第44話
マリネリス峡谷の研究所はビリアンタや本社の規模に比べると寂しいものだった。ミューラーは資料の上ではそれを知っていたが、チルターク社の研究所とは思えないほど質素で簡素な佇まいに胸のざわめきを抑えなくてはならなかった。
「情報部の方が、問題……ありましたか」
名目上ミューラーとアンジェラは研究の視察に来ている。
「その顔を隠す努力をしろ」
「はぁ……」
出迎えてきたのは若いとは言えないが齢を食っているとも思えない女性研究員だった。
生気のない顔で来ている服も裾がほつれていたり、穴が開いているのが目立つ。給料は十二分に貰っているはずだが質素な研究所に合わせているのだろうかと、アンジェラは考えた。
「ですけども、回収されたとナレミ女史が……」
「脱走したのか、実験体が?」
「あれ……管轄違いかな……」
ぼさぼさの髪の毛をくるりと回し、研究所の奥へと踵を返す。
「こちらへ、どの……問題か分かりませんから」
上司と部下は顔を見合わせ、まるで魔窟へ挑む覚悟で研究者の後についていく。
壁は塗装が剥がれ落ちて黒い内壁がむき出しとなり、天井からは火花の散っている電線が無造作に垂れ下がっている。
「修理しろって顔ですね……」
女性は振り返ったときに見えたアンジェラに向かって言った。
「いえ、まさか。研究費すら落ちてないのですから望むまでもありません」
「はぁ……額面上はそうなんで……ナレミ女史からボロボロにしとけと、そう……言われまして……メージャーを何百本とあるんで金策には困らない……ん、ですけどね……」
粘性の強い液体のような話し方に二人は不満とも焦燥ともいえる感情を抱いた。それをミューラーは理性で抑えきれなかった。
「さっさといけ、ナレミの話など聞きたくもない」
「……ナレミとは……別っぽいですね……」
暫く無言の続く道のりとなったが、三人は赤錆びた扉の前で立ち止まる。女性は小さく口を開けながら錆びを凝視するとのらりくらりと近づく。
「ええ……問題のある一つは、この……研究でしょうね……」
横開きの重厚な扉を研究者は徐に開き、うたてしげな声色と慈愛の声色が混じりつつ言う。
そこは小さく濁った緑色の装置が立ち並ぶいかにも人体研究といった風貌で、二人は禁忌の所業が行われていたと一瞬で思い至った。扉に一歩踏み込むと空気の刺激が変わり、装置――大小様々なポッド――はよく見れば人の形をした不定形が漂っている。
「これは……?資料にもない研究なのか」
「ああ……はい、そです……」
女性は怠惰に肯定し、ポッドの一つを触った。
「メージャーは人体のリミッターの破壊します」
ミューラーが命令するまでもなく、女性研究者は今までになくはっきりと言葉を紡ぎ始めた。
「……それはつまり人類でありながら人類以上の力を得ることが出来る。そう考えました。ですが、メージャーは重度の中毒症状を引き起こし、既存人類では到底扱いきれるものではなかった。ブレンナット博士はその点を解決すべく、人類に扱える形にメージャーを改変しました」
説明の意味を飲み込むのにアンジェラでは知識量が足りず、ミューラーは石のような頭をゆっくり砕いて喉仏を震わせた。
「それが今出回っているメージャーと」
「肯定します……それで……故ブレンナット博士はさらにメージャーの性能を引き上げ、人体に投与、研究しました。耐えうる人体の選定には苦労したようですが、ローゼフ・ダヴィドはメージャーの性能を半分ほど引き出しました」
ミューラーは複雑な表情をした。敵意と尊敬、そして驚愕。
固まる二人の様子を楽しむ女性はさらに饒舌に舌を回す。
「次なる研究は兼ねてより博士の悲願、人工人類の生成です。ローゼフ・ダヴィドの研究で新人類の基礎は作られ、圧倒的な素因子をもつクローンが妥協案として提出されましたが、そもそもクローンの基礎研究がなされていないので不可能でした。そのため、卵子と精子を高性能メージャーの活性作用で改変する方法をブレンナット博士は実施しました。概ね失敗でしたが、一つの成功例で研究は打ち切られています」
アンジェラは目の前で恍惚とした表情をする研究者が恐ろしくなったが、上司が微動だにしないのを横目に身動ぐのを耐えきった。
「ブレンナット博士らしくないと思いませんか?」
ミューラーはやはり反応しない。
「新人類計画の根幹は既存人類を置き換えること、それを為すにはたった一つ成功例だけでは不足しています。私たちはナレミから研究資料を手に入れてブレンナット社に移り、博士が創始者の研究所で遅々として進まない研究を推し進め、ついに!」
大きく目が見開いたかと思えば、彼女はすぐに目を細める。
「ええ、改良された人類の生成。史上二番目の新人類が生まれました。ですが、私たちはブレンナット博士の“気持ち”を理解してしまった……子と言うのは、なぜあれほどまでに可愛らしいのでしょう……」
機械の音がしない装置に手を置き、女性は緑色の溶液を優しい瞳で見上げた。唖然とするアンジェラに比べて、ミューラーは冷たい表情となってその光景を眺める。
彼女のいう問題とは、実験体の脱走ではなく研究していないことなのだ。装置は止まっており、中にある不定形の生き物は遠い昔に死んでいる。それか、生き物の定義から外れるただのモノである。
「そのブレンナット博士が作り上げた成功例はどこにいった?」
「……知りません。ダヴィドがほとんどを奪い去ってしまいましたから……ナレミに相談しても欲しい資料はくれませんし……」
彼女はミューラーに視線を移す。
「ナレミとは敵でしょう……これ……内緒ですから……」
「取引か?」
「ええ、そうです」
「言え」
アンジェラほとんど空気な自分に気付き、急いでタブレット端末を取りだしてメモを取ることに徹することにした。
「“息子”と“娘”に会いたい。この町にきてるのは確かなんです……離れ離れになってもいいように……居場所をわかるようにしましたから……実験体には全部ありますけどね……」
「新人類の研究を管理しているのはナレミに、それとブルーメだ。頼まなかったのか?」
「ブルーメには頼みましたよ……メージャーも情報もあげたのに、音沙汰なくて……」
「ナレミには頼まない理由があるみたいだな」
ミューラーは期待感が胸の内で膨らんで僅かに語気が強くなった。
「……嫌いなんです……変な目で実験体を見るので……」
「変な目?」
彼の言葉に長い空白を挟んで彼女は言った。
「……小児性愛というか……同類というか……楽しそうに?まるで、まるで……慈愛?」
掴みどころにない回答だったが、ミューラーは大きな確信を得た。しかしそれは粛清を生き延びる術ではなく、全然逆の、秘密襟に消されてしまうような深い深い秘密。
その時、ミューラーは自らの石頭に罅が入る音がした。
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