第50話
マリネリス峡谷に滞在していたチルターク社の社員は監視網に突然浮かび上がる大量のホバー車の数に驚き体が硬直した。
今までそのような事態が起こったことがないこともあるが、背中に銃を押し付けられたことも大きい。
恐る恐る振り返ると悪魔のバッジが輝いていた。
「じょ、情報部?!おいおい、粛清はどうした、俺はなんもやって――」
側頭部を拳銃の銃床で殴り気絶させられ、監視員の世界は暗転する。
「寝顔“は”可愛い子。それが問題なのよ」
ナレミは静かに監視装置の電源を落として体を振り向ける。
「ええっと、アンジェラよね。本社へ向かうわ、準備なさい、後ろの二人も一緒に」
権限の関係で断ることは出来ない。しかし、ミューラーの死は隠しているおかげで、命令が被っていることを理由に拒否することは出来る。
「はい、直ちに」
冷汗が流れるのを根性で抑えつけて言う。
アンジェラは頭の中に蠢く疑問を解消したい欲が勝ったが、ミューラーとは毛色の違う恐ろしさがあった。
「ふふっ、いい顔してるわ」
「……失礼します」
額から汗は流れ出なかったものの、背中には粘りけのある嫌な汗がゆっくりと流れ落ちている。
ホバー車の準備を言い訳にアンジェラはナレミの元を離れたかった。
「そういえば、ミューラーはなんでここに来たのかしら、二人の観察だけ?そんなことはないわ。セルナルガから移ってきたアイツの嗅覚は確かよ、ねぇアンジェラ――――」
彼女を貫く二つの目は槍のように鋭利で、蛇のように毒々しい。
「――ミューラーは何を知ったの」
ゾッと背筋に悪寒が走る。
分からないと言えば分からないに該当するとアンジェラの記憶は言い訳を考えた。だが、ミューラーや女性研究員の会話から一つの真実を導き出していた。もし彼女が導き出した回答を声にすると、ナレミがどのような反応をするか不明なため言葉にはできない。
「ミューラー課長は思慮深い人です。私に話すわけありません」
何も知りえない。
アンジェラは咄嗟に嘘ではなく真実を話すことを選択した。
「そう……残念ね」
いかにもな顔で目を細め泣き顔のような表情となる。その目は変わらず鋭く、アンジェラの身体を貫いていた。
そして短くも長い時間をかけて表情が融解し、普段のナレミに戻る。
「アンジェラ。怖い顔にならないで頂戴……止めて悪かったわ」
乗り切った安堵感を肺の中に抑え、アンジェラは逃げるようにホバー車の準備にかかる。ミューラーの死体は谷底に沈めてあるが、遺品はホバー車の中に置いたままだ。
加えて、アンジェラと処理した書類の山が溜まっており、それは今と未来を見るために必要な情報源だった。
「あるんだから、使わないと」
奇しくも、ミューラーに似ている。
「それに……」
アンジェラはナレミが嫌いだった。
地球における官庁街の役割をもつチルターク本社の超高層建築群は火星時間で深夜を過ぎると赤い炎に包まれていた。
S圧縮構造爆弾らしき噴煙と爆発が何百と何千と光輝き、大雨の中でも強い存在感を放っている。縦横無尽に駆け抜けるホバー車の大軍は、普段であればチルターク深夜を社の車列の一つに過ぎない。しかし、今ばかりはその一つも見えず謎めいた敵に攻撃されるばかりであった。
ホバー車を飛ばして眼前に広がる光景にアンジェラとさらに研究員二人は固唾を飲む。
「やるわね」
「これは……」
アンジェラが横目でナレミを見ると僅かに笑っており、それが何を意味するのかを考えたが寒気のする回答が脳から提出された。
「本社はまだ無事ね、いって頂戴。用事はそこよ」
「は、はい」
セルナルガ社のドローンも飛んでいることに気付き、アンジェラは敵の目標がただ一つに絞られると勘繰った。だが、ナレミの行動の意図は掴めていない
「私は一人で用事を済ませるから、あなたたちは適当に隠れてなさい」
「どうして二人を?」
「この混乱でブルーメに二人を盗られるのは癪、だったらいつ死んでもおかしくない所に置くわ」
三人は絶句した。アンジェラはナレミの言うことを理解できたものの、実際に行動に起こすことはしないだろう。
一瞬、フロントガラスに襲いかかる雨と閃光が車内を支配する。
「アンジェラ、奪われることはいつも考えておかないとダメよ。私たちはそうして生きているのだから」
際立った旋律に頬杖をつくナレミの説法は容姿よりも歳を喰っている。
「ナレミ課長。訓示に感謝します」
「いいのよ、ミューラーの可愛い弟子だもの」
「弟子ではないですが」
「あの人は口も頭も硬いのよ、アンジェラ。古い人間は後継のことを気にしてね……やって欲しいこと丸投げしてしまうの」
普段は見せない追憶の目だ。
「もし、仕事敵じゃなかったら」
そこまで言うと、ナレミは口を閉ざした。
本社のホバー車発着の場が無事なのを確認できたこともあるのだろうが、おそらく口が滑りすぎたのだろうとアンジェラは感じた。
発着場、言うなれば埠頭は空っぽ同然であり人の気配はない。情報部が出払っていることもあるが、兵士が全てハナソン社へ差し向けられたことが大きい。即応部隊は一刻と経たないうちに迎撃しにくるため、ここも時期戦場となるだろう。
ホバー車に付着した雨に触れないように四人は降車し、ナレミは足早に出口へ向かう。
「緊急時用の通路を使いなさい。最悪倒壊するわ」
「りょうかいです」
アンジェラの空返事に頷いたナレミは上階へ向かう出口に消えていった。
その時、あたり一帯に轟音が響き三人は耳を塞いだ。外を見ると巨大な構造物が何本と傾いているのが目に入った。
「「「……」」」
唖然。
唖然。
口を半開きに世界の終わりでも眺めているかのような、今までの業の結末を眺めているかのような、言葉にならない驚異に足は動かなかった。
チルターク本社付近のビル群は地球から攻撃される可能性を考慮してコアシールドが張られており、艦砲射撃による飽和攻撃にすら耐えうる堅牢さを誇る。しかし、膨大なエネルギーを消費するコアシールドはテロ対策で建物内部に発電機があり、内部からの攻撃には――コアシールドの特性も相まって――非常に脆い。
そのため、本来、テロは情報部門が対策し建物への侵入は傭兵や兵士が防ぐ手筈だった。
「記録映像でしか……こんなの」
火星史において小さな争いは日常茶飯事、大きな争いもいくつかある。かつてチルターク社とブレンナット社が争いあったときには多くのジャーナリストが現地に入り記録を映像や写真で残していった。今ではサハラ内戦で埋もれてしまっているが、教育課程の一つに含まれている。
しかし、女史が思い浮かべているのはチルタークとブレンナットの争いではない。
「博士、博士はこれを見ていたのですか……」
争いというには、目の前の光景は余りにも一方的過ぎた。
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