10、偽善者


「どういうことだ」


 唸るように声を出すと、リーリヤは「おっ」とでも言うように目を丸くして、それから申し訳なさそうな顔をした。


「満足いただけるような動きが出来なかったのはお詫びしますよ。言ったでしょう? 得意ではないのです、交わりが。お互いに了解したような、興奮を高めて盛り上がるような動きというのがどうも苦手で……。ご不快でしたか、すみません」


 不快に思っているのはそんなところではない。

 手を出したのはこちらだが、怒りも悲しみもせずにへらへらしているこの男に猛烈に腹が立った。


「何の為にお前は自分をそこまで安売りする」

「安売りはしていませんよ」

「どうしてそこまで私の身を案ずるのだ。身をすり減らしているのはお前だぞ! 気味が悪い。私を助けて、お前に何の得がある!」


 まともな怒りというものを知らずに今日まで過ごしてきたジェードだったが、ここでそれが爆発した。他人から見ればさほど激しく見えないかもしれないが、こうして声を荒らげることは経験がなかったのだ。

 まばたきを繰り返したリーリヤは、首をこてんと横に倒した。


「あなたにはご迷惑かもしれませんが、それが私の生まれながらの性質と言いますか、単純に世話を焼くのが好きなのです。趣味みたいなものです。ご容赦下さい」


 わからない。全くもってわからない。


「度が過ぎている」

「よく言われます。ですから迷惑がられるのです」

「だったらよせ」

「よしたくありません。よそうと思ってもつい手を出してしまいますし、人助けが好きなので」


 人助け?

 話せば話すほど怒りは高じて、気を落ち着かせるのに非常な精神力を要した。

 自分の身が大切でない者などいない。利益がないのに他人を助けるはずがない。少なくとも、ジェードの身の回りにはそういう人間しかいなかった。

 だから、こんな男が。縁もゆかりもない自分を何の得もなく助ける男が、いるわけが――。


「なるほど。そうして善人面をして、人に何かをしてやったと、いい気になりたいのだな」


 リーリヤは微笑んだ。


「ああ、そうかもしれません。私はきっと、偽善者なのでしょう」


 あまりにも他意のない朗らかな笑みに、ジェードは絶句した。

 侮蔑の言葉がすんなりと受け取られたことに愕然として、目を見開くしかなかった。思い切り、傷つけてやろうとして投げた言葉だったというのに。

 この男は、手をさしのべた男に乱暴されて、理不尽な怒りをぶつけられ、軽蔑の言葉を吐かれたのに、それでも曇りない笑顔を見せるのだ。


 腹の底がざわざわとした。


「……私が、あなたにそんな顔をさせているのですね。あなたはついていないお方だ。私は変わり者で、私と話す方は大体困惑するのです」

「お前は異常者だ」

「そうなんです」


 リーリヤは声を立てて笑い始めた。屈託のない笑い声を聞きながら、ジェードは拳を握りしめる。その拳の中には、リーリヤに渡された花の種があった。


「皆さん、私を散々なじって腹を立てられるんですが、私がこんな性格ですから。根負けして諦め、引き下がります」


 確かに、怒りは急速に萎んでいった。

 自分が言ったわけではない「偽善者」という言葉を取り消したかった。彼は偽善者ではない。善行かどうかなどと意識して行動していなかったのは明白だった。


 大丈夫ですか、とかける声音も瞳も、混じりけのない純粋な労りと心配しかなかった。そうであったからこそ、ジェードも彼に触れられた手を振り払わなかったのだ。


 この男は、己の損得など――関係ないというのか。


「私がお前を殺さないとは限らなかった」

「そうなったら、それまでです。私に運がなかっただけのことですよ」

「よく今まで生きてこられたな」

「私だって、無闇やたらと人助けはしませんよ。なるべく自分の身は守るようにしています。だって、命がなくては趣味の人助けも出来ませんからね」


 リーリヤは笑いながら、ジェードの上着の乾き具合を確かめていた。

 身を守るような行動をするようには思えなかった。この男は乞われれば、平気で自分の体のどこでも相手にくれてやるような気がする。


「もしも私が、お前の腕があれば命が助かるから寄越せと言ったらどうする」


 リーリヤの美しい顔は、揺らめく炎に照らされている。彼は慈愛をこめた笑顔を浮かべた。


「差し上げましょう」


 こんな――男が。


 いてたまるかと思った。


「腕がなければ、お前の好きな人助けをするのに今後難儀するぞ」

「ですから、差し上げなくて済む方法があるならさがしますけど、それしか助かる方法がないならそうします」

「何故だ」

「あなたが困っているのを見ていられないからです」


 ジェードは力なく彼の言葉を聞いていた。

 お前は馬鹿だ、と心の中で罵りながら。

 お前は私の命を気にして、しかしお前の腕の心配は誰がするのだ。せめてお前だけでもしてやるべきではないのか。

 私が救われれば、お前は片腕になってもそうやって笑うのか?


「私、勝手な男なんです。世界で一番勝手な男かもしれません。困っている人が私の前にいるのが、我慢ならないのです。私のわがままで、どうしてもその人の苦しみを少しでも取り除きたくなるんです。そうでないと気が済まない」


 その自己犠牲が陶酔からくる選択ではなく、単なる癖だというのだから呆れる。相手が迷惑しているというのも承知の上らしい。

 リーリヤは笑みを深めた。


「透明になれたら、と思うことがあります。私は透明な手になりたい。そうして誰かを助けたいです。そうしたら、差し出された手が誰の者かも気にしないでしょうから。私は誰にも気にされずに、困っている人を助けられる」


 百回馬鹿と罵ってもまだ足りないかもしれない。馬鹿な自覚があるのだからどうしようもない。

 こんなことをしていては、命がいくつあっても足りないではないか。今まで無事でいたのは、運が良かっただけなのだろう。


「世界に、お前を見る者が一人もいなくなってもいいと言うのか」

「はい」


 はっきりとした返事に傷ついたのはジェードの方だった。

 人生の中で、これほど心をざわめかせたのは今夜が初めてのことだった。

 王子として生まれ、ろくな人間が周りには寄りつかなかった。父王からはほとんど目をかけられず、それなのに兄弟からは勝手な嫉妬を向けられる。期待を寄せて近づく大人達は利益のことしか頭になく、甘い言葉を囁いて裏切り、潰そうとしてくる者もいた。


 こんな風に、心から心配されたことがない。こんな会話をしたこともない。

 こうやって、笑いかけられたことも、ない。

 そして、「この男はこのままで大丈夫なのだろうか」と誰かの身を本気で案じたのも初めてだった。自分がこんな感情を抱くことに、猛烈な戸惑いを覚えた。

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