第11話

雅弓が両の手を頭に乗せて鼻歌交じりで足取り軽く廊下を歩く。

「――ねえ、雅弓ちゃんどうしたんだろう?」

空は首をかしげて「さあ?」とジェスチャーした。

「頭痒いのかな?どこかぶつけたとか?もしかして昨日『のみ込んじゃいましたわ』て言ってたグレープフルーツの苗が生えてきたとか?」

想像してしまったのだろう空の口元が緩み涎が少し垂れた。

「小夜さん――」と雅弓がくるりと向き直った。

「わたくしは別に頭も痒くないし痛いわけではありません。ましてや頭から苗が生えてくるわけがないでしょ」

「じゃあどうして頭を押さえてるの?」

「先程のこと覚えてないの?わたくしたち幻中先生に『よく頑張った。さすが私の教え子だ』と言われたのですよ?」

そこまで言われてない。と空と小夜は顔の前で手を振った。

上機嫌な雅弓を先頭に保健室前に着くと空は大袈裟に唾を飲み込んだ。

「ふぃとりでひくよ。ふぁりがほう」

「わかった。帰ってきたらいっぱい歌うからね」

小さく手を振り空はいまだに手を頭の上に置く雅弓たちと別れた。

空は保健室をノックしドアに手をかけた。鍵は掛かっていない。

「ひつへいします」

薬品の匂い漂う保健室の中に踏み入る。

「あら、舌でも噛んだのかしら」

そう言うのはいつもの養護教論の人ではなかった。

「ふぁの」

空は困ったと眉をひそめた。

「ああ、いつもの人なら今はでてるわ。私はその代わり、というわけでもないのだけど似たようなものだから」

どこか幼顔で華奢なその人はそう言って椅子に腰かけた。

どうぞ。と促されるまま空も向かい合うように座る。

「私の名前は忍谷(しのや)。あなたの名前は、と今のままでは喋れないのよね」

忍谷と名乗る女性はカラーコンタクトをつけていたらしくそれをとってみせる。

左右違う目の色。忍谷という女性はオッドアイだった。

深い蒼に珍しい赤色の瞳。忍谷はその赤色の瞳でじっと空をみつめる。

「肩の力を抜いて、そう。顔は上げて、あなたは喋れる、そう、喋れる――」

だらんと肩から力が抜け目尻が緩み弛んだ瞳で空が忍谷の方を見る。

「質問に答えなさい。あなたの名前は?」

「――私の名前、海埜空」

「空、ね。どこで、どんな怪我をしたのかしら」

「――災害仮想ルームで研修中口の中を切りました」

忍谷は空に口を開けるよう言うと中をみた。

なるほどね。と口を閉じるように言うと空の顎を持ち上げ今度は深い蒼の瞳で空の瞳を見た。

「ふぁれ?」

空が目をぱちくりとさせたか思うと顔をしかめ頬を押さえた。

「今塗り薬をだすから。あと湿布ね」

「は、ふぁい」

状況を理解できてないのか空は何度も部屋の中を見渡した。

「この塗り薬を塗ったら夕食まではなにも口にしないこと」

忍谷がそう忠告して空に塗り薬を手渡す。

「お大事に」

釈然としない、といった表情で空は頭を下げると保健室を後にした。


空が部屋に戻ると準備万端と小夜が手招きする。

「さっきより腫れてるね」

小夜はそういうとバードコールに触れ褐色系の羽を生やし空を包み込んだ。

いつもと違う子守歌のようなヒーリングミュージックと相まってまるで赤子を抱く母のよう。

小夜は歌い上げると優しく微笑んだ。

「ありがとう」

空は思わず頬をさすり舌で軽く口の中の傷口をなぞってみた。

「小夜ちゃんすごいよ」

「ああ、ダメ。今はかさぶたみたいな状態だから喋らない方がいいよ」

小夜はそう言うと空の横に移動し足を伸ばした。

「私、今まで『ヒーリング』のことちょっと勘違いしてたんだよね。ヒーリングは癒すこと、でも人にとって『癒して欲しい』ものは違うんだよね。切り傷に打撲、おんなじ薬では治らない。ヒーリングもそうだったんだ、その人その傷に合った曲を歌えばもっと効果が高まる、て夏休み中妹に『え?お姉ちゃん一曲しか持ち歌ないの?路上ライブよりすくないとか』て言われて気づいたんだけどね」

じっと小夜の方をみつめて話を聞いていた空がふと視線を先の方に向けるとCDが散らばっていた。

「あぁ、みなかったことにして。努力してるんだなぁ、とかそういうの恥ずかしいから」

空は笑顔でうなずいた。

研修が一番で終わったこともあって午後は半ば自習時間のようで空は一般教養を復習していたが来る睡魔に勝てず寝落ちしてしまっていた。

寝落ちに気が付いた小夜が布団を敷き空を移し一時間ほど経ったときのこと、誰かがノックをしてくる音が部屋に響く。

それに気が付いたのは小夜ではなく空だった。

「あ、ごめん。出ようか?」

ヘッドフォンを外して小夜がいう。

ううん。と軽い欠伸をして空が「どちらさまですか?」と少々気の抜けた声を飛ばす。

「わたくしですわ」

「雅弓ちゃん?どうかしたの?」

「あら、もう傷の方はよくなったのね」

空はそう言われて頬を触り舌で傷口をなぞる。

「うん、喋る分には大丈夫そう。小夜ちゃんと忍谷さんのおかげかな」

「忍谷さん?」と雅弓が首をかしげる。

「養護教論に代わって塗り薬をくれた人みたい」

顔をのぞかせた小夜が空に代わり答えた。

それで。と空が話を戻す。

「雅弓ちゃんはどうしたの?」

「ああ、御夕飯前にお風呂でもどうかしらと思って。先ほどの反省会も兼ねて」

「わかった。ちょっと待っててね」

空たちは夕風を受けながら渡り廊下を抜け共同風呂場へ。

沸いたばかりなので一番風呂だった。

『はふぅ』と青空の絵を背に空たちは息を漏らす。

しばらく黙って腕を伸ばしたり足を伸ばしていたが小夜が口を開いた。

「ねえ、さっきみたいなこと本当に起きるのかな」

空と雅弓が小夜の方を向いた。

「さっきの、て、もしかしてテロによる二次災害のこと?」

うん。とどことなく元気がない小夜がいう。

「国外に目を向ければ紛争が続いている地域はありますし国内でそういったことが起きないという保証はありませんわね。でも、それは自然災害もそうではなくて?地震や台風のような自然災害から火災や交通災害といった人為災害。どれも起きないという保証はない、だからこそ『想定』をして動き考え最小限の被害に止めようとする、そうではなくて?」

「うん、わかってるんだけど――」

小夜が顎のあたりまでお湯につかる。

「怖いんだね」

空が手先をいじりながら言った。

「私もさっきの研修で怖いと思ったんだ。なにが怖いって人の悪意――ううん、悪意はないのかもしれないけどそれで簡単に災害が起きちゃうことが。それに『人』という明確に目に見える脅威がいることも」

空がそう言い切ると雅弓も小夜も黙りこくる。

皺ができてきた手をみつめていた雅弓が手を握りしめ立ち上がった。

「――負けません。地震雷火事親父、上等ですわ」

雅弓の宣言を聞いた小夜が笑った。

「雅弓ちゃんアナログ」

な。と雅弓が目を吊り上げる。

「確かに。私の地元でも使わないな」

雅弓の顔が途端に赤くなったかと思うとさっと風呂から出た。

「あ、雅弓ちゃんごめんって」

「別に怒ってなどないです。アナログな人間はこのようなことでは怒らなくてよ」

雅弓を追いかけるように空と小夜も風呂から上がる。

はい。と空がプリン味の牛乳を雅弓に手渡す。

「もう、本当に怒ってなどないのに。それに食事前に甘いものは」

「わかってるよ。けど、小夜ちゃんが乾杯しようって」

そういうことでしたら。と雅弓が瓶を受け取る。

乾杯。と交わした所で雅弓はグッと腰に手を当て一気に飲み干した。

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