第39話

「どうだ、足の調子は?」


「いい感じだよ」


 始めてマリネリス峡谷に降り立った兄妹が話した会話は階層構造のビル群に対する感嘆符ではなく、穴だらけの足を診ながらの言葉だった。


 戦闘の音が聞こえないほど寝込んでいた二人は直前になってようやく体を起こし、先ほどサリーナに抱えられていた妹は雨で濡れる鉄の大地に足裏を付ける。しかし、身長に合わせて義足を切断したため、ゼノンの切られた足先は枝のように尖っていた。


「絶対、生身と見間違えるような義足を手に入れる」


 ガンツの言葉にサリーナの胸に針が刺さったような痛みが走る。


「大佐に相談してみてはいかがでしょうか」


「あの仮面の人に?」


「はい。巻き込んだのは我々なので……無理でしたら、私が説得します」


 サリーナは大きさの分からない罪悪感があった。


「んー。使えるなら、使ってみてもいいかな」


 ゼノンは兄の顔を伺いながら言う。


 コアシールドが雨を弾きほんのりと膜が掛かった兄の顔は暗く、マリネリス峡谷の構造社会を遠目に眺めている。その奥には折れ曲がったチルターク支社があるはずだが、カーテンのような雨に紛れて見えない。

 にも拘らず、ガンツは正確に方角をとらえていた。


「にい?」


「あ、ああ……頼む」


 ゼノンはほどなくき兄が遠くをみて固まっていた理由に感づき、つま先立ちで耳元へ小さく囁いた。サリーナの耳に埋め込まれていたインプラントは電磁パルスで壊れていたため、盗み聞くことが出来ず、内容も聞くには憚られた。


「行きましょう。指定された場所はすぐそこです」


 マリネリス峡谷に侵入する際、人目を避けるために方々に散った一団は一つの目的地が与えられている。それはチルターク社が発行する地図では空白地帯で、ゴミ処理場と小さく名前が付いているだけだ。


 大佐の部下が隠密のために三人の下を離れると、ゼノンの足の調子をみつつゆらりゆらり歩き始めた。

 マリネリス峡谷の岸壁に無数に生えるビルの表側は大通りが走り、層状に重なった通りを三人は下から上へ見ていく。


 妹は立ち止まって注意深く下を眺めると、黒い川が虹色の屈折を構えてこちらを覗いていた。下に近ければ近いほど傘をさす人が少なくなっていることに気付いたゼノンは、ビリアンタが渓底にある、と微かに親密な感情を抱いた。


「ゼノン……」


 まるで病人のような声を兄は出す。


「はいはい」


 ゼノンは特にそのことを指摘しなかった。


 滔々と降りしきる雨のせいだろうか、サリーナは二人の世界が酷く空虚なものにしか捉えられない。もともと羽織っていた雰囲気とはまた別の、マリネリス峡谷の底を流れる川のようなタールがまとわりついている。


「ゆっくりいこうよ。にい、あれは逃げないよ?」


 白く黒い空間に向かって指さした。


「そうだな」


「急いでもいいことないし、ね?」


 子を宥める親にも見える。もっとも、兄妹はそれを知らないだろう。


「サーマルには借りができる」


「そんなことない」


 妹は眉を顰めた。


「面白いと思ってた……退屈を紛らわすぐらいの」


「嘘」


「……」


「“恨みを知った人間は過去を抱え、未来を塗りつぶす”」


「……」


 ガンツは一瞬、ゼノンの背後に絶望に押しつぶされる死にかけの老人を見た。一度瞬きをすると、その老人は消えていた。


「大丈夫だよにい、わたしがいるから」


「……できる妹だ」


 サリーナはゴミ箱の後ろに隠れて二人の様子を窺っていた。今にも爆発しそうな雰囲気に耐えかねたのか、恥ずかしさにようものなのかは、兄妹がサリーナに振り向いたことで分からなくなる。


 そしてひょっこりとゴミ箱の陰から飛び出し、平生を装う顔で言った。


「行きましょう。こっしです」


 歩き始めがふらついた理由を彼女はインプラントに押し付けることに決めた。

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