第3話

 雨、地球では恵みである。

 ここ火星においても、企業の活動で生み出される窒素酸化物のほとんどは雨によって地面に落ちる。おかげで喘息に掛かることはないことに加え、腐ったものを掃除する人も必要ない。しかし、水溜りに顔を入れると命の保証はないだろう。飲み水すら入手できない貧困に喘ぐ人々が飲んでいるものの、煮沸してすら汚染を取り除ききれないのは既知の事実だ。


 兄妹が住む五番街、どこらの企業からも受けて入れて貰えなかった半端者が多く存在する。ブレンナットはチルターク社の下請けとして貧困者を実験に捧げ始めたのは何十年も前の話で、ある日隣人が消えていることも多い。雨降る外を出歩く人物は、家に篭れない悲しき隣人ということになる。


 ゼノンとガンツの両親も、泥水を啜って──比喩ではない──生きる貧民の類であったが、人間としての尊厳は最低でも守った。兄妹が今こうしてドローンの破壊を画策できるのも、子供を売って生活の足しにしなかったためであった。二人に親を敬う気持ちがあるかは当人にしか分からない、少なくとも遺品は大事に使っている。


 火星の雨はそんな不幸か幸運をも洗い流す。

 兄妹は部屋に篭り、フードアンプを食べながらネットの海を彷徨っていた。


 ガンツがテレビをニュース系の番組に切り替えるも有益な情報は流れておらず、つまらなくなって放置する。もっぱらBGMとしての役割と化していた。


「うぅん。買ってくれそうなところないね」


 ゼノンは全球ネットワークに接続しあらゆる質屋で買い取りを掲げるところを探す。だが高品質なメージャー、そもそも麻薬関連の売買をしてくれる店などなかった。


 チルターク社法にて麻薬、覚醒剤関連は売上に直結する重要な商品なためか、その売買は厳しく制限されている。辛うじて低品質な産廃品がチルターク社の手を離れて売買されている程度で、それすら監視の目が及んでいることもある。

 この火星において、チルターク社に逆らえる小店など存在しなかった。


「やっぱり、ハナソンかセルナルガに売るしかないよ。ブレンナットは多分殺してくるし……」


「大企業は足元みて安く買いたたかれるから嫌なんだよなぁ」


 こうでもない、ああでもないと時間ばかりが過ぎていく。

 火星の天気は相も変わらず雨模様、ホログラムも変わらず広告を映している。時折、階下の喧騒が二人の耳に入るぐらいだ。


「買ってくれる人いないかなぁ」


 ゼノンがため息交じりに願望を口にする。

 直ぐさま兄の瞳孔が大きくなり、顎に手を付き深い思考の海に沈んでいった。


 妹は何か思いついたのか声を掛けようとしたが、こうなると兄は梃でも動かない。しばらく暇になりそうだったのでゼノンはタブレットを手に取って全球ネットワークではなく、反チルターク社の寄り合いが作った小さなネットワークに侵入した。


 そこは賞金首や重犯罪者の情報交換場、もしくは反チルターク社連合と自称する人々の作戦会議場でもある。妹は暇なときは大抵ここに潜り、娯楽として命を懸ける反乱者を高みから見下ろしていた。


 今日は賞金首も重犯罪者もネットワークに僅か接続していないようで、反チルターク社連合のサイトが活発だった。

 意外にもター・ホンインの偽名もサイト内に転がっている。俄然好奇心が湧いた。サイトに仕掛けられたいくつもの罠を玉ねぎのようにむいて避ける。五十個目の罠を超えたあたりでついにサイト本体に辿り着いた。


 ター・ホンインはやはり軍製品の供給を担っているようだ。表示されているリストを捲っていくと、目的の品が目に入った。地球政府軍が遺した成形炸薬弾を分析して火星産のものを量産しているようだ。これの示すところは、反チルターク社連合もオオカミの弱点に気づいているということとなる。


「にい、あっ……ふんっ」


 分かっていても動いてくれないのは癪であった。

 気晴らしにゼノンは立ち上がって部屋の隅にある棚に向かう。そこにはデータチップがいくつかあり、内一つを持ってまたソファに座る。タブレット端末に差し込んで起動、プツッと音がして読み込まれたのは写真だった。


 幼い頃はよく涙を流したが、慣れは無常にも悲哀を奪った。一滴も瞳を潤わせない写真、悲しさを感じるのは両親がいないことが当たり前になってしまったせいなのだろうか。しかしタブレットの表面を触っていくと、やはり目の奥で鼓動する涙腺があった。


 記憶にも薄い両親の記憶は、笑いあった楽しいものだけしか残っていない。されど、今のゼノンの行動は親から受け継いだものであるし、脈々と癖は息づいていた。涙はもう流れないが、温かった気持ちは忘れることもない。

 忘れるはずがない。


 もしかしたら、今日も生きているかもしれない……と、あり得もしない希望が一瞬浮かび、頭を振って否定する。目の前で連れ去られたのだ。もし、もし生きていたとしても…………残酷な実験の末路を想像するに忍びない。


「でも、それでも、会いたい……」


「そうだな……会いたいよ」


 兄は静かに思考の海から復帰していた。

 その表情は、悲しさと愁眉が同時に表れている。


 言葉に表せない空気が空間に充満する。どとらかが話しかければ瞬く間に融解する、そんな脆くつかみどころのない空気だ。仮に、兄妹の両親がその場にいれば笑って弾き飛ばし二人も破顔するだろう。明るく、幸せの共依存、劣悪の極致たるビリアンタで生き残る兄妹に必要なのは余裕なのかもしれない。


 雨が少し、収まり始めた。


「……買い手、多分見つかるかもしれない」


「ほんと?」


「お……うん。チルターク社の戒律は社員で実行されるけど、社員が社員を捌けない。一応懲罰社員がいるみたいだけどな」


「あー、そっか」


 ゼノンの脳裏にはナレミの顔が浮かび上がってきた。茶色い髪に白い化粧を好む、ついで小さい少年“を”どうしようもない程愛する性癖を持っている危険人物。こんな人間でもチルターク社内ではそれなりの地位を手にし、部下はのべ一千人にも及ぶ。


「ナレミだね。私が話をつけてくるよ、にいは無理しないで」


「いや、俺も行かないとダメだ。殺されたらどうする」


「はぁ……一緒に死の?」


 空白。


 頷き。


 兄妹はナレミの前に立つため装備を準備し始める。


 レガシー2149Eの残弾は小型レールガンのアルミ弾は嵩張りにくいおかげでまだ百発以上残っている。ゼノンの持ち武器、AG&KD社製コンバートSRの残弾はエネルギー弾なためバッテリーを補給するだけで済む。


「コアシールドのエネルギーは暫くかかりそうだな」


「ナレミにあぽ取っとくね」


「ありがとうな」


 ちょっとした時間でも有効に活用するのが生き続けるコツだ。兄はフードアンプの残りを記録し、冷蔵庫の表に書き込んでいく。

 数日分はあり、アジトにいれば飢えることは無い。


「にいが来れば会うって、あの変態」


「使えるものは何でも使う」


「顔歪んでるって」


 昔、ゴミ漁りをしていた時にナレミと初めて出会った。彼女の第一声は名状し難いトラウマとなっており、思い出すだけで頭痛のするケダモノの類であった。今でも思い出すのを拒むほど記憶に深く刻まれているが、食べ物を分けてくれたり体を洗ってくれたり、当時の扱いが無ければ二人かのたれ人でいただろう。


 それでも、考えるだけで自然と顔が歪んでいる。


「だ、たいしょうふ。交渉するだけ、交渉するだけ」


 兄は足が震えていることに気づいていないようだ。

 アポイントはすでに取ってしまっている、引き返すのは勇気以上の何かが必要だ。


「会いたくないけど……買い手がいないんだ仕方ない」


 兄の状態に妹は憤怒に等しいため息を吐いた。

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