第59話 百色眼鏡の散光1-⑵


「あの、陽も傾いてきましたし、このあたりでいいです」


 姿見坂を過ぎ、幸坂にさしかかったあたりで美鈴が遠慮がちに流介に言った。


「入船はもうそこですけど、家まではまだあるんですか?」


「いえ、千歳坂を過ぎてすぐのところですけど、なんだか申し訳なくて」


「お嫌でなければ玄関の手前までお送りします。それとも家を知られるのは困りますか」


「そんなことはないです、じゃあお言葉に甘えて……」


 言葉通り、千歳坂を過ぎて少し歩いたところで美鈴は足を止めて「この建物です」と言った。こじんまりした和風建築の平屋は、長屋を思わせる二軒続きの建物だった。


「あら、美鈴さん。今日はお早いお帰りですね」


 突然、引き戸を開けて姿を見せたのは四十代と思しき前掛けをした女性だった。


「ただいま、茅さん。こちらの飛田さんが、近頃は物騒だからって谷地頭からここまで送ってくださったんです」


「まあ、それはそれは」


「はじめまして、『匣新聞』で記者をしている飛田と言います」


「記者さんですか。まあお珍しい。私は四十物茅あいものかやと申します。美鈴さんにお貸ししているこの家の大家です」


「大家さんですか。ずいぶんと大きなお家ですが、もとは商いかなにかをやっておられたのですか?」


 流介が尋ねると、茅と言う女性はくすくすと笑って「今もやっておりますよ、あっちの別棟の方で」と、繋がっているもう一軒の家屋を指で示した。玄関が見える場所まで行ってみると、なるほど軒から『乾物ちとせ』と記されたのれんが下がっているのが見えた。


「ああ、やっぱり。なんだか商家風のたたずまいだと思いました」


「乾物など海の物を主に扱っています。小さいですが食事をする場所もございますよ。……そうだ、ここまで御足労いただいたお礼に数の子でも持って行ってください」


 茅はそう言い置くと、身を翻して建物の中へ戻っていった。


「あ、どうぞお気遣いなく……まいったな、押し問答をするのも無粋だし」


「うふふ、ここの物は何でもおいしいんですの。どうぞ持って帰ってお握りにでも入れて下さいな」


 美鈴にそう勧められ、なし崩し的に「すみません、そう言うつもりじゃなかったんですが」と頭を下げていると、ほどなくして茅が煮しめた数の子を持って姿を現した。


「さほど日持ちはしませんので、お早目にお召し上がりください」


「やあ、すみません。では遠慮なく」


「それじゃ飛田さん、今日はありがとございました」


 美鈴と茅に頭を下げられ、なんだか自分が来客になったような気分になりながら流介は二人の女性と風情のある家屋に別れを告げた。


               ※


「そいつは最近この辺りをうろつき出した女衒だな。追い払おうとすると牙を剥くことがあるから『蝮』って呼ばれてるよ。まだ大きな事件を起こしたことはないが、みんな気味悪がってる。まあ大方よそで何かやらかして流れてきたんだろうけどね」


 流介から宝来町での一件を聞いた先輩の笠原升三は、ううむと唸った後でそう漏らした。


「そんな奴がいるんですね。匣館も物騒になってきたなあ」


「いやいや、危ないのはそいつくらいのものだろう。花街だからと言って何もすべてが怪しいわけじゃない」


「それはそうでしょう。でも森井さんはどうして、女性一人でそんな所に行ったのかな……」


「近頃の女性は考え方が先進的だからなあ。文学や芸術に夢中になる人もいるようだし」


 升三は感心したように言うと「まあ、怪しい人間と出くわすのも経験の一つだ。それで記事の一つも書ければ儲けものだよ」と無責任な言葉をつけ加えた。


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