第34話
秘密の扉を開けた時、七色に光っていたものはその色を失う。
地球から火星へ、胃を痛めながらダン・フォーゼン社長と取引を済ませた役人は連絡員にことを伝えると首にメージャーを撃ち込まれて廃人となっていた。
左遷された優等生が帰還船に助けを求めようとしたが、すでに出航した後。彼女は曇った事実を突きつけられ、廃人を抱えたまま当てもなく彷徨う。
日付の感覚を忘れ、雨宿りの場所でずっと過ごしていたその時、暴漢が暗がりからふらりと現れて歪な銃を突きつけた。電磁パルスを受けて焦げたガラクタと成り果てたタブレット端末が二人の最後の砦となるとは、誰も思わなかっただろ。
「……ちっ」
地球政府の印がプリントされている板切れ、されど地球政府の権威は火星でも有名なのだ。暴漢は周りを警戒し彼女が驚くほど軽い身なりで目の前から消える。
「助かった……?」
「たす?あ、そこにリンゴが落ちてる」
「はぁ……触らないで。リンゴじゃなくて泥の塊」
「え?え?どろりんご……」
まともな食事にありつけていないせいか廃人はあらゆる物が食べ物に見え始めている。彼女もまた何もない虚無にポタージュの匂いを感じてしまう点では麻薬中毒と変わりはない。
「とと、あるじゃん」
何処に行けばいいか迷っている間に、廃人は泥を探って使いかけのメージャーを見つけていた。
「ちょ、待ちなさい?!」
「あぁ身に染みる」
彼女が止めようと腕を掴むが全く歯が立たない。一体どこにそんな力があるというのか、彼女は不思議に思うも空腹でそれどころではなくなった。
大使館――国でもないのに――が近くにあればご飯の一杯、帰りの船の一隻でも融通してくれかもしれない。しかし、今の火星にまともな行政は存在しないのだ。
「はぁ」
彼女は空腹のあまり膝を抱え込み、雨だまりに映る顔が普段に比べて三倍ほど腫れていることに気付いた。
「……酷い顔」
項垂れた初日に雨に撃たれてしまったことが原因だ。そこに後悔の感情はない。
「ぐぇ、誰かきたぁ」
廃人がメージャーを撃ち込んで柔らくなった腕を振り回す先を見ると、フードを被る人物がいる。あり得るとすれば暴漢、物乞い。
火星の現状を身をもって教えられたためか、彼女は自然と身構えた。
その人物は暗がりを好む。短い経験上、スキャンや監視カメラを逃れる厄介者だと分かる。
彼女は銃の一丁も、コアシールドすら持っていない。襲われたら天国へ向かうのは確実だった。一思いに殺してほしいと思わなかったのは、まだ彼女が生きたいと願っているからなのかもしれない。
無言。
フードの人物がタブレット端末を凝視していると暫くして気付いた。
「……捨てられた人?」
「おれ――」
「――黙って。あってる、あってます」
後輩は要らぬことを口走る先輩の口を晴れた手で塞ぎ、柔和な顔でフードの人物に語り掛けた。もっとも、膨らんだ顔で表情にメリハリを付けられていない。
「GPS垂れ流しなんで分かりや過ぎますよ」
「えっ、でもこれ、電磁パルスで……」
「貸してみて、これが防護膜、発信機、熱発電機」
フードの人物は彼女からタブレット端末を奪い取ると綺麗に分解し始め、機器に関して説明を始めた。彼女にはさっぱり理解できない言葉だったが、ただ一つ、地球からずっと監視されていたとだけ理解できた。
突然、背中が急激に凍える感覚に襲われる。
「GPSを付けられてる割には近くに人はいないし、浮浪者に襲われても何も出てこない……捨てられたな?って」
「なんで助けてくれなかったんですか」
腫れ顔がさらに赤くなる。
「向こうじゃそうするんでしょうけど、こっちだから」
仕方ないとフードの人物は言った。雨が当たらない場所のため、その人物はフードを脱ぐ。
「だけど、私は見捨てないよ。似たような人……知ってるから」
ファーラは手を差し伸べる。それに彼女は外交官の癖で無意識のうちに握り返していた。
「悪い人じゃないってのはわかる。だからさ、命を救う代わりに手伝って欲しいかな」
「な、何を」
「するするー」
廃人に向かってファーラは微笑みつつ、成功する見込みを考えている。
「地球に行って色々伝えて欲しい」
「伝える?」
首をかしげてみるが背筋が凍る以上に恐怖にも似たものを感じ取った。廃人は相変わらず能天気に泥を漁っている。
「そう、チルタークが戦争の用意を終えているってことを、できるだけ上の方に――」
「――ま、待って!どういう……」
「ハナソンとチルタークの談合が終わった。それも円満に」
雨のカーテンを睨む。それがチルターク本社の方角なのは偶然ではなかった。
「チルタークを阻む壁はもうなくなった」
真剣な眼差しで彼女を貫く。その返答は口からではなく、腹に虫が答えた。
「……ご飯が、欲しい……です」
「そっかぁ」
飯と聞いて廃人は声にならない叫びを体全体で表した。
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