08*氷の花に捧げる想い -01-
肌はひんやりしていた。
感触がある。
(……夢なのに?)
もしかしたら寝ている間、何かに触れているのかもしれない。だがこんなにすべすべしたもの、部屋に置いていただろうか。
「ア、アイリス……」
ロイが戸惑うような声を出す。
無遠慮に頬を撫でているからだろう。手は動き、鼻に当たる。綺麗な形だ。そのまま下に動かしたからか、唇にも少し当たる。ちゃんと感触がある。
(……男性の唇も柔らかいのね)
感心しながら、何度か指で触れた。
これは夢であるのに。
なんだかリアルだ。
「アイリス……離してくれないか」
相手は少し恥ずかしそうに顔を逸らしている。手から逃れようとしていたが、アイリスは離す気がなかった。なんだか反応が新鮮だ。そんな顔を見せられると、無意識に微笑んでしまう。
昨日随分意地悪なことをされたと思う。
だから知恵熱なんて出てしまった。
これは夢だ。
夢なら何をしたって怒られない。
「い、や」
拒否の言葉が自然と出る。
自分の声が掠れていた。
熱のせいか。頭がよく回っていないせいか。普段は敬語なのに、言葉が短くなった。アイリスが言うことを聞かないロイは少し眉を寄せる。
「……襲うぞ」
(絶対嘘だわ)
ロイはそんなことをする人じゃない。
ただの脅しで言っただけだろう。
「……どうぞ?」
できるものなら。
そんな態度で口に出す。
するとロイは身体ごと距離を取った。
言葉と反対の行動になっている。
彼は部屋にあった小さい椅子に座っていた。さすがに相手からそうされると手が届かない。伸ばした手がロイに触れようとするが、空気を掴む動きになるばかり。仕方なく腕を下ろす。
ロイはため息混じりに髪をかき上げている。何かを考えるようにして自分の膝の上に肘を置いていた。顔が隠れて、見えない。
(……この夢、いつまで続くのかしら)
そもそも夢の中で夢を見ていると思ったこと自体初めてかもしれない。自覚があってもどうやらすぐに夢は覚めないらしい。
ロイの手が自身の膝に戻り、顔が見えた。
変わらず眉を寄せたままだ。
「アイリス。次触れるなら覚悟しろと言っただろう」
「……それが?」
「本当に襲うぞ」
さっきより真剣な声色。
アイリスはぼんやりしながら答える。
「……すぐにやられるつもりはありませんが」
「そういう意味じゃない」
きっぱり言われる。
珍しい。ロイがここまではっきり口にするのは。様子から、もしや武術的な意味なのだろうかと思ったらそうではないらしい。やはり男女の意味か。
頭がよく回っていないのに、アイリスは思ったより冷静だった。ロイ相手にいつもは緊張しているはずなのに、客観的な視点で物事を捉えている。
いや夢の中だからだ。
だから口にする。
「どうぞ……」
「…………」
なんだか睨まれている気がする。
自分から言ったのに。
「ロイ殿なら、私は……」
その後は続かなかった。
眠気に勝てなかったのだ。
瞬く間にすうすう寝息を立てる。
完全に瞳が閉じていた。
ロイは思わず頭をがっくりと下げる。
「……どういう意味なんだ」
「――どういうつもりですの?」
背後から声が聞こえ固まる。
そっと振り返れば、腕を組んだジェシカの姿。
冷ややかな目をしていた。
そのまま「グラディアン教官」と呼ばれる。
「アイリスが心配でここに来たのはいいですわ。同じ寮の女性と同席であれば家族または関係者は寮に入れる決まりですから、特に問題もございません」
改めて説明された。
いや、わざわざされた気がした。
ロイはジェシカから熱のことを聞いた。
話を聞いて居ても立っても居られなくなり、寮へと走り出した。自身も寮暮らしなので、同席であれば女性の寮へも入れることは知っていた。が、ロイの方が足が速いため「置いていかないでください!」とジェシカを半ギレさせてしまった。
部屋に入るやいなや、アイリスから触れられて動揺する。いつもは逃げるくせに今日の彼女は積極的だった。昨日、ロイからは触れないようにしていたというのに。動揺のあまり口走ったことにさえアイリスは冷静だった。そちらに気を取られていたのだ。ジェシカの存在を忘れてしまっていた。
文官の中でも令嬢の中でもトップに美しく可愛らしいと言われているジェシカ。そんな彼女をここまでキレさせたのはロイが初めてかもしれない。
にしても美女は凄むと迫力がある。
「相手は病人です。なぜ起こしたのですか」
最もな指摘が胸に刺さった。
「その、何かできるかと思ったんだ。水を渡すとか」
「何もできていませんが」
はっきり言われ怯みそうになる。
ジェシカはさらに眼差しを鋭くした。
「先程の発言もなんですの。病人に手を出すおつもり?」
「ち、ちがう! 言葉の綾だ、アイリスが離してくれないから」
「声が大きい! アイリスが起きたらどうするんですか」
「す、すまない……」
ジェシカの小声の抗議(だが迫力はある)に、ロイは小さくなる。
移動してほしいと言われ、ロイは立ち上がった。彼女はてきぱきとタオルを変え、アイリスの額に手を置き、体温を確認する。すぐに飲めるように水も準備していた。手際がいい。
「熱が出たばかりです。しばらく寝かせた方がいいですわ」
「そうだな……」
顔を見るとよく眠っている。
じっと見つめるロイの横顔に、ジェシカが声をかける。
「心配ですか?」
「……弱ってる姿を見るのは、初めてだから」
「アイリスは隠しますものね」
知っている風の声色だった。
付き合いが長いからだろう。
「学校時代も、そうだったのか?」
士官学校でも寮生活だった。
現在の二人は仕事で実績を積んでいること、貴族令嬢でもあるため、一人部屋を与えられている。学校生活では二人部屋だった。確か同室だったはずだ。
「ええ。一人の時に隠れて怪我の手当をしたり、悔しいことがあれば泣いていました。私は知らないふりをしていましたわ。知らないふりをしながらも、勝手に慰めてはおりましたけどね」
ジェシカがふっと笑う。
「そうか……」
剣の指導はしていたものの、アイリスの私生活についてロイはほとんど知らない。ジェシカや、親同士とも関わりがあるリアンの方が知っている。それは仕方のないことだが、時にどうしようもなく悔しいと思ってしまうことがある。
「ちょうどいいですわグラディアン教官」
「?」
「少しお話いたしましょう?」
「…………」
にっこりと笑みを向けられる。
ロイは背中に寒気を感じた。
「文官の仕事は?」
「今日の分は終わりましたわ。昨日進めておいたのです」
「そうか。……で」
ロイは一度言葉を止める。
「なぜデニールもここにいるんだ」
テラスで三人。
ロイ。ジェシカ。グレイ。
仲良く丸くなって座っている。
一ヶ月の期間はアイリスに時間を割くため、ロイは仕事がない。ジェシカは文官の仕事と講師の仕事、並行しながら行っている。一応こちらを優先しているようた。当の本人が休みとなったため、自動的に二人も休みとなる。リアンからも好きにしていいと言われた。
比較的人目がつかない場所を選んだものの、ジェシカとグレイは遠目からでも分かる整った顔立ち。一緒にいるロイは若干居心地が悪かった。誰かが二人を見つけて何か言い出すかもしれない。
ジェシカはほほほと微笑みながら「美女と美青年が一緒だと人の目につきやすいかもしれませんが、グラディアン教官だって好青年ですわ。よく目立ちます」とよく分からないフォローをされる。
「冗談は置いておいて。二人きりだと誤解をされる可能性がありますわ。それを防ぐためです。面倒な噂話のネタにされるのは御免ですから」
男女二人きりなだけで何かしら言われる。騎士と文官という、仕事上関わりが深い間柄であっても。ジェシカもロイも、立場上目につきやすいのは自覚していた。
「それは分かるが……」
ちらっと隣を見る。
グレイは無表情でその場にいた。
睫毛が長く、瞬きする度に動いている。黙っているだけなのに華がある青年だ。リアンの命令しか聞かない彼が、なぜここにいるのだろう。
「彼とは友人になったのですわ。ね、グレイ」
「はい」
「友人?」
「ええ。リアン殿下に許可をいただいて」
どういう意図で友人になったのかは分からないが、リアンが許可したからここにいるのか。グレイを見ていると、リアンの命令ならば例えなんであろうと従う気がする。
「それで。俺に話とは」
「アイリスのことです。どこまで本気なのですか」
「…………」
まさか直球で聞かれるとは思わなかった。だが言葉は選んでいる。こちらの出方を窺っているようにも感じた。
「どこまで、いうのは」
「私はあの子の親友です。からかうだけならおやめください。あの子の純粋な面に傷をつけるようなことはなさらないで」
教官だった人物に対しても強気な態度。全てはアイリスのためだろう。ジェシカはロイよりもアイリスとのつながりが深い。彼女のこともよく分かっている。
だから逆に聞きたかった。
「フェイシーから見て俺は、アイリスをからかっているように見えるか」
「いいえちっとも」
「……え」
「全て本気でしょう。グラディアン教官はそういう方です」
あっさりそう言われてしまう。
(……じゃあ最初に聞いたのはなんだったんだ)
質問の意図が分からなかった。ロイは困惑する。この様子だとジェシカは気付いている。気付いているのになぜ聞くのだろう。
ロイの表情で何が言いたいのか察したのだろう。
ジェシカは腕を組んで顎を少し上にする。
「ですから
「ぐっ……やっぱりそう思うか?」
思わず弱気な声色が出た。
机に肘をつき、下がる額に手が当たる。
彼女の親友から言われてしまった。
思ったよりダメージが大きい。
「鈍感なだけでなく、自分に自信がない子です。加えてグラディアン教官とは師弟関係。どうして異性として好いてもらえているなんて思うでしょう。そう思う輩がいれば、私は自惚れの烙印を押してやりたいですわ」
「そこまで言うか……?」
「そもそもグラディアン教官がいけないですわ。あなたは誰にでも優しすぎます」
びしっと、指が向けられる。
これには思わず苦渋の表情になる。
騎士になる前から、なってからも誰に対しても変わらない態度。平等に接していたことを意識していた。
そのせいで、何人にも優しいから好きだと告白されてしまったことがある。今は人との距離感を気にしているものの、勘違いをさせてしまったのは申し訳なかったと反省しているう。
「人に優しいのは、良いことでは」
グレイがぼそっと呟く。
「ええそうね。だけど女性からするとそれは嬉しくない場合があるの。自分だけに優しい『特別感』が大切なのよ」
「?」
首を傾げていた。
よく分からないらしい。
「俺はアイリスを特別扱いしてるつもりだ」
グレイよりは理解していると思っている。
「それは師弟関係だからだと思いますわ」
「……」
「と、周りもアイリスも思っていますわ」
「…………。俺も、そう思われているんだろうなと思う」
「でしょう?」
思わず深い溜息をつきたくなる。
これに関してはロイも悩んでいた。
「……どうしたらアイリスに伝わるのか」
「手っ取り早く気持ちをお伝えしては?」
「……『弟子だからですか』と言われる気がする」
昨日言われてしまった。
二度目を聞くのは堪える。
「詰みましたわね」
あまりにも簡単な諦めの言葉。ジェシカはなぜかそんなに気にしていない様子だった。それも相まって地味に傷つく。
「グラディアン殿は、ブロウ殿が好きなんですか?」
二人は急に聞こえた声の主に顔を向ける。
無垢な瞳は、ロイとジェシカを交互に見ている。
「そういう話、ですよね」
「「…………」」
しばらくしてから口を開く。
「……フェイシー。なぜデニールを連れてきたんだ」
「これは申し訳ありません。予想外でしたわ」
アイリスの部屋にロイは戻る。
入るまではジェシカもいたが、今は二人きりだ。
ここに来るまでこんな会話があった。
『お邪魔はしませんわ』
『……怒られると思うんだが』
二人きりの時点で違反している。
『あら。師弟関係なら大丈夫なのでは?』
『地味に傷を抉ってくるな……』
『冗談ですわ。大丈夫でしょう。何かあったらリアン殿下のせいに致しましょう』
ジェシカが言うとほんとにやりそうだ。
リアンなら上手く対処しそうな気もする。
薬とご飯の説明は受けた。大体一、二時間後、お昼頃にはジェシカがここに来てくれる。その間にアイリスに何かないか、見ていてほしいとお願いされた。最初は躊躇したが、ジェシカに言われると断れなかった。色んな意味で覚悟を決める。
『それで。どこまで本気なんですの?』
ここに来るまでにも何度か聞かれた。
答えないと何度も聞くシステムなのか。
ロイは息を吐く。
『フェイシーの考える本気がどのことかは分からないが、先のことは考えている』
『そうじゃないかとは思っていましたわ』
確信的なことほど、ジェシカは軽く言ってのける。驚いてる様子が全くない。一体どこまで予想しているのだろう。賢すぎて末恐ろしい。
『外野があれこれ言うのは野暮だと分かっていますわ。でも、それだけはどうしても聞きたかったんですの。アイリスは私にとっても大切な存在ですから。……頼みますわね』
それ以上のことは何も言わない。けれど目で訴えているようにも感じる。泣かせるなと。大切にしろと。
『……ああ。頼まれた』
認めてもらえたような気がした。
それがなんだか、自信になった。
ジェシカはにこっと微笑む。
『二人きりとはいえ部屋の中で何もしないでくださいね。手を出すなんてもってのほかですわよ』
『ならそういう状況作らないでくれるか』
『グラディアン教官の理性はこの程度ですの?』
『大人を煽るのが本当に上手いんだな……』
『褒め言葉として受け取っておきますわ』
楽しそうに笑っている。
絶対敵には回したくない存在だ。
だが、味方になると心強い。
『今後アイリスのことで相談をすることがあるかもしれない。それはしてもいいか?』
『構いませんわ。二人きりでなければ』
『配慮する。しきりにそれを言ってくるが、デニールにはちがうのか?』
寮まで歩いている間、グレイも一緒に着いてきた。一歩引いて、自分達の少し後ろにいた。リアンの側にいる時のように。話が一通り終わったのですぐ帰るのかと思えば、ジェシカが引き止めていたのだ。
時間があるなら王城内にある図書館に行かないかというジェシカの提案に、彼はすんなり頷いていた。この後二人で移動するようだ。ロイには何度も指摘するのに、彼には何も言っていない。
『グレイは別ですわ。だって友人ですもの』
『彼はリアン殿下の側近だ。周りに何か言われないか?』
『気にしませんわ。それに、私は嬉しいのです。異性の友人に憧れがありましたから』
その言葉でロイは察した。
『そうか。それはよかった』
『ええ』
ジェシカは士官学校時代も男共によく声をかけられていた。一応礼儀や秩序を重んじる場所だったが、彼女の美貌が眩しかったのだろう。容姿で言えばアイリスもだが、かなり鈍いので相手にされなかった者が大勢いた。自覚があるジェシカの方が、おそらく色々大変だったはずだ。
ジェシカはグレイと共に行ってしまった。
今、部屋にはロイとアイリスの二人きり。
あまりに静かだ。
アイリスの寝息しか聞こえない。
静かなのと二人きりの空間に、思った以上に動揺している。とりあえずロイは、またベッドの側にある椅子に座る。
そっと彼女を見つめながら。
初めて会った頃のことを、思い出した。
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