16*知らなかった -05-

 化粧室でアイリスは自分の姿を確認する。


 髪も化粧もドレスも全て、すでに完璧に仕上がっている。直すところなどないに等しいのだが、心の準備はしておきたかった。


 覚悟もしてくる、なんて言葉、今更ながらにけっこうなことを口走った気がする。顔が熱い。あれは言ってよかったのだろうか。


(ああああ……)


 去り際にロイの顔を見ていないせいで、今になって不安になってくる。言ったことを若干後悔していた。


 改めて鏡に映る自分の姿。


 顔は薄っすら赤みを帯びており、目も潤み、誰が見ても何かあっただろうなと分かってしまう顔になっている。自分はこんなにも分かりやすかったのか。「氷の花」と言われているのに、これでは溶けきった花のようだ。今ここに誰もいないからこうなっていると信じたい。ロイの前では見せたくない。


 ……が、彼はそれも見たいと言い出した。


(前は待ってくれる感じだったのに)


 こちらに合わせてくれようとしていたのに。

 待てないとでも言うような口ぶりだった。


 そもそもなぜこのような状況になったのだろう。されて嫌なことがないか、と前に聞かれて。質問が変わって。どこまでいいのか一つ一つ確認したい、だなんて。触れていいと、前に口にしたからだろうか。


(……練習の、ためよね)


 隣国に行くまであと数日。

 あまり時間がない。


 恋人らしい振舞い方等、ジェシカから指導されて基本的なことは気をつけていた。人前から見ても恋人以上の関係性に見えるように、意識はしていた。


 一緒になる機会が多いおかげか、アイリスもロイへと接し方に慣れてきたところがある。会うのは三年ぶりだが、どのように接していたか思い出しつつある。


 だが恋人らしい触れ合いはあまりしていない。腕を組む。手を繋ぐ。少し触れることはあっても、それ以上のことはしていない気がする。


 互いに人前での接し方は気にしていた。それっぽく見せることはできても、深いところまで触れ合うことはしていない。ロイはそれも気にしてくれていたのではないだろうか。


 だがそれは。


 今までしてきた以上のことをするわけであり。

 緊張しないわけがない。


(……顔も見ると言うし)


 緩んだ顔を見せるしかないのか。


(ああもう。覚悟するって言ったじゃない)


 このままではロイの元に戻れない。どうにかしようと、世の恋人達の姿を思い浮かべてみる。みんながパートナーに対し嬉しそうに微笑んでいて……アイリスはひらめく。


(そうか。笑顔)


 いつも緊張のせいで顔が険しくなる。でも微笑んで見せたら、人に見せられない顔にはならないはず。それにロイはいつも顔に笑みがある。笑顔は見る者を和やかにさせる。それに余裕があるようにも見える。アイリスはできるだけ笑顔になろうと、鏡の前で練習してみた。


 が、いきなり笑えというのは難しい話で。

 どうしてもきごちなく見える。


(……そもそも無愛想だったわ)


 あの父と顔が似ているし、難しい話だった。


 だがそれでもロイは、受け入れてくれるだろう。

 本当に優しい人だから。


「……よし」


 声を出して気合いを入れる。

 そのままの自分で行くと決めた。




 化粧室から出て、ロイの待つ部屋に向かう。


 歩きながら心臓が鳴り出すがこれはもう仕方ない。きっとロイなら受け入れてくれる。そう信じるしかない。そもそも恋人やら婚約者やらの役を引き受けてくれたのだから、それに関係することならきっと快く受け入れてくれるだろう。


 それに今日は、ジェシカのおかげで綺麗な姿だ。いつもの自分ならもっと自信がなかった。友人の手助けに心から感謝する。今のアイリスにとってこの格好は、自分を守る、自分に自信をつける鎧のようなものだった。


「っ!」

「わっ」


 角を曲がろうとした時、前に人がいた。

 互いに人がいると思わず、ぶつかってしまう。


「いたた……」

「申し訳ありません。大丈夫ですか?」


 慌ててアイリスが声をかければ、タキシード姿の男性だった。年齢は三十代くらいだろうか。こちらに気付いたのか、頭を下げてくる。


「ああ、申し訳ない。僕も見ていなかった」

「お怪我は?」

「ないよ。君も大丈夫?」

「はい。大丈夫です」

「それはよかった。……君。すごく綺麗だね」

「え」


 互いに謝罪をし合い、普通の会話をしていたはずだった。だが男性は、アイリスの姿を見て目の色を変えた。感嘆するように上から下まで目を動かす。


「君一人? 僕と話そうよ」


(何この人)


 急に態度が変わったことで。

 アイリスは警戒してしまう。


 男性はおかしそうに笑っている。


「警戒させちゃった? こんな綺麗な子に会うと思わなくてね」


 言いながらアイリスの肩を軽くとん、と押す。そのまま後ろに下がれば、背中が柱についていた。


(……いつの間に)


 分かってわざと押してきたのか。それに気付いた時には、男性が近付いてきた。軽く覆い被さるような形で、彼の腕がアイリスの顔の横に置かれる。背中を取られたせいで、身動きが取れない。


「こんな状況でもすまし顔なんだ。もしかしてこういうの慣れてる?」


(そんなわけないでしょ)


「……離れていただけませんか」

「冷静だね。僕は君のこと知らないけど、肝も座ってるし高貴な身分なんだろうな」


 アイリスも男性の顔と名前に見覚えはなかった。今回の目的のことを思えば参加者を覚える必要はない。とはいえ、こんなことになるならジェシカに詳しく参加者のことを聞いておけばよかったと後悔する。


(っ……!)


 ぞわっとした感触がした。

 男性が急に腰に触れてきたのだ。


「細い腰だ。僕好みだな」


(知らないわよ)


 逃げようとするが、今度は背中側まで男性の手が伸びる。

 そのまま抱きしめられそうになった。


(嫌っ!)


 両手を使って彼の胸を押し、抵抗を見せる。すると相手の手は止まる。だがその手は腰に置いたまま。なぜかにやりと笑われた。


「背中はこうなってるのか」


 手が少し上がった。肌を出しているところに触れられ、さらにぞっとしてしまう。思わず顔を歪めてしまう。


「いいね。美人の嫌そうな顔見るの好きなんだよね」


(いや……いやっ!)


 思わず目を閉じて顔を背けると。


「――何してる」


 低い声が響く。


 と同時に覆っていたはずのものがふっと消えた心地になる。アイリスが目を開けた時には、男性は床に倒れていた。それを見下ろしているロイの姿。


 見知った人物の姿に安堵するが、ロイの表情を見てアイリスは固まる。無表情だが目に力が入っている。今まで見たことがない。少しだけ萎縮してしまった。


 床に倒れた男性は気絶していた。

 ロイが武術で仕留めたのかもしれない。


 あの一瞬でいつの間に、と思っていると、ロイが近付いてきた。上着を脱ぎ、アイリスの肩にかける。少し乱暴な置き方だった。


 彼は少し後ろに下がり、アイリスの肩に手を置く。先に進むよう促しているようだった。自分より後ろにいるため、彼の顔が見えない。アイリスは促されるまま、一緒に先程の部屋に向かった。


 アイリスだけソファーに座らされる。

 その間二人とも無言だった。


 アイリスから何か発することもなく。

 ロイが声をかけてくれることもない。


 アイリスは座りながら色んなことを考えていた。急に知らない男性から身体に触れられたこと。その後のロイの表情。今ここに座っていても、全く落ち着けない。別の意味で緊張していた。恐怖からなのか、怯えなのか。自分でも分からない。


「アイリス」


 はっとして顔を上げれば。


 しゃがんで目を合わせるロイの姿。

 心配そうに見てくる。


「…………」


 助けてもらったお礼を言いたいのに、言葉が出てこなかった。あの程度のことを自分で対処できないことを恥だと思った。騎士であるのに。武術も仕込まれているはずなのに。何も動けなかった。


「女性の給仕を連れてくる。この部屋は予約で取ったものだ。勝手に人が入ることはないだろう。馬車の手配もしてくるから、それまでここで休んでくれ」


(え……)


 それだけ言うとロイは立ち上がる。

 ドアに向かって歩き出す。


(なんで)


 冷静に考えれば分かることだ。

 ロイは気を遣ってくれた。


 急にあんなことがあって。男性への不信感があるだろうと。何も聞かず、何も言わず、同じ男性であるからと最低限の会話で済ます。


 女性の給仕を呼ぶのは一人にさせないためだろう。馬車を手配するのはすぐに帰れるようにするため。一緒に行けばいいのに。一緒じゃない方がいいだろうと、彼は考え、動いた。


 そこまでの配慮ができる人。

 普段であれば感心しているところだが。


「嫌……」


 アイリスは呟いていた。


「……? アイリ」

「どうして置いていくんですか」


 相手の言葉を遮るように言葉が出る。


「……それは」

「私が汚いから?」


 相手が思ってもないことを口にしてしまう。


 ロイは息を呑んでいた。

 なんてことを言うのだと、顔が物語っている。


「抵抗できなかったからですか。騎士のくせに動けなかったから。……私も思います。なんであれくらい自分で対処できなかったのか」

「アイリス、それはちがう」

「情けない話ですよね。あれじゃ受け入れてるみたい。……気持ち悪い。自分が気持ち悪い」


 自分の身体を、ぎゅっと抱きしめる。

 ロイがかけてくれた上着ごと。


 彼の香りがした。自分とは違う香水の香り。いい香りなのに。まるで包まれているような心地なのに、申し訳ない気持ちになる。


 アイリスは俯く。

 今になって身体が少し震えてきた。


 あのように異性から言い寄られる経験があまりなかった。そもそも相手にしておらず、ブロウ侯爵家の令嬢と聞けば、誰もが遠巻きで見るだけだった。


 だが相手は自分のことを知らなかった。そのせいか分からないが、無遠慮に身体を触られた。初対面であるはずなのに無礼な言動。アイリスは混乱した。こんなにも会話ができない人間がいるのかと。そんな人に出会ったことがなかった。


 自分に敵意を向ける相手ほど分かりやすいものはない。敵意ならば防ぐ術も戦う術も持っている。だが好意に対しては。どうしたらいいのか分からない。


 された行為を許せるはずもないが、それでも相手はこちらに害を向けるつもりはなかったように思う。だから余計に、分からなかった。力の加減も。抵抗の意志表示も。


 アイリスは知らなかった。


 度が過ぎる「好意」に対する的確な対処法を。

 自分がそれの前では無力であることを。


(……悔しい)


 騎士であるのに。

 あの場ではただの「女」だった。


 自分の力で対応できなかった。

 それが悔しい。


 と同時に、いつもああいうのを上手くあしらっているジェシカはすごいと思う。場合によっては相手からの報復が待っているかもしれないのに。自分の芯を譲らない強い姿勢は、自分よりも持っている。彼女がかっこよく見えた。


 同時に怖くも思った。きっと自分以上に辛い目や嫌な目に遭っている。彼女を守るべき存在が必要だ。グレイ辺りに相談してもいいかもしれない。


「アイリス」


 優しく包むような声色。

 ロイは膝をつき、両手を軽く握ってくれる。


「助けるのが遅くなってすまなかった」

「……どうしてロイ殿が謝るんですか」

「俺のせいだ。すまない」

「やめてください。自分のせいなのに」

「ちがう。あの場では誰しもが恐怖で動けなくなる。アイリスのせいじゃない。全てあいつが悪い」


 断言するように言われ、少しだけ笑ってしまう。笑う場面ではないのに。アイリスは少しだけ静かになった後、素直に気持ちを吐露する。


「悔しい。私、抵抗できなかった」

「……」

「絶対私の方が強いのに……」

「悔しいのはそこなんだな」

「剣術も武術も負けたくないです。咄嗟にああなっても動けるようにもっと鍛えます」

「負けず嫌いは昔からだな……。じゃあ今度稽古をつける。もっと強くなろう」

「! ……はい」


 アイリスは握られた手を、強く握り返す。もう負けたくないと。自分だけでも動けるようになりたいと。その決意を込めた。


「……アイリス。今の言葉は師としての言葉に聞こえたと思うが」

「? はい」

「今からは婚約者だからと思ってほしい」


 え、と呟く暇もないうちに。

 強く抱きしめられた。


 アイリスは目を見開く。

 抱きしめられたのはこれが初めてだった。


 ロイの上着がかかったままなのだが、服ごと抱きしめられている。いつも触れる時は優しく、軽く、すぐにでも離れることができるよう、配慮がある。だが今は、それが微塵もなかった。離れない、と伝えているように、互いの身体がぴったり合わさっている。


(……少し、痛い)


 力の加減を考えていないせいなのかもしれない。

 だがその痛みが、今は心地いい。


 アイリスは目を閉じて彼に委ねていた。


「俺も悔しかった」

「……?」

「アイリスに触れるのは俺が最初だと思っていたのに」


 思わず苦笑してしまう。


「最初ですよ」

「……嫌がってるのにあいつ……本当に……切ってやりたかった」


 彼にしては珍しく口調が荒い。

 切るというのは剣を使ってだろう。


 ロイなら華麗にやりそうでだいぶ怖い。


 アイリスはなだめるように背中に手を回す。

 ぽんぽん、と、軽く叩いた。


 思わず小声で呟いてしまう。


「ロイ殿だったらよかったのに」

「…………俺なら、いいか?」


 相手の耳にも届いていたようだ。

 言った後で恥ずかしくなる。


「……婚約者ですし。それに」


 元々一つ一つ確認するはずだった。

 今はそれどこではなくなったが。


「じゃあ」


 ゆっくり身体が離れる。

 二人は見つめ合った。


「上書きしていいか」


(え……)


 上書きということはつまり。


「聞いてもいいか。触れられたところを」


 言わせるのか。口で。


 恥ずかしいと思いながらも。あの男が触れた感触はまだ残っている。それがいつまでも残るのは嫌だった。帰ってから念入りに洗いたいと思っていた。


「…………腰と、背中です」


 ロイの眉間のしわが深くなる。

 聞いて不快に感じたのだろう。


「言いづらいことを言わせてすまない」

「いえ……」


 目を合わせられなくなる。


「ゆっくり触れる。嫌だと思ったら言ってほしい」

「……はい」


 返事はしたものの。


(ロイ殿に触れられて嫌なところなんて、ないわ)


 アイリスは確信した。


 急に抱きしめられても、嬉しさしか残らなかった。こんなにも気遣ってくれる人に対し、嫌なんて思うことがない。それよりも。ロイ以外の人に触れられる方が嫌かもしれない。


(……私はやっぱり、ロイ殿じゃないと駄目かもしれない)


 父に本当の婚約者になってもらえばいいと言われた時。相手に悪いと思っていたし、それは難しいと考えた。ならば代わりを見つけ出せと提案され、努力しようとした。だが久しぶりに社交界に出て。やはり貴族の考え方は合わないと知る。見知らぬ人からの無遠慮な言動に。悔しくなるくらい嫌悪が出る。


 そんな自分をロイは。

 受け入れてくれた。


 抱きしめてくれた。


 以前よりももっと、好きになっている。

 自分にはこの人しかいないと、考える。


 ロイがそっと、腰に触れた。


 驚かせないように本当にそっと触れ、その触れ方だけで人柄を感じる。優しさを感じる。ただ、あまりにそっと触るので、逆にくすぐったくも感じてしまう。それだけ困った。


(だからってもっと強く触れてほしいなんて言えないし)


 アイリスはくすぐったく思うのを少し我慢する。


 手のひら全体が触れた。

 やはり嫌悪感はない。


 大きな手のひらに、安心さえしてしまう。


「……アイリスは綺麗だ」


 急に言われる。


「あんなこともう二度と言わないでくれ。傷付く」


 自分を卑下したような言い方をしたことだろうか。無意識に言ってしまった。ロイが部屋から出ようとした理由は別なのに、全て自分が悪いせいだと、決めつけた。よくない言い方だった。


 ロイの悪口を言ったわけじゃない。それなのに自分以上に傷付いた様子に、アイリスは参った。弟子としても人としても、ロイはよく褒めてくれる。大切にしようとしてくれる。だから余計傷付いたのだろう。アイリスが一番反省する言い方をロイは熟知している。


「すみません……」

「もう言わないならいいんだ」


 アイリスの様子に嫌ではないと分かり、腰にあったロイの手がゆっくり上に移動する。肌を出している背中へ。あの男性には少しだけ触れられた。ほんの少しだけでも、本当に吐き気がするくらい嫌だった。だがロイは違う。心臓が鳴る。いい意味で甘い痺れがあるように。


 背中に、触れられた。


(手が……熱い)


 体温が高いのだろう。

 男性の方が高いと聞く。


 熱いが温かくも感じて。


 直に触れているのだと思うと、なお恥ずかしくて。

 でもなぜか、嬉しい。


 手のひら全体が背中に触れた。

 もう片方の手も、ゆっくり触れてくる。


「んっ……」


(あ)


 優しい触れ方がやはりくすぐったく。

 声が出てしまった。


 反射でロイは両手を離す。

 背中にあった温もりも消える。


「……すまない」

「ち、違います。大丈夫ですっ」


 自分がくすぐりに我慢できなかっただけで。

 決してロイが悪いわけではなかった。


 それでも彼が静かなので。

 おそるおそる目を上げると。


 初めて見た真っ赤な顔。

 こちらに見せないように背けていた。


「……あの」

「すまない。アイリスが大丈夫だと言ったのに」


 一度言葉を切り。

 彼は深く息を吐く。


「俺の方が、大丈夫じゃないらしい」


 照れたように、困ったように小さく笑う。


(……好き)


 アイリスは思わず前のめりになり。

 ロイにそっと身を寄せた。

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