それは血

第17話

 マリネリス峡谷の一端、多層構造の建物が立ち並ぶ火星社会における中流階級の住まう土地だ。電車で工場や事務所に通勤でき、車を使えばドームにも簡単に通うことができる。立地が良い場所、と彼らは考えていた。チルターク本社からの距離も適切で、しっかりと支社が天高く聳え立っており、この町の象徴でもある。


 果たしてそこには、雨が降っていた。


 傘をさして歩く自身を貧困層ではないと自認している男が居た。彼はいたって真面目の部類で、会社――チルターク社の下請け――での成績も中の上……いや中の中と思っている節がある。妻は工場で事故を起こし安っぽい義足と義腕を付けている貧困と普通の狭間のような人だ。


 幸せとは何かを考えると少し憂鬱になるが、妻から子供をねだられているからか今日は気合を入れてしっかりと歩いていた。


 しかし、彼はふと路地を覗いてしまった。


 うるさいホログラム広告や改造ホバーの爆音、ファッションがどうたらと文句をいう際どい女の声も聞こえくなった。


 暗闇を覗いたとき、何かいると彼は感じた。音もなく、光もなく、腕時計が妻の連絡を絶えず振動で伝えてくるのも無視した。


 一歩、また一歩。

 進み出る彼の足取りはもはや亡者と同等のそれだった。だが見つけたものはハンマーでニトログリセリンを叩いた時のように強烈な印象を与えてきた。


「お前は、敵か?」


「……」


 彼は無言になるしかなかった、そこには脇腹から大量の赤い血を流す男がいたのだから。


「敵か、違うか?!」


「ち、ちが、ちがう。て、敵じゃない!」


「どっか行け!早く!!!」


「で、でも……傷が」


「いいから行け!」


 一度だけ、彼は似たような状況にあったことがある。普通なら無視してお陀仏だった女性と同じ状況だ。血塗れの男を見ると、なぜか笑顔な妻が脳裏に浮かぶ。


「む、無視できるわけないでしょう」


「おい、やめろ。後悔するぞ」


 懇願にも近い脅しだった。

 同僚からも、係長からも似たような言葉をかけられた経験があるが、その時は脅迫だった。


「知ってます。知ってますとも」


 サーマルは断る言葉を口に出すことが出来ずに気絶した。





 妻は愛すべき旦那がとても重く厄介な荷物を背負って帰ってきたと分かると床にへたり込んだ。


「チャプタヤ、傷は塞いだから僕の布団をだしてくれないか」


 いつもは呑気な旦那の顔はあの時と同じ真摯な眼差しに変わっていた。とても断り切れず、彼の敷布団を床に広げて荷物を横たえる。


「キリヤ、何考えてるの」


 恐らく九割の知人は全く同じ問を彼に投げかけるはずだ。

 そしてキリヤは暫く答えられなかった。


 窓の外は交通ルールを守ったり守らなかったりするホバー車が地面よりも数キロメートルも高い位置を飛んでいる。今日は雨ではなく霰が降り注ぎ、有害物質が塊となって谷底に落ちていく。窓に当たるたびガタンガタンと音が鳴り、キリヤは自然に脅されているかのようだと感じた。


「チャプタヤの顔が……この人を見ると見えたんだ」


 彼女は答えになっていないと叫びたい衝動に駆られるも、喉元で抑える。謎のお荷物がゆっくりと腰を上げ始めたからだ。


「ぐぐぬ……お前……」


「あんだけ血を流していたら腹が空くでしょう。フードアンプ二つ分、食べてください」


「血を流していたから私を思い出したの?」


 キッチンに向かう旦那はぎこちなく頷いた。


「わかったわ、一泊したら出てって。キリヤ、晩御飯にするわよ!」


「ダメだ。すぐいかねぇと」


「立つな!座れ!」


 鬼の声にサーマルは足をひっこめた。


 暫くすると、湯気を纏わせる二つの容器がサーマルの前に出された。病人でも食べやすい液体タイプで、栄養価の表示を機械眼球で確認するとタンパク質に偏っていた。


「ああ、その目持ってるんですか。プロテインを混ぜたんでタンパク質が多いでしょ」


「もう一個はビタミンを添加してあるからしっかり食べなさい」


 このまま逃げ出すことも可能であろうが、この好意を無碍にするとチルターク社と何が違うのかと思い黙って容器を手に取った。

 温かく、親切心の籠った久しぶりの食事だった。


 夫婦もその様子をみて安心し、机に並べたフードアンプをじっくりと噛んで味わう。なんら加工の一つもしていない普通のフードアンプだ。


「「おいしい」」


 二人は揃って口にした。


「そういえば、名前を聞いてなかった」


 口ごもる男にチャプタヤが睨みを利かせる。


「……サーマルだ」


「キリヤに助けられる前は何をしてたの?」


 真実を話す必要はなかった、一切なかった。嘘を重ねて煙に巻くことも当然可能だった。しかしサーマルは言葉を選ぶように、ぽつぽつ話し出す。

 雨は霰から小振りの水雨の変わっており、部屋は静かになっていた。


「俺はァ、ちょっとしくったんだ」


 雨に長時間撃たれてしまっていたのか、次第に顔が真っ赤に腫れていく。慌ててキリヤは薬剤をサーマルの顔に塗りたくった。


「ビリアンタで不正の証を掴んだと思ってなァ。局長から止められたがここまで来て、いざ臨場ってところで撃たれちまってよォ。この有様だ。こいつが居なかったら俺は死んでた、ああ、死んでた」


真実に少し近いだけの嘘。サーマルは二人を巻き込みたくなかった。


「……ちょっと面白そうだから不正について教えてくれる?命の恩人にそれを返すつもりで」


「か、勝手に……」


 キリヤは話を進めるチャプタヤを止めようとして逆に止められてしまう。雨に撃たれる屋外に放り投げられるよりも、機嫌を取る方を選んだ。そして黙って丸薬をサーマルに渡す。


「不正、不正……面倒ごとに巻き込まれるかもしれねェ。いいのか」


「もう面倒よ」


 男性二人は心なしか小さくなった。


「不正といっても、本来は問題にすらならねェことだ。チルタークとブレンナットの取引が怪しいもんで、少し探ったらボロボロでできた。賄賂、破壊工作、人身売買。ビリアンタじゃ普通だし、ここマリネリス峡谷でもそうだろ」


 真実。サーマルは続ける。


「社法にも違法とは書いてない。問題なのはメージャーだ。麻薬関連法でメージャーの企業間取引はチルターク社が自ら封じてるんだ。独占するためにな……だが、ブレンナット社に横流ししている」


「チルタークが作ってるからアリでしょ」


「そこを突かれちゃなんも言えねェな。俺はチルターク社の弱点を知りたいだけなんだ。あぁ……あぁ俺は、結局俺はどんなことをしてでもチルタークのクズを殺してェからよ」


 その言葉を聞いた途端、二人の背筋は一気に冷たくなる。チャプタヤは聞かなければよかったと思い、キリヤは助けたことを後悔しかけた。ブルブルと頭を振って命を助けたことを肯定し、姿勢を正して正面に向き合う。


「密告、しますよ」


「あぁ、それが正しい判断だ」


 サーマルは至極冷静に言った。

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