17*知らなかった -06-

「アイリス……?」


 ロイが戸惑うような声を出す。


 思わず寄りかかってしまったが。

 アイリスは身体をロイに預けた。


 すると。

 心臓の音が大きく聞こえた。


 自分のものだろうかと思ったが。

 違う。耳元で鳴っている。


 ロイの心臓の音だった。


 彼は今シャツの姿だ。上着はアイリスの肩にかかったまま。よく聞こえるのは、いつもより薄い格好でいるせいだろうか。思いのほか、速く動いている。


(緊張してる)


 人の鼓動がこんなにも心地いいなんて。


 いつも自分ばかり緊張して。動揺して。

 対してロイはいつも余裕の表情で。


 以前、緊張しないわけじゃないと言っていた。信じられなかった。だが今、確信した。彼も自分と同じように、緊張してくれている。


 それが、嬉しい。

 まるで同じ気持ちになったかのようだ。


 アイリスは耳を彼の胸に押し当てる。

 ぴったりと、くっついていた。


 ロイは静かだった。アイリスが何も言わないせいかもしれない。アイリスはロイのシャツを軽く握っている。身体を預けている状態だが、何かを掴んでいたかった。対してロイは腕は下ろしたままだった。


 だった、が。


 アイリスの背中にそっと温もりが回る。

 上着ごと、抱きしめられた。


 先程とは違って軽く。

 優しく、ただ触れるように。


 先程の抱きしめ方も嫌ではなかった。だが、こちらの方がロイの人柄を感じられて。安心できる。それに、心臓は今も大きく響いていて。アイリスは自然に目を閉じ、ロイの胸の中にいた。


 しばらく時間が過ぎ、触れ合っているところが段々温かくなる。アイリスは身じろぎもせずそのままでいた。するとゆっくり、ロイの手が動いた。


 アイリスの頬に、優しく触れる。


 そのまま顔を上げられ。

 目が合う。


 綺麗な緑の瞳に吸い込まれそうで。

 いつも以上に真っ直ぐ自分の姿を捉えている。


 思わず見惚れていると。

 相手はゆっくり顔を近付ける。


(え)


 近付きながら目を閉じていて。

 アイリスも思わず、同じようにしてしまう。


 互いの吐息を感じると思った瞬間。


「アイリスっ!」


 ドアを開ける大きな音と声。

 反射で二人は距離を取った。


「ジェ、ジェシカ!?」


 顔を向ければ荒い呼吸を繰り返す親友の姿。

 帰ったはずではと目をぱちくりさせていると。


 急ぎ足でこちらに向かってくる。

 勢いよくぎゅっと、抱きしめてきた。


「ジェシカ……?」

「……あなたが襲われたと聞いて。心配したわ」


 どうして知っているのだろうと思ったが、彼女は少しだけ身体を震わせている。いつも自分に自信があって誰の前でも堂々としていて。そんな彼女がこんな姿を見せるのは珍しい。


 震えは動揺の表れだろう。

 本当に心配してくれたのだ。


 アイリスは彼女の背中をさする。

 安心させるように笑った。


「大丈夫よ」

「本当に?」

「ええ。本当」


 ジェシカはゆっくりと身体を離し、アイリスを見る。まだ不安げな様子だ。嘘をついていないかじっと見たり、怪我をしていないか、身体を確認していた。


「ロイ殿が助けてくれたから」

「そうだったの」


 ちらっとジェシカがロイに目を動かす。


 彼がシャツ姿になっていることに疑問を感じる顔になり、アイリスの姿を見て納得した。そしてやっと気付いたように「あら」と気の抜けた声を出す。


「私もしかしてお邪魔だったかしら」


 アイリスとロイは慌てて首を振った。


「もうジェシカ〜。だから先に行かないでって」


 クロエが少しぐったりした様子で入ってくる。どうやらジェシカを見失っていたらしい。クロエも残っていたのだと知り、目を丸くさせる。


「二人共帰ったんじゃなかったの?」

「知り合いの令嬢がいたから挨拶していたのよ」

「私は付き添いでいたんだけど、ジェシカ知り合いが多くてさぁ……。待ってる間あちこち移動するし、追うの大変だったよ」

「あら。クロエだって女性にたくさん話しかけられたでしょう?」

「そうそう。だから話を切り上げるのに苦労した。みんな魅力的だからね」


 二人の軽口に、アイリスは自然と緩んだ顔になった。気心が知れている友人の前だと、いつもの自分になれる。


「給仕の中にも知り合いがいて、襲われた令嬢がいるって教えてもらったの。見た目の特徴を聞いて、すぐにアイリスのことだと思って」


 ダークレッド色のドレスは珍しい。

 だからすぐに分かったのだろう。


「男は警備隊に引き取らせたよ。警備についてる騎士はより警戒を強めるって」


 クロエが補足するように説明してくれる。


 普段警備の仕事をしていることもあり、情報共有があったようだ。今日もこの後、仲間と合流して仕事の話をするという。忙しそうだと心配しているとにっこり笑われる。


「皆の安全を守るのも私達の仕事だから。気にしないで」

「今日はもう疲れたでしょう。一緒に帰りましょう」


 ジェシカはアイリスの両手を優しく握りながら言う。ちらっと同意を求めるようにロイに目を向けた。彼は大きく頷く。


「馬車を呼ぶ。二人で一緒に帰った方がいい」


 先程のこともあり「女性は一人で行動しないこと」と念押しするように言ってロイは部屋を出る。アイリスはその間、視線を自分の足先に固定してしまう。ロイの方が見られなかった。ドアが閉まって静かになった後、ジェシカにそっと聞かれる。


「グラディアン教官と何かあった?」


 さすが目敏い。


「べ、別に」

「今日は聞かないであげるわ」


 言いながらまたジェシカが抱きしめてくる。


 なんだかいつもより甘い気がする。いつもだったらもっと追及してくるのに。声色も優しかった。襲われた身だから気にしてくれているのかもしれない。


 それ以外は何も言われない。

 ただ抱きしめられるだけだ。


「美女二人でずるいな。私も混ぜてよ」


 クロエも参戦してくる。

 後ろから手が伸び、抱きしめられた。


 前はジェシカで後ろはクロエ。

 二人に包まれているような形になる。


(なにこれ)


 アイリスは戸惑いながらもそれを受け入れる。


 二人とは仲が良い方だが、くっつくことはあまりない。じゃれたりすることもほぼない。だからこそ戸惑う。どういれば正解なのだろうか。


 だがそれよりも、二人の心配が嬉しかった。何も聞かず、何も言わない。先程のロイと一緒だ。だけど心に寄り添いたくて、こうやってわざわざ引っ付いてくれる。


 おかげで先程の恐怖はほとんどなくなった。


 ロイのおかげで。

 二人のおかげで。


 と、二人きりでいた時のことを思い出してしまう。


 思わず自分から彼に身を寄せてしまった。

 抱きしめられたと思ったら、顔が近付いて。


(……あれって)


 あのままジェシカが来なかったらどうなっていたのだろうか。思わず深い溜息をついてしまう。「どうしたの?」「大丈夫?」と前後で言われてしまい「だ、大丈夫」と答える。


 その先のことを考えたら顔から火が出そうな勢いだが、それを受け入れようとした自分にも驚いている。今までの自分であれば絶対に一歩後ろに引いているところなのに、彼の唇を待っていた。


(……憧れの気持ちの方が大きいと思っていたのに)


 剣の師匠としても人としても。

 憧れているし尊敬している。


 だがそれ以上に。


 ロイのことを、一人の男性として好きだと。

 アイリスは改めて気付いてしまった。


 とはいえ、ロイの行動が本当にだったのかは。

 正直分からないところでもある。


(私の勘違いだったら恥ずかしいし)


 絶対に自分からは言えない。


 先程は照れによってロイを見れなかったが、さすがに顔を引き締める。顔を見ないで帰るのは失礼であるし、一言くらい言葉を交わしたいと思っていた。




「アイリス。クロエと少しお話があるの。待っててくれる?」

「え」

「クロエ、ちょっといいかしら」

「いーよー」


 馬車が到着し帰ろうと思っていると。

 急にジェシカにそう言われる。


 残された二人は少しだけ無言になった。


(……挨拶するだけかと思ったのに)


 急に話す時間を与えられてしまう。


「気分は、どうだ」


 ロイから話しかけられる。


 こういうところが自分より年上であるなと、ありがたいような悔しいような。さすがに視線を避けるのは申し訳なかったので、目を合わせる。


 見守るような優しい瞳。

 思わずどきっとした。


「大丈夫です」

「よかった。ゆっくり休んでくれ」

「はい。……ありがとうございました」

「こちらこそ。妹の件で助けられた。ありがとう」


 ロイは微笑む。


 先程の行動に関することは何も言われない。アイリスが急に身体を寄せたことも。ロイが近付いてきたことも。何も言われない。アイリス自身も何か言うつもりはなかった。でもあれは、どういう意図だったのか、少し知りたい自分もいた。でも逆に聞かれたら、想いが溢れたからとしか言いようがなく。


 それは、告白をしてしまうことになる。


 隣国の王子へ仲を証明する仕事がまだ残っている。もしここで心を伝えて、どちらの返事をもらったとしても。アイリスは絶対に集中できないと考えた。どちらにしても心が乱れるだろう。ロイと一緒に臨む仕事だ。どうなっても成功させたい。ならば今ではなく、その後だったら。


(……終わってからなら、伝えてもいいかしら)


 相手の返事がどういうものでも。


 ただ好きであると伝えることを。

 許してもらえるだろうか。


(そうね。そうだわ。伝えてもいいかもしれない)


 アイリスはロイを真っ直ぐ見つめる。


 今までは返事が怖かった。元の関係に戻れないことが怖いと思った。でも今は、ただ伝えたいと思った。どういう結果になってもいいから、伝えたい。ただあなたのことが好きであると。好きにさせてくれて感謝していると。出会ってくれて、剣の師でいてくれて。私の全てを受け入れてくれてありがとうと。


 それに。ここまで明らかになった自分の心を本人に隠す方が難しい。きっと溢れてしまう。本人にバレる方が先かもしれない。思いに気付かれてしまうくらいなら、先に伝えたい。


(返事なんて、どちらでもいい。ただ、伝えたいわ)


 アイリスは自然と顔がほころんだ。


 愛しい人の前だと。

 自然と笑みが出るのだと。


 初めて知った。


 その表情に、ロイは少し息を呑んだ。

 誤魔化すように視線を彼女の肩に移す。


「上着は着て帰るといい」

「あ。ですが」

「いい。次会う時に返してくれたら。風も出てきたし、夜風は身体に毒だ」


 今回の社交界は夕方から始まった。

 もう辺りは真っ暗で、空は藍色に変わっている。


 確かに少し肌寒い。


 肌を出したドレスのせいもあるだろうが、長時間いると冷えてしまう。ロイの上着は生地も厚めで温かい。お言葉に甘えることにした。


「フェイシー達は……まだ話しているようだな」


 少し離れた場所で二人が話している。


 思ったより離れているので大事な話をしているのだろうか。二人とも穏やかそうに笑い合っている。あの二人も互いに仲が良い。会話に花を咲かせているのかもしれない。


「先に馬車に乗っているといい。俺もそろそろ行く」

「はい」


 確かに馬車で待てばいいかと、ロイの言葉で気付く。乗るところまで見送ってくれた。「それではお気をつけて」「アイリスも」と互いに一言だけ交わし、アイリスは足場に足をかける。


 そこで突然、突風が舞う。


 下ろしている髪が揺れた。

 視界が遮られそうだと思っていると。


「アイリス」


 名前を呼ばれたので、顔だけ振り返る。

 するとなぜか真後ろにロイがいる。


 足場に一緒に乗っているのだと気付いた頃には。前髪が彼の手でゆっくり上に払われて。


 柔らかい感触が額に残る。


 驚いて顔を上げようとするが、できなかった。彼の手がアイリスの目元を隠す。


 そのまま耳元でささやかれる。


「おやすみ」


 手が離された時には。

 ロイの背中が遠ざかっていた。







「クロエ。今日はありがとう」

「どういたしまして。話って?」


 ジェシカはそっと近寄る。


「二人きりにさせてあげたかっただけよ」

「ああそういうこと?」


 クロエはちらっとアイリス達を見る。


 二人は何やら話していた。

 和やかな雰囲気なのが遠目からでも分かる。


「私が邪魔をしてしまったから」


 少しだけ詫びるような声色をする。

 ジェシカはアイリスを優しい目で見つめていた。


 アイリスが襲われたと聞いて、ジェシカは急いで本人がいそうな場所に走った。話を聞いて明らかに取り乱していた。まさか参加した社交界でこんなことが起こるなんて思わなかったからだ。だから姿を見つけてすぐにアイリスに抱き着いたわけだが、傍にはロイがいた。


 おそらくロイが、アイリスの心の傷を癒してくれた。だからアイリスは思ったより落ち着いていたのだろう。それが何よりも救いだった。


 ジェシカは二人を見守っている。

 彼女の幸せを心から願っている様子だった。


 クロエはそれを見てくすっと笑う。


「そういえば最近グレイ殿と仲が良いんだって?」

「あら。そちらにも話が回っているの?」

「そりゃあ。『高嶺の花』が第二王子の側近と急接近なんて。みんなざわざわしてるよ」


 アイリスが「氷の花」ならばジェシカは「高嶺の花」とよく呼ばれている。誰の手にも届きにくい存在だからだろう。ジェシカ自身もそう呼ばれていることは理解しているが、周りが勝手に言っているだけなのであまり気にしていない。


「最近友人になったのよ。買い物にも一緒に出かけるようになったから、それで知ったのかしら。人の話を広めるなんて、暇な人が多いのね」

「気になるんだろうね。あわよくばジェシカを狙っている人は多いし。実際どうなの? いい感じ?」


 少しだけわくわくするように瞳を輝かせる。

 隠しきれていない好奇心だ。


 ジェシカは肩をすくめた。


「友人だと言っているでしょう。何もないわ」

「なんだぁ。ジェシカにも春が来たのかなと思ったのに」

「知り合って間もないし、年下だからかしら。弟のように感じるの」


 グレイは早い段階から主人であるリアンの側近に抜擢された。彼の仕事は王子の傍で守ること。剣術や武術、守る術は全て身に着けている。頭もいいため、リアンに言われたことは全て覚え、必要があれば勉強もしている。リアンの命令はほとんど一つ返事だ。


 そのせいか。

 自分の意志というものがあまりないらしい。


 自分で決めたり、動いたり、選択をすることもないそうだ。リアンが「休みを取ってもいい。どこか出かけてもいい」と言っても、「やることがないので」とリアンの傍から離れないらしい。リアン曰く、今までも何度か言ったようだ。休むことも、何かに興味を持つことも、人間として大切なことだからだと。


 だが何を言っても傍を離れない側近に対し、強硬手段を取ることにした。わざわざジェシカがいる部署まで来て「友人ならこいつどこか連れていってくれ」と渋い顔で頼んできた。


 だからジェシカはグレイを連れ出すようになった。


「グレイは知らないことが多いみたい。一つ一つ教えると、子供のように感心した様子を見せてくれるわ。素直なのもあって、反応がとても新鮮よ。可愛らしいわね。だから弟みたいな感じかしら」

「ふうん。じゃあ恋愛感情はないの?」

「ないわね」


 即答する。


 だがジェシカは柔らかく微笑んでいる。

 まるで花びらがふわっと舞うように。


「彼のことは人として好きよ。私、異性と友人になりたいと思っていたの。なんでも話を聞いてくれるし、普通に接してくれるわ。だから彼と友人になれて、本当に嬉しいと思っているの」

「なるほど。……人として好きってそういうことね」


 クロエはぼそっと呟いた。


 彼女の様子からするに、グレイの何かを気に入ったというよりも、心地の良い友人関係になれて本当に喜んでいるのだろう。ジェシカは見目も地位も高い位置にいる。そんな彼女だから注目もされる。だがグレイにはそんなこと関係ない。ただ普通に接している。


 その「普通」が、ジェシカは幸せだと感じている。


 それは喜ばしいことなのだが。

 クロエはうーん、と言いながら腕を組む。


「嬉しいような残念なような。ジェシカの王子様になってくれるのかなと思ったのに」

「最初はすぐに異性として好きになると思ったわ。私と違ってとても純粋で綺麗な人だから」

「――ジェシカ」


 咎めるような声色。

 ジェシカは苦笑した。


「ごめんなさい。でも事実だもの」

「ジェシカは綺麗だよ。心もね」

「どうかしら。……彼は綺麗だから、私は一生友人でいたい気がするわ」

「…………」


 クロエはアイリスよりもジェシカの家庭の事情を把握している。ジェシカ曰く、アイリス自身も大変なところが多いからと、あまり自分のことを話したくないようだ。クロエは平民なこともあり、貴族社会のしがらみがない。


 彼女が自分のことをそんな風に言ってしまう気持ちは分かる。彼女を取り巻く家庭環境が彼女を蝕んでいるのだ。だからこそ友人の一人として、そのように思わなくていいと、強く言いたいところがあった。だが何度言ったところでジェシカは素直に受け入れないだろう。根本的な解決がない限り、難しい。


「ねぇ。グレイ殿の剣さばき見たことある?」


 クロエはあえて話題を変えた。

 相手は「ないわ」と首を振る。


「ものすごくかっこいいんだよ。騎士団で剣技を見せてくれたことがあって。動きがいいのもあるけど、とにかくかっこいいの。今度見せてもらったら?」

「そうなの? 知らなかったわ」


 見せてもらおうかしら、とジェシカが呟く。


 クロエは頷いてそれがいいよ、と答えた。

 心の中で。彼女の幸せも願いながら。

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