しいわ」


 リアンは少しだけ息を吐く。まるで途方もない勉強を始めてしまったと気付いたように。理解までに時間がかかるものだと悟ったのだろう。


 ジェシカは同情するように苦笑してしまう。こればかりは、誰にだって難しい。人の気持ちだけではない。自分の気持ちだって理解することは難しい。


「話を戻しますが、どうしてこの二人は緊張しているんですか」


 本の中身を見せてくる。


 主人公の女性と、その相手役であろう男性は、手を繋ぎながら互いを意識しているようだ。緊張故か口数が少なく、二人は黙り込んでいる。でもその手は決して離さず、繋がれたまま。


 グレイは、この二人の心情がよく分からないようだ。


「相手が好きな人だからよ」

「好きな人だと、緊張するんですか」

「そうね。二人とも、自分だけが相手のことを好きだと思い込んでいるみたい。自分が相手にどう思われているのか不安なのもあるでしょうし、触れ合う行為は、慣れないものよ」

「なぜ慣れないんですか」

「触れ合う行為は、それなりの関係性が築かれていないとできない、してはいけないことだからよ。好きな人同士か、恋人か、夫婦がすることね。普段の生活で人と触れ合うことはないでしょう? それに相手は自分の好きな人なわけだから、緊張するものなの」

「……好きな人とは、どういうものなんですか?」


 恋愛の本質を突くような質問だ。

 正直、言葉で説明するのはかなり難しい。


 ジェシカは自分なりに伝えてみる。


「グレイは、リアン殿下のことを人として、主人として、好ましく思っている?」

「主は恩人です。一生仕えたいと思っています」

「そう。それは、敬意を持ち合わせているからだと思うけど、リアン殿下個人のことを、好ましく思っているからなのもあると思うわ」

「……では、自分は主が好きということですか?」

「人としてね。でもこの本の二人の場合『好き』の意味が異なるの」

「意味が二つあるんですか?」

「種類がある、と言えばいいかしら。さっきお店でパンを食べたわよね」


 ここに来る前に、城下で有名なパン屋に寄った。


 あまりに香ばしいバターの香りが漂って、気になって入ったのだ。一番人気はクロワッサンのようで、ジェシカは一口目で虜になった。グレイも食べた瞬間顔色が変わったので、きっと好きだったと思う。


「はい。美味しかったです」

「リアン殿下への好きは、お店で買ったパンと同じくらいの好きよ」

「主はパンではありませんが」

「そうだけれど、そういうことではなくてね」


 ジェシカは小さく笑う。


「リアン殿下への好きは、尊敬の意味が大きいかしら。感覚的な話になるけど、一緒にいることで自分が高まるような、居心地がいいような、身近にある『好き』よ。でもこの本の二人の好きは、もっと前へ進んだ『好き』なの。ずっと隣にいてほしい、離れたくない……そんな熱い想いが含まれているわ。好きになるタイミングもきっかけも、人によるの。一概には言えない。だけど……そうね、ずっと触れたいと思ったりするわ」

「触れたい……と思う」

「友人同士は手を繋いだりしないわ。触れたりもしない。こうやって」


 ジェシカは自分の手の上に置かれている、グレイの手に触れる。彼はずっと握ったままだった。手に触れることでどういう気持ちになるのか、確かめたかったのかもしれない。


 ジェシカは彼の手を軽く掴み、自分の手から離す。

 そして、自分の両手を彼に見せる。


「手が離れても、何も思わないでしょう?」

「…………」

「手が触れても緊張しない、手が離れても特に何も思わない。これが普通よ。そう思わないということは、相手のことが気になっている、もしくは好意があるからなのかもしれないわ」

「触れたいと思うのは、好きだからですか」

「理由の一つだったりするわ。普通はそう思わないから」

「友人では、思わないんですか」

「思わないわ。触れなくても、こうして一緒にいたり、話しているだけで満たされるもの」

「触れたいのは、満たされていないからですか」

「満たされていないというよりは……もっと欲が出てしまうのかもしれないわ」

「欲?」

「言葉だけで説明するのは難しいわね。ちょっと移動しましょうか」


 二人は図書館を出た。


(思ったより、ちゃんと説明してしまってるわ)


 質問されるがままに、結局答えてしまっている。そもそも質問内容が難しいので、上手く伝えない方法が取れない。恋愛というのはおそらく誰もが一番悩み、分からないものではないだろうか。現にグレイは、ジェシカが質問に答える度に、新たな疑問が増えている。


 二人は近くの公園に到着した。


 老若男女問わず人が集まる広い場所。見渡せばすぐに、男女二人組を見つけた。談笑しながら公園を歩いており、その距離は近い。顔を近付けてひそひそ話をしているので、おそらく近しい関係だろう。それをジェシカ達は見た後、歩き出す。


 別の男女二人組は、ベンチに座っていた。肩同士をぴったりとくっつけ、女性は男性の肩に頭を置いている。リラックスしている様子だった。


 公園にいる男女二人組の中には、ジェシカ達のような友人同士の組み合わせもあった。休憩中なのか、何か食べ物を口にしている人達もいる。同じ制服を身にまとっている人達は同期だろうか。軽口を叩いている様子だった。こう比べると、関係性にかなり違いがあるのが分かるはずだ。


「どう思う?」

「恋人同士のような方達は、触れ合っていますね」

「そうでしょう。それに、二人共幸せそうな顔をしているわ」


 互いの顔を見ながら微笑んでいた。

 相手しか目に入っていないのは一目瞭然だ。


「グラディアン殿がブロウ殿を見ていた目と同じですね」

「そういえばあの時はよく分かったわね」

「グラディアン殿の場合は、分かりやすい気もします」


(そう言われるとそうね)


 ロイは別に気持ちを隠していたわけではない。公言はしていなかったが、アイリスへの気持ちを見抜いた人は他にもいたはずだ。アイリス本人が一番気付いていなかったように思う。


「グレイもいつか、好きな人ができるかもしれないわね」

「フェイシー殿はいないんですか」

「いないわ」

「昔はいたのでは」


 ふふふ、と思わず笑みがこぼれる。

 真っ直ぐ彼の目を見る。


「それが、いないの」


 意外だったのだろう。

 そんな顔をされる。


 だが彼に嘘をつきたくなかった。

 紛れもない事実を伝えたかった。


 経験や知識はある。だが本当の意味で恋をしたことも、誰かを愛したこともない。世間で「高嶺の花」と呼ばれている女性が、両方を得られたことがないだなんて。恋に落ちたことも、愛を知る暇もなく、成長してしまったなんて。おそらく誰も、知らないだろう。


 想像と違って、幻滅しただろうか。

 それとも嘘だと、否定されるだろうか。


 グレイの言葉を待っていると。


「では、いつかフェイシー殿もできるかもしれないですね」


 あっさりそう言われた。

 思わず目を丸くする。


 今ので、まさかそう言われるとは。

 てっきり何か聞かれると思っていたのに。


 だがそれが、ジェシカの心を軽くさせた。


(……本当に、素直で、いい子で、心が綺麗)


 このまま穢れないでほしい。

 純粋のままでいてほしい。


 自分と違って。


 ジェシカは自嘲気味に思いながら足を進める。

 と、目の前の光景に思わず固まる。


「? フェイシー殿」

「グレイ。戻って」


 慌てて来た道を戻ろうとする。

 彼に戻るよう、身体を押す。


 だがグレイの方が身長が高く、身体も大きい。ジェシカが見てしまった光景を、グレイも目にしてしまう。


 そこにいたのは、木の物陰で口づけを交わし合う男女の姿だった。あまり人の目に入らないからこの場所を選んだのだろうが、ジェシカが見つけてしまった。


 グレイは見慣れない光景に硬直していた。顔色は変わっていないが、衝撃を受けているようにも感じた。恋愛をよく知らない青年がこの場面を見るのは、刺激が強すぎる。ジェシカは慌ててグレイの腕を引っ張る。急いでその場から移動した。


(余計なものを、見せてしまったわ)


 今の彼に必要ないものだったのにと、ジェシカは反省する。グレイはジェシカに引っ張られるままに、ついてくる。ここなら大丈夫だろう場所まで移動したと思えば、ジェシカはすぐに謝ろうと振り返った。


「っ!」

「!?」


 急に止まったジェシカと、止まるタイミングを失ったグレイ。事前に止まると言えばよかった。正面衝突するしかない中、グレイが慌ててジェシカを抱きとめるような形になる。おかげで互いに怪我をしないで済んだ。


「ごめんなさい。大丈夫!?」


 ぱっと顔を上げて声をかける。


「はい」


 グレイも安堵するような声を出す。


「怪我はない?」

「ありません。フェイシー殿は」

「ないわ。ありがとう、受け止めてくれて」


 すぐに離れようとしたのが。

 自分の腰にグレイの手が置かれたままだ。


「グレイ、もう大丈夫よ。!?」


 そう伝えたのに、なぜか引き寄せられる。

 今度はしっかり、グレイの腕の中にいた。


「グレイ?」

「フェイシー殿、細すぎませんか」

「え?」

「ちゃんと食べていますか」


 どうやらあまりの細さに驚いたらしい。


「た、食べているわ。大丈夫。女性は男性より食べる量が多くないの。大丈夫だから、あの」


 そろそろ離してくれないかと遠回しに伝えようとするが、グレイの腕の力は弱まらない。そのまま、そっと優しく撫でられる。まるで大切にされているようで、慣れない感覚だった。


 グレイは呟く。


「人の身体は温かくて、柔らかいんですね」

「そう……ね?」


 と答えながら、ジェシカは困った。

 グレイの意図が分からない。


 先程の恋人達のように、触れ合ったらどうなるか、知りたかったのだろうか。


「もう少し、このままでもいいですか」


 予想してない言葉に耳を疑う。


「落ち着くんです」


(……わ、私は落ち着かないわ)


 人の体温が心地いいのかもしれないが、ジェシカはそんな気になれなかった。相手は年下で、弟みたいだと思っているが、こうして触れてみると体格差がある。グレイの身体は鍛えられており、角ばった手は大きくてごつごつしている。彼は男性なのだと、意識してしまう。


 徐々に触れ合っている面が温かくなる。触れているからだろうが、最初よりもしっかり抱きしめられていると感じ、ジェシカは緊張してきた。


(落ち着くというのは、あれかしら。グレイは孤児だし、母親的な意味? でもだからって、これは……)


 男性から言い寄られたことも、無理やり触れられたこともある。その時は毅然とした態度を取った。相手が無礼な人だったからだ。だがグレイはそうじゃない。


 グレイのような、見た目が麗しく、剣の腕前もあり、中身もいい人にこんなことをされたら、普通の女性はたまったものじゃない。


 自分だからまだ成立しているが、他の女性にこれをしたら絶対に勘違いされる。それは彼にとってもよくない。と思えば言葉は早く出た。


「あの……女性にむやみに触れてはいけないわ」


 自分のことはとりあえず置いておく。

 相手の意図が分からないからだ。


「女性、ですか」

「ええ。さっきも言ったでしょう。それなりの関係性でないと」

「俺が触れたいと思うのは、フェイシー殿ですが」

「は……?」


 令嬢にあるまじき言葉遣いをしてしまう。

 それほど信じられなかった。思わず唖然とする。


 だがジェシカはすぐに思い直した。


(深い意味はないわ。グレイはただ思ったことを言っただけ。だから、大丈夫)


 何が大丈夫なのかと自分でも混乱していた。

 とにかくまだ大丈夫だと言い聞かせる。


 と、急に身体が軽くなる。

 手が離れたのだ。


 ほっとして顔を上げれば。


(!?)


 グレイの手はジェシカの頬に触れていた。

 綺麗な顔立ちが目の前にある。


 もう少しで互いの吐息が頬に当たってしまうのではないかと思うくらいの距離だ。何か言いたいが、近過ぎて動けなかった。


「わぁ……」


 すぐ近くで何やら声が聞こえる。

 思わず顔を動かせば。


「美男美女のセットは目の保養だねぇ」

「クロエっ!?」


 非番なのだろうか。

 私服姿のクロエがそこにいた。

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