第63話 百色眼鏡の散光2-⑵
「飛田君、君にお礼が言いたいという女性が来てるんだが、おぼえはあるかい」
例によって筆が鈍り、腹ごしらえもかねて外に出ようかと思っていた流介は来客と言う珍しい事態に「え、あ、はあ」と間の抜けた声で応じた。
よれた襟を正して戸口に向かった流介は、見覚えのある美女の登場に背筋がすっと伸びるのを意識した。
「お忙しいところ、押しかけてしまってすみません。昨日のお礼が言いたくて」
編集部の入り口に立っていたのは、先日宝来町で狐面の男に絡まれていた美鈴だった。
色味に乏しい編集部と銘仙の美女のちぐはぐな取り合わせに気後れしつつ、流介は「いや、わざわざそんな。僕が助けたわけでもなし、どうかお気遣いなく」としどろもどろに返した。
「これ、弥生町の菓子屋で買ったものですが、よかったらお納めください」
「あ、ど、どうも」
押し問答をするのも無粋なので、流介は美鈴の差し出す包みを受け取り頭を下げた。
「ええと、その後はおかしなことはおきていませんか」
「おかげさまで。……あっ、それ」
美鈴の目は、流介のポケットからはみ出した『百色眼鏡』に注がれていた。
「あ、これですか。ちょっとした成り行きで預かることになったもので……一種の玩具です」
「素敵。『百色眼鏡』ですね?」
「よくご存じですね。僕もこういう玩具があるということをつい最近、知ったのですが」
「あ、はい。たまたま以前から知っていて時々、楽しんでいた物で……」
「そうだ、お礼されるばかりでは気が引けてしまう。これから蕎麦でも食べに行こうと思うのですが、昼飯をおごらせてもらませんか」
流介がふと思いついた誘いを口にすると、美鈴は困ったような笑みを浮かべつつ「それではお礼に来た意味がありませんわ。……でも、お昼をご一緒してくださるというのなら、行きます」と返した。
「ええと……ではまあ、それでいいです。今、支度をしますので少々お待ちを」
流介はなんだか提案の理由がどこかへいってしまったなと思いつつ、外出の支度を始めた。
※
腹ごしらえすべく『梁泉』の入り口を潜った流介と美鈴は、女将のウメに促されるままごく自然に座敷席に腰を据えた。
「蕎麦はよく食べられるんですか?」
「はい。子供の頃も、尾樽にいた時もよく食べました」
「尾樽にいらっしゃったんですか……あそこも鉄道が敷かれて海運業の倉庫ができたりと商都になりつつあるみたいですね」
「そうですね。ただ同じ商都でも匣館とはやっぱり少し違います。空の色や海の音も……」
美鈴はそういうと、ふと遠くを見るまなざしになった。子供の頃に聞いた波の音を懐かしんでいるのかもしれない。そんなことを想像していると、『梁泉』の女将である浅賀ウメが座敷に姿を現した。
「飛田様、今日は少々、変わったお蕎麦もございますよ」
ウメの言葉に流介は思わず「ほう」と身を乗り出した。
「最近来た瀬黒さんという職人が考えたお蕎麦なんですが、あたくしが思いつかないようなお蕎麦をこしらえてくれます」
「……と、いうと?」
「暖かいお蕎麦の上に、煮しめた身欠き鰊を乗せたものです。なんでも江差の豪商のお屋敷で覚え、尾樽でかつぎ蕎麦屋を営んでいた時に完成させたそうです。似た物を京都で召し上がったというお客様もいます」
「へえ、蕎麦と鰊とはまた、港町らしくて粋ですね。……じゃあせっかくだからそいつを」
「じゃあ、私も飛田さんと同じ物を」
「新しいお品なのでいつもよりほんの少しお時間いただきます」
「構いませんよ。ちょうど考えることが色々あるので」
「子供の玩具ではございますが、これでも見てお過ごしくださいな」
そう言ってウメが差し出したのはなんと、流介が預かっている物より一回り小さな『百色眼鏡』だった。
「やあ、ここでも『百色眼鏡』と出会うとは。実は先日、同じ物を預かったばかりなんですよ。こんな小さな覗きからくりで、昼間から夢を見られるとは」
「仕組みは得戸の世からある物だそうですわ。先ほど説明した瀬黒さんという職人さんが、街はずれの『幻燈劇場』っていう見世物小屋の隣にあるからくり玩具屋で手に入れたそうです」
「からくり玩具屋?」
「はい。天狗屋という小さな露店だそうです」
「ははあ、名前からすると真村さんのお店だな。面白い物に興味があるんですね、その職人さんは」
「あたくしも覗いてみましたが、あまりの美しさにしばし時を忘れて見入ってしまいます」
「こんな小さい物でもねえ……森井さん、覗いてみますか?」
流介が促すと、美鈴は「いいんですか?」と言って『百色眼鏡』を受け取った。
「ではできたらお運びしますので少々、お待ちください」
ウメが姿を消すと、美鈴は無言で『百色眼鏡』を覗き始めた。
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