第二章 恋
8、出会い
* * *
ジェードは追われていた。
追っ手はいつものように、兄弟王子が放った刺客だろう。いつものこととは言え、今回は執拗で苛烈な攻撃だった。さすがのジェードも連日連夜の猛襲に疲れ果てていた。
――人斬り王子。
第十五王子ジェードは、いつからかそう呼ばれていた。剣の腕が立ち、人を斬るのが上手い。なので兄弟からは道具のように使われることが多かった。
しかし力をつけると脅威に感じたのか、思い出して時々潰そうとする。兄弟王子にとってジェードは聞き分けの良い武器であると同時に、王位を巡る競争者でもあったのだ。
ジェードはというと、王位というものに全く興味がなかった。
というより、何にも興味がない。欲するものも喜びもなく、ただ剣を振るい、命を狙われる日々。
お前に感情などないのだろう。いつだか兄王子がジェードにそう言って笑った。
しかし、今なら否定する。確かに今の自分には心の動きがあった。
――怒りと、絶望だ。
王命により城を離れて使いに出ることになったのだが、ここぞとばかりに集中的に攻撃を受けた。従者も計画に噛んでいたのか姿を消し、ジェードだけが逃げ続けている。
追っ手はしつこく、その執着は蛇のごとく、湧く数は虫のごとくだった。
初めて感じた虚脱感に、何もかもどうでもいいという投げやりな気持ちになってくる。気を抜かなければ逃げ切れるだろう。己の強さは自覚している。だが、振り払うのがどうにも億劫になってきていた。
――それほどまでに死を望まれているのに、生き延びなくてはならない理由は何だ? 何のために、私は生きる?
闇の中をたどり、ただ剣を振り回すだけの人生。戦うことしか能がなく、王や兄に命じられるまま動く人形でしかない。挙げ句、暇つぶしのようにこうしてもてあそばれる。
ジェードは、初めてあらゆるものにはっきりと立腹し、自棄になっていた。
――うんざりする。何もかも。自分の人生には、何もない。
散漫な意識で敵と打ち合うからか、小さな傷が増えて満身創痍だった。
川に落ちて流されて、しかしやはり丈夫なせいか岸に泳ぎ着いてまた生き延びてしまった。少し歩いて膝をつき、うなだれる。ふわふわとした浮遊感に反して、体は異様に重い。
「もし。大丈夫ですか?」
夜は更けている。
暗がりの中、水を滴らせて頭を上げると、誰かがこちらの顔をのぞき込んでいた。
真っ白な髪を肩の辺りで切りそろえ、分厚い毛織りのマントを着込んだ若い男だ。二十歳かそこら――いや、もっと若いかもしれない。
「お怪我をしていらっしゃる。歩けますか? こちらに……」
ジェードは剣を抜いて青年の喉元に刃を突きつけた。
相当な威圧感を放っているので普通なら腰を抜かすところだが、彼は少々驚いたように目を丸くしただけで、さほど動じている様子もない。両手をあげて敵意がないことを示そうとしている。
「私はただの旅人です。あなたの敵ではありません」
ジェードは無言で青年の腰の辺りを探り、短剣を奪った。
「これは?」
「旅人だって、短剣くらい持ちますよ。刃物を持たなくちゃ何かと不便ではないですか。武器になりそうなものはそれくらいです。気が済みましたか?」
不審なくらい肝の据わった青年で、ますます油断ならないとジェードは警戒した。これまでの追っ手でこんな間の抜けた喋り方をする輩はいなかったが、だからといって信用するわけにはいかない。
「そんなに濡れて……寒いでしょう。乾かした方がよいのではないですか? それより手当てが先かな」
喉元に刃物を突きつけられている人間の態度ではない。怒りがこみ上げてきた。
「何者だ?」
「ですから、旅人です。今夜はここらで夜を明かすつもりだったのですよ。水を汲みに来たら、あなたが川からあがってきたので驚きました」
睨みつけるジェードに対し、青年の瞳は風のない夜の湖面のように穏やかだった。
「とにかく、手当てを。私に触られるのが嫌でしたら、薬と清潔な布を持ってきますから、受け取って下さい」
よく研がれた剣の先は鋭い。脅しのために、青年の首の肌にほんの少し切っ先を触れさせた。ぷくりと血が丸く盛り上がる。
「殺すぞ」
底冷えするような冷たい声で言う。
青年は微笑んだ。
「怯えないでください」
――誰が。
ジェードは怒りで息を詰まらせた。発作的に、この男を殺そうかと思った。
誰が貴様のような男に怯えるか。たわけたことをぬかすな。
剣の柄を握る手に力を込めた瞬間、地響きを足に感じた。馬の蹄が地を叩く音だ。
白い髪の青年が途端に目つきを険しくして、ジェードの剣をよけると腕を引っ張った。
「あちらへ。あの茂みの向こうに身を隠しなさい。早く」
背中を押されたジェードは、どうしてか彼の言葉に従って茂みの方へ歩いた。心身共にかなり疲弊していたから、考えるのが面倒で、命令に従うのが楽だったからかもしれない。
青年はそこに突っ立ったまま、川の方を眺めている。
馬に乗った一団がやってきて、人がいるのを見つけると止まる。服装には見覚えがあった。先程戦ったばかりの追っ手で、剣や槍を手にしている。
「お前は何者だ?」
「た、旅の者です……!」
青年はジェードの時とはうってかわり、震えながら馬上の男を見上げている。
「男を見なかったか」
「あの……ええと……」
「嘘を言うと為にならないぞ。命は惜しいだろう」
「どうか、お慈悲を……! 見ました! 川からあがって来た男が……」
ジェードが目を細め、襲撃に備えてまた剣の柄を握り直した。
青年が泣き出しそうな声で川下を指さす。
「わ、私の荷物を奪って、あちらへ逃げて行きました! このことを話すと後で酷い目に遭わせると脅されていたのです……!」
男達は顔を見合わせて頷いている。
視線が自分に向けられて、青年は涙声で叫んだ。
「あなた方のことも誰にも言いません! ですから……」
男が槍を振り回すと、青年は悲鳴をあげて腰を抜かし、背後の岩に背中をあずけた。
槍が無慈悲に青年の体を突き刺す。悲鳴はすぐに止み、男達は今人を刺したことも忘れた様子で馬を走らせ始めた。
十分に距離が離れたのを確認すると、ジェードは茂みから出て行った。
あの青年は、どうしてあんな形で命を無駄にしたのだろう。頭のおかしな奴だったのだろうか?
感謝の念など微塵もなかった。だが、もう一度顔を見ておこうと死体の方へ近づいてみる。
倒れた死体は穏やかな顔をして夜空を見上げ、まばたきをしていた。
――まばたきをしている。死んでいない。苦しそうでもない。健やかな表情で、まるで休憩でもしています、といった雰囲気だった。
「今夜はよく晴れていますね……星が綺麗だ」
「刺されたはずだが」
「ああ、これですか?」
青年はマントをめくって腹を見せる。
「あの人が刺したのはここですよ。私の横っ腹にくくりつけてある荷物。しこたま薬草を突っ込んでおいたので、手応えはあったでしょうね」
くくりつけてある袋は破れており、青年は体を起こすと散らばった薬草を拾ってポケットへと押し込む。
「刺される瞬間に、こう、腰を横に避けるんですね。こういうの得意なんですよ、私。何せ戦うのはからきし駄目で、回避するのだけ上手くなったと言いますか」
腰を振って実演して見せる。
殺されかけたというのにけろりとした表情だ。彼はまるでジェードが長年の友人であるかのように、親しげに手をとって崖の方を指さす。
「服を乾かしましょう、風邪をひきますから。洞窟があるのです。今晩はそこで休むのがよろしいですよ」
濡れたくらいで風邪をひくほど軟弱ではない。もっと過酷な状況に幾度となく耐えてきた。だが、そんな文句を言うのも面倒だった。
先程、ほんの少し傷つけた彼の首からこぼれた血が乾きはじめているのを見て、ジェードは目をそらした。
広すぎず狭すぎない、二人で過ごすには問題ない大きさの洞窟だった。
入り口ではまじないをかけた香を焚いており、火をおこしても外部へ光が漏れないよう工夫されている。青年は荷物から布と薬を出し、ジェードに手渡した。ジェードからしてみると大した怪我ではないのだが、一応自分で手当てをする。
青年は枝で簡単な物干し竿のようなものを作り、火の側でジェードの脱いだ衣服を乾かし始めた。
明るいところで青年の顔を見たジェードは、いささか驚いた。
滅多に見ないほど綺麗な顔立ちをしている。肌は白く、目鼻は気品ある造りで、実に美しい。やはり若そうに見えるのだが、物腰や口調などが年齢をわかりにくくさせている。
「聞かないのか。私が誰に追われているのか」
長い沈黙を破ってジェードが言えば、青年は笑う。
「私が気になるのは、あなたの体の具合です。酷く痛むところはありますか? 痛み止めの薬もありますが」
「やけに薬を持っているんだな」
「植物には詳しくて、薬草の類を集めているんです。誰かに差し上げたり、売ってお金にもできますからね」
再びジェードは座る青年の全身を眺めた。体は細く、武人の類ではない。動きを見ても素人で、隙だらけだ。金持ちの息子にしては度胸が据わりすぎているし、労働階級の人間にしては美しくか弱すぎる。謎は深まるばかりであった。
「お前の名は?」
「リーリヤと申します」
声も落ち着いていて耳心地の良い響きをしている。怒りをなだめるような、優しい声だ。
「何故私を助けようとした」
「助けを必要としているようでしたので」
「そんなことはない」
助力などなくても生きていける。いくつもの裏切りを経験して、誰の手も借りようとは思わなくなった。助けが欲しいなどと、願ったことはない。
「つらそうな目をしておられましたよ、あなたは。この世にひとりぼっちでいるような。そういう目を見ると、放っておけないのですよ。手を握りたくなってしまう」
「お前の思い込みだ」
「そうですね」
あんまり朗らかにリーリヤが笑うので、ジェードは顔色を変えないまま内心戸惑っていた。そして思う。実際、自分はあの時どのような顔をしていたのだろうか、と。
こちらが名前を聞いても、リーリヤはジェードの名前も素性も、本当に具合のこと以外は一切尋ねようとしなかった。
「しかし、私はあなたが召し上がるようなものを持っていないな……。薬草はたくさんあるのですが、『人間は』それで腹など膨れないでしょうからね。私は水と光だけで生きていけるので、食料は持ち歩きませんから……」
ふむ、と首を傾げたリーリヤは、耳を疑うようなことを言い出した。
「体力がまだあるのでしたら、私のことを抱けばいい。それで多少は回復するでしょう」
聞き違いかと思ったが、リーリヤはマントを脱ぎ、上着の首もとの
「お前は頭がおかしいのか?」
「よく、そう言われますね」
リーリヤは苦笑してジェードの方へ向き直った。
「実は私、人間ではなくて花の子なのです。花の子のことはご存知ですか?」
人の国と離れた場所にある、花の子が住まう花の国。
花の子は人の子とよく似た姿をしているが人とは異なり、美しい容姿に花の香りを身にまとっているという。いずれも男。そのくらいしかジェードは知識がなかった。
花の太陽は彼らの魔力によって活動をしているから、人の子は花の国の恩恵を受けている。意識するとすればその程度だ。花の子は人の国にほとんど足を踏み入れない。
なので当然、花の子を見る機会もない。
だが、嘘だと一蹴するにはあまりにもリーリヤの美貌は人間離れしていて、むしろその説明で納得がいくほどだった。
「花の子は、快楽を感じて特別な花を咲かせるのです。それは人間にとって栄養になります。空腹もおさまるそうですから」
いそいそと服を脱ごうとするリーリヤを、さすがに呆然としながらジェードも見つめた。
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