第25話
キリヤは泣き疲れて眠るチャプタヤの頭を膝に乗せつつ、窓から遠くの景色を眺めている。
規定速度を超えたホバー車が衝突事故寸前の隙間でせわしなく走り回り、峡谷のあちこちから建設されているビルは不夜城の如く光っていた。
雨、雨は降っていない。
珍しいことだった。一年を三百六十五日とすると実に三百日間は雨が降っているはずなのだから、たった一日雨が降らないだけでも珍しいことになってしまう。しかし、雨が降らないために化学スモッグ警報が鳴り響いているのため、火星に生きる人々は雨が降るのを望んでいるのかもしれない。
キリヤとチャプタヤはもうじきこの住み慣れた家を離れなくてはならなかった。ター・ホンインから手渡されたS圧縮構造爆弾により我が家は破壊され、チャプタヤも書類上は死亡することになる。
人を救って初めて彼は後悔した。工事現場で血塗れになっていたチャプタヤを救った時に、種々の罵詈雑言を身に受けたが幸せをつかみ取って見返した。それ以前にも教育機関でいじめられていた子を守ったことがあり、その子は後悔を滲ませたが決してキリヤは涙を見せなかった。
何か救えるものが目の目にある時、キリヤは悉く手を差し伸べてきた。それは信条であったかもしれない。それは自己的満足の、まさに利己的行動の化身だったかもしれない。
「ごめんよ。僕のせいで」
チャプタヤは死ぬことになるのを嘆き泣いておらず、無事にキリヤが帰ってきたことに泣いている。しかし、彼は不自由な生活をチャプタヤに強いることが許せなかった。
ホンインによると暮らすこと自体に不自由は無いらしい。されども、毎日をチルターク社やその他企業の社員や傭兵に見つかるのを怯えて生活するのをチャプタヤに押し付けてしまうのを悔やんでいた。
「ごめん」
綺麗なブラウンの髪をかき撫で、涙をふき取る。ホログラム広告に映っている美人に勝るとも劣らないチャプタヤは本人の話によるとビリアンタで生まれたと聞く。
雨水をためて煮沸し飲んで、腹を下して脱水になりかけた経験が何百回とあった。ある日、住み込んでいた工場から移動となり、このマリネリス峡谷近くの工場に移された。日々自動化が進む工場は不用意になった人材を捨てるらしく、彼女はマシな部類だ。
右も左も分からぬ工場で手足を切断するような大けがをして死にかけていたところをキリヤに救われた。そして病院のベットの上で目を覚まし、救助されたと知った彼女が自殺未遂をしたのは一回や二回どころではない。
チャプタヤは生き残ったことに後悔していた。とうのキリヤには分からぬ心情。何度も何度も病院に訪れ話し合って――手が動かせたのなら猫のようにひっかかれていただろう――ようやく心を開いてくれた経緯がある。
貯金をほぼ使い果たして高い医療費を払ったため、それ以上入院は出来なかった。家に招いて住み込みで看病しているうちに、二人は夫婦同然の生活を送るようになり、流れるようにチルターク支社に婚姻届けを提出した。
チャプタヤの名が戸籍登録に載ったのはその時が初めてであり、以前は存在しない人間だった。
「もとに戻るだけなのかも、でも、でも……」
後悔がにじむ涙が頬を伝う。キリヤはそれがチャプタヤに対するものなのか、自分に対するものなのか判別がつかなかった。
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