第60話 百色眼鏡の散光1-⑶


「まいった、すっかり布由さんに嫌われてしまった。いやはや僕としたことが……」


 薬局の隣に建つ土蔵の中で、石水宗吉は頭を抱えてしきりに泣き言を漏らした。


 布由というのは宗吉の想い人で、女性には珍しく医学を志す人物だった。


「何があったのかしらないが、いつにもまして重病人のようだ。大丈夫かい宗吉君」


 すっかり萎れている宗吉を前に、流介は呆れつつどうにか元気づけようと言葉を重ねた。


「ああ、言わなきゃいいのにまた余計な事を言ってしまった。あれでは嫌われて当然だ」


「宗吉君、まだ嫌われたと決まったわけじゃないのだろう?よほどのことを言うかするかしない限り、あの布由さんが口を利かないなんてことはないと思うぞ」


「なにもしちゃあいないですよ。むしろ、人を助けようとしてたくらいで……」


「人を助けようとした?」


「ええ。順を追って話しますと、そもそもは蕎麦が食いたかっただけなんですよ」


「蕎麦ならその辺で食べられるじゃないか」


「それがほら、こんな『猟奇新聞』なんてのをやってるものだから、些細な巷の噂がどうしても耳に入ってしまって」


「蕎麦の噂かい?」


「まあ……街の外れに夜の九時くらいから、宝来町の外れで『夜鷹そば』を売りに来る屋台があるという噂を聞きまして。なんでも半吉という元々は尾樽にいた蕎麦職人が、大層うまい蕎麦を出すとか……」


「夜鷹そばというのは?」


「僕も親父から聞いたんですが、その……ええとですね、夜鷹と言うのは得戸の世にいた私娼のことです。遊郭ではなく夜、路上で客を引くので夜鷹と呼ばれたそうです。で、その私娼たちに食事を提供していた屋台の蕎麦屋が夜鷹そばというわけです」


「この辺りにそんな場所があったんですか。街娼など見たこともないがなあ」


「昔からいたわけじゃなく、最近、現れたんだそうです。そもそも夜鷹というのは年齢がかさんだり病気になったりして妓楼にいられなくなった遊女が多いそうですから、いたとしたらどこかよそで食い詰めて集団で流れてきたんじゃないかと思います」


「ふうん……しかしそんな怪しい場所に出向いていったと言うことは、よほどその蕎麦が評判だったんだな」


「そうなんです。その夜鷹は黒い頭巾を被っていて、近隣じゃ『鵺』なんて呼ばれてるらしいんです。しかし怖いもの見たさと蕎麦への執着が高じて……」


「君、まさかその顛末を全部、布由さんに話したのではあるまいね。不用意に過ぎるぞ」


「はあ、よくおわかりで。恥ずかしながらその通りです」


「馬鹿だなあ。そんな所へ行った話をご婦人にしたら嫌がられるに決まってるじゃないか」


「そうなんです。生まれつき鈍感なもので、どうもそこに思い至りませんでした」


「どうしてそんな話を布由さんにしようと思ったんだ?布由さんも蕎麦が好きなのかい?」


「実は蕎麦を食った後、ちょっとした荒事と言うかもめ事に巻き込まれ、なかなかの事件だったので家を訪ねた際にうっかり話してしまったのです」


「もめ事だって?君が他人のもめ事に首を突っ込むなんて珍しいじゃないか」


「突っ込むつもりなどなかったのです。噂の蕎麦屋らしき屋台を見つけ、若い無口な主に夜鷹のことなどを聞こうとしていたら突然、暗い目をした男が無作法に僕の隣に座って……」


「酔っ払いかい?喧嘩でも売り始めたのかな」


「いや、そうじゃなく僕を無視していきなり主に謎の言葉を投げかけたんです」


「謎の言葉?」


「はい。今でもはっきり覚えています。縁台に座るなり男はこう言ったんです「やっと見つけたぜ半。お前さん、『ゴメダユウ』の居場所を知ってるだろう。大人しく教えた方が身のためだぞ」と」


「ゴメダユウ?」


 流介は突然、飛びだした謎の言葉に首を傾げた。

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