第20話

 チルターク社の潜水艇でサーマルとキリヤはマリネリス峡谷のどこかにいた。少なくともキリヤの知らぬ土地であった。


 キリヤは命を救われた身ではあるが、サーマルとの間には微妙な雰囲気が漂っている。馴れ馴れしく話しけることも、嫌みの一言でも発して退けることもできそうだ。


 言うなればキリヤは不機嫌だった。


 サーマルのせいで監査に行かされ、サーマルのせいでチルターク社に処理されかけた。彼自身が後悔するぞと言っていた様に、キリヤは不幸を意味もなく呪う。


 誰かを救い出すことが必ずしも幸福にはつながらないと彼は学んだ。


「サーマル、ここは?」


 敬称が抜けて呼び捨てになってしまうほど彼の機嫌は深く潜っていた。


 サーマルは首を振り、黒い球体に話しかけて現在地を調べさせる。暫くかかりそうだった。


 そこは産業廃棄物の流れ着く地。川の水が腐った匂いが充満し、触れば腫れてしまいそうなタールのような粘液に覆われた機械。雨は降っているものの、屋根が防いでくれている。


「まずアンタに言わなきゃならん。すまない」


 目を伏せ、痛みを抑えながらサーマルは腰を曲げた。手入れしていない人工脊髄がギクシャクキリキリ、不味い音を立てる。


 キリヤは何も言わないが、恨んではいなかった。そもそも、サーマルに止められたのを無理やり止血したのは彼だ。そのため責任だけはせめて自分の手元に置いておきたかった。


「……気にしてない」


「……」


「顔を上げて、あなたを家に連れ込んだのは俺です」


 恐る恐る、サーマルは顔を上げた。


「感謝してる。とても」


 黒い球体もキリヤの周りをぐるぐると回った。


「これは?」


 妙に生き物くさい動き、今もまるで睨んでいるかの様に銃口を向けるのはとても機械にできることではなかった。ナノロボットで作られた擬似生物でもアメーバ以上の事はできず、自立型AIでもハードの問題で不気味の谷現象から抜け出せていない。しかし、キリヤはこの黒い球体に不気味の谷ではなく本物の不気味さを感じていた。


 端的に表せば今まで出会ったこともない機械の感情に薄気味悪さを感じたのだ。


 顎に手を当てて考える仕草をし、サーマルはまぁいいかと漏らすとポツポツ黒い球体について語り出す。


 火星捜査局の人員不足は昔から悩みの種だった。局員の安全を図る意味で二人一組のツーマンセルじゃないといけないのだが、マリネリスはマシだがビリアンタの治安を考えるとそうなる。ただ人は用意できない、せめて機械でもと火星捜査局は考える全捜査員に渡された。初期型は低性能で記憶容量も僅かしかなかったが、サーマルが受領する時には十二分な性能を持っていた


「仕事場で貰ったもんに少し技術を加えただけだ」


「技術?」


「あァ、魔術みたいなもんだ。俺の血と、火を使って偽物の魂を入れた様なもんだ。だからこいつは俺専用。敵意剥き出しだが役に立つ」


 困惑した表情を浮かべるキリヤに、頭を掻いてサーマルは聞き流せと言った。


「大した事じゃねェ、地球の方がもっと進んでるはずだしな」


 サーマルは傷だらけでカビの生えた顔を手でこすり、あまりに遠くおぼろげな記憶を掘り返しているようだった。


 そこに黒い球体が近づき、ホログラムで調べた結果を表示していく。


「ここがどこかわかった。マリネリス峡谷の東側だ」


 彼は暫く考え込むと突然歩き出し。キリヤも遅れまいと後を追う。


 もう後戻りはできない。


「そういや、俺は通報されたのか?」


「してません……忘れてました」


 キリヤは正直に言うが、彼は別の方向に捕らえてまた感謝の言葉をかけた。


「すまねェ。ヘマしちまったばっかりに……ってことは不運だなァ俺も、あんたも」


「後悔は、し、してまえん。ところでどちらに向かってるんでしょう」


「ここはアストラゼネカの影響圏らしくてな、チルタークとは違ってスカベンジャーの港だ」


 スカベンジャーは廃品回収業者とよく敵対するならず者の呼称である。チルターク社以外の企業は廃品を積極的に回収することはせず、スカベンジャー等に回収させて一つの市場を築いている。


 二人がいる立地はチルターク社とアストラゼネカ社双方の影響を受ける地域であるため、真のガラクタが集まっていた。


「スカベンジャー……?」


 チルターク社の影響圏で生まれ育ったキリヤはスカベンジャーを直に見たことがないからか、一瞬その単語の意味が分からなかった。チルターク社は有用な資源を全て回収するのである。


「仲間が混じってるからな、あんたの街まで送ることはできる」


 キリヤは家に帰るよりも会社に報告するにはどうしたらいいかを考えていた。


 作業船で虐殺が起こったことからチルターク社はこの一件を隠匿するだろう。会社にも作業船の事故で死亡扱いになっている筈だ。あの気の利いた社長なら妻に一報を入れてくれているかもしれない。


 死人が帰ると情報が漏れることを嫌うチルターク社に消される危険があった。


「……あとでいっか」


 寝てから考えよう。彼はそう決めた。








 ター・ホンインの日課は化学物質の匂い漂う瓦礫の山で一呼吸することから始まる。


 普段通りにコアシールドの充電をきにしつつ朝のフードアンプを摂取する。マリネリス峡谷にある彼の拠点は野晒で人の住めるようなところではないが、火星開拓時代の大型シールドを修理して居住環境を整えていた。


「あれは……サーマル?」


 雨の中、充電の切れかけたコアシールドで歩いてくる二人組の内一方をターは知っていた。彼はまたかと思いのろのろと二人を出迎えた。


「サーマル、また電池切れかじゃなか」


「道中で襲われた。こっちは巻き込んだ奴だ」


「はぁ?」


 サーマルはこれまでのことを雨の凌げる家の中で説明した。撃たれてマリネリス峡谷のどこかで倒れていた際にキリヤに救われ、作業船に逃げたところをチルターク社に捕まり、一緒に殺されかけていたキリヤを助け出して漂流していたことを端的に話した。


 ター・ホンインの額に皺が刻まれる。


「情報部だろうね。セルナルガが抜けた影響はほとんど無しか」


「恐ろしく早い奴らだった。逃げるだけで精いっぱいだ」


 ますます皺が深くなるター、馴染めないキリヤが合成着色料でピンク色になったお茶を不味そうに飲んでいる。


「他のみんなには伝えとくよ。こいつは?」


「あっはい、キリヤです。普通にチルターク社の下請けで勤めてます」


「中流階級か」


「貧困……とは思ってないです」


 ターもキリヤもは来ている服が血で汚れていることは気にしていなかった。


「こいつを向こうの街まで届けてってくれ。俺は情報部にかじられたばっかだからな。逃げるしかねェんだ」


「ちょうどメラスには用事があったんだ。引き受けよう」


 マリネリス峡谷ではビリアンタに負けず劣らず裏と取引が盛んだ。ターは回収した使えるガラクタを売りさばくついでにキリヤを持っていくことに同意した。


「恩にきる」


 ター・ホンインにとって恩の貸し借りはかなり重要である。信用に置き換えることもできるし、金に換えることもできる。彼に慈善事業は存在しない。


「すいません。多分、俺死んだ扱いになってるんですよね」


「あぁ、監視カメラとかドローンは避けるから安心しな」


「いえ、あの……どう生きていけば」


 キリヤの問いに二人は盲点を突かれたと顔を見合わせた。


「俺は情報部にバレた時点で色々伝手を渡ってきたがな」


「まだ僕は追われる身でもないし、死んだ身でもない」


 雨はシールドに弾かれる独特な音が三人の間に割って入る。今日は雷も鳴って一層激しい。


「妻が、妻がいるんです」


 キリヤは二人からすると表に生きてきた真人間だ。苦しみつつも過ごしていけるだけの収入、チルターク社に身に覚えのない暴力や改造を受けさせられたわけでもない。いわば、彼は幸運だった。


 ターは思わずほくそ笑みそうになるも、考えてもないことを口にすることで誤魔化す。


こっち反チルターク社連合で保護をかけあってみる」


「新しく拠点の管理を任せるのが最適か」


 悪くない。ターは心の中でサーマルに感謝した。


「ター以外でマリネリスに拠点ができれば助かることは多い。下請け企業の多さはビリアンタの比じゃないし、交通網もしっかりしてる」


 建物や人間が腐りきった駅舎と比べると、マリネリス峡谷の駅はどこも綺麗に見えてしまうのだ。


 キリヤは黙って頷いた。


 チルターク社によって死人扱いになっているはずであるし、生殺与奪の権利は向こうにあると分かっている。


「俺はハミルトン・田村に連絡する。キリヤは頼んだ」


 時間は貴重であり敵である。サーマルは火星捜査局で習ったことを忠実に今も実行し、ターの返事も聞かずに飛び出した。ちゃっかり満タンまで充電したコアシールドを体に巻き付け、雷雨のガラクタ山に消えていった。


 キリヤは何もかもが変わってしまっていることに今更ながら恐怖を感じ始めた。妻の断りもなく裏社会に足を突っ込んだだけでなく、生き方まで変えてしまったのだ。


 背中から体全体が震えるのは勘違いではない。


 彼は非常に妻の反応を恐れていた。ターはそれを中流階級からの転落に見立てて薄ら笑いさえ浮かべていた。

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