第61話 百色眼鏡の散光1-⑷
「人の名前かな。なんだか穏やかじゃなさそうだが、主は何て答えたんだい?」
「知らないな、の一点張りですよ。そしたら「ちょっと来い」と言って客の男が仕事中の主を屋台の外に連れだしてしまったんです」
「へえ、そりゃ困ったことになったな」
「空の屋台で気もそぞろに蕎麦を啜っていた僕は、とうとうこらえ切れなくなって消えた二人の様子を探りに行ったんです」
「二人はいたのかい?」
「暗くてはっきりとは見えませんでしたが、言い争う声と「うっ」という呻き声がしたので駆け付けました。すると裾をまくって駆けてゆく後ろ姿と、頭を押さえて地面に倒れ込んでいる蕎麦屋の主が見えたんです」
「むう、そいつはいけないな」
宗吉の話が穏やかならぬ方向に進みつつあることに気づいた流介は、思わず身を乗り出した。
「僕は逃げた男のことより主の容体が気になり、誰か力を貸してくれそうな人を探し始めました。幸い、近くを通りがかった人が医者を呼んでくれることになり、僕は主に「安心して下さい、もうすぐ医者が来ます」と声をかけました」
流介はほっとしつつ、はてこの話はどういう形に落ち着くのだろうと首を捻った。
「僕はこれ以上できることはないと思い、医者が来たら一旦立ち去ろうと思いました。もちろん、蕎麦の代金を置いてです。すると主が急に目を開け僕に「あんた、すまないがこれを『ゴメダユウ』と言う女に渡してくれないか」と言ってた小さな筒を差し出しんです」
「筒?」
「ええ。しかも『ゴメダユウ』なんて初めて聞く名です。怪我人と押し問答するわけにもいかないので受け取りましたが、内心じゃ質問攻めにしたい気持ちで一杯でした」
「随分と無茶な頼みだね、それは。大事に至らなければ丁重に断って返したほうがいいと思うな」
「実は、そのつもりで翌日屋台のあった通りを訪ねてみたんです」
「で、うまく主と会えたのかい?それとも思いのほか傷が深くて伏せっていたとか」
「それが……その辺の人に片っ端から蕎麦屋のことを聞いてみたんですが、どうも石か何かで頭を強く打ったらしく前の晩に亡くなっていたと言うのです」
「なんと……では断ることもできずじまいか」
「はい……それで途方にくれて、たまたま届け物があって布由さんの所を訪ねた折につい、その話をしてしまったんです」
「君も相変わらず粗忽だな。呆れられただろう」
「お察しの通りです。まず夜鷹が何かを聞かれたので、説明しました」
「その時点でもう迂闊だろう宗吉君、蕎麦の話だけにしておけばいい物を」
「はあ、その通りで。布由さんからいつもの口調で「衛生の点からもあまりよい商売とは思えません」となぜか僕がお説教をされました」
「そりゃあ彼女ならそう言うだろう。衛生は布由さんが最も深く関心を持っている分野だ」
「それで、なんとか主を介抱したところまで話したのですが……」
「そもそも、怪し気な場所に行ったことで呆れられたという訳だ」
「ええ。蕎麦を食べただけではなく女を買ったのではないかと思われたのか、それきり口を利いてもらえなくなりました」
「ううむ、気の毒だがそれは自業自得という物だよ宗吉君。ではその『筒』というのはまだ、君の手元にあるんだね?」
「はい、あります……ええと、こいつです」
宗吉はあらかじめ用意してあったのか、袂から細長い箱を取り出すと蓋を開け中を見せた。
「ほう……綺麗な物だね。なんだろう」
手渡された『筒』は、長さ三、四尺ほどの竹筒を小さくしたような筒だった。周囲にはぐるりと赤い千代紙が貼られており子供の玩具のようにも見えた。
「あっ、なんだか覗き穴のような物があるな。望遠鏡にしては小さいが……どれ」
流介はそう言うと筒を望遠鏡のように持ち、筒の『蓋』にある穴を覗きこんだ。
「うわ、なんだこれは。夢を見てるようだ」
覗き穴から見えたものは、丸い窓の中を広がったりしぼんだりする色紙の屑だった。
「これはなんだい、宗吉君」
「調べて見たところ、『百色眼鏡』とか『更紗眼鏡』とか呼ばれる一種の玩具のようです」
「やはり玩具か。それにしても綺麗な物だなあ」
「元々は外国から来たもののようで、得戸時代にはすでにあったようです。主がなぜそれを僕に託したのかは皆目わかりませんが」
「まずは主が言ったという『ゴメダユウ』なる人物がわからなければどうしようもないな」
「そうなんです。参ったな……」
「ようするに、僕に打ち明けたのは僕を通して天馬君に謎の相談をしてみてくれってことだろう?僕もそう思うよ。下手人のことは兵吉さんにでも頼んでおくのがいい」
「じゃあ『ゴメダユウ』のことは飛田さんが調べてくれるんですね?」
「まあ、約束はできないが仕方なかろう。とりあえず天馬君を探してみるよ。僕の頭には荷が重すぎるからね」
「ああ、よかった」
「兵吉さんには君から事情を打ち明けて頼んでもらってくれないか。僕は今、取り組んでる短い記事が片付き次第、天馬君を探しに行くよ」
「そうしてくれると助かります」
すっかり自分に頼り切っている宗吉を見て流介が少しだけほっとした、その時だった。
「一体何が良かったんです若旦那」
突然、横合いから声がして薬局の店員である平井戸亜蘭が土蔵の中に入ってきた。
「亜蘭君……いつからそこにいたんだい」
「ついさっきです。せんじ薬ができたら呼べって言ったのは若旦那じゃないですか……ねえ飛田さん、何の話をなさってたの?」
「いやまあ、別に……それより立ち聞きとは趣味が悪いぞ、亜蘭君」
「あら、大の男が聞かれて困る話をこそこそする方がよっぽど悪趣味ですわ」
亜蘭はしれっとした顔で言うと、流介に「飛田さん、それ見せて頂いてもいいかしら」と身を乗り出した。
「残念だが、こいつは預かりものなんだ」
「なによ、飛田さんのけち」
「とにかく、詳しいことは宗吉君からでも聞いてくれないか。じゃ、僕はこれで」
「あ、待って飛田さん」
流介は追いすがろうとする亜蘭を振り切って土蔵を出た。亜蘭はいい娘だが、殺人が絡むような事件に関わらせるわけにはいかない。そうでなくても彼女の好奇心はただ事ではないのだ。うっかり一枚かませたら、どんな危ないことに首を突っ込むかわかった物ではない。
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