第58話  百色眼鏡の散光1-⑴


 赤、青、黄色、緑……


 まばゆい光の中を、さまざまな色の欠片が真ん中から外へ、外から真ん中へと動いてゆく、時には星、時には雪の結晶のような形が現れては消えてゆく。


 ――ああ、この『百色眼鏡』の中を覗いている時だけ、あたしはこの囚われの部屋から抜け出し夢の世界を飛び回るのだ。


 あたしは夢の世界を覗くのを止め、虫籠のような二階の窓から通りを見下ろした。

 愛想を顔に貼り付けた客引きや、女を品定めに来る旦那衆の姿しか見えない通りだ。


 ――もしここを出ることなく命が尽きたら、窓の外を飛んで行くあの海鳥になりたい。


 あたしは『百色眼鏡』をしまうと、人に聞かれぬようそっと海鳥の鳴き声を真似た。


                ※


「ふう、もう夕方か。やれやれ、遅くなってしまった」


 匣館新聞の駆け出し記者で猟奇読物を書いている飛田流介は、海岸沿いに住む知人の家から弥生町の自宅に戻るべくたそがれの道を急いでいた。


 ――もう少し先まで行けば安奈君の酒屋のはずだが、さすがにこの時間では店もやっていないだろう。


 見知った一角には違いなくとも、薄闇の中を急ぐ気分は心もとないの一語に尽きた。


「猟奇読物を書いている身としては、夜道ごときにひるんではならぬ……のだが」


 流介が己を鼓舞するようにぶつぶつ独り言を言い始めた、その時だった。暮色が濃くなり出した通りの脇で、男女と思われる人影が言い争っている様子が目に飛び込んできた。


「外国人の秘書だと?前に会った時はあんた、確か……」


「人違いです。声を出して人を呼びますよ」


「呼んだらいいさ。助けに来る前にあんたをおとなしくさせてやる」


 ――あの人は……


 頭巾に狐の面と言う気味の悪いいでたちの男に腕を掴まれていたのは、以前取材に協力

「――森井さん?」


 流介が思いきって声をかけると女性がはっと顔を上げ、面の男が舌打ちするのが聞こえた。


「あっ、あなたは……」


「匣館新聞の飛田です。もう日が暮れますよ、一人歩きは危険です」


 流介が聞こえよがしの大声で言うと、面の男は「今日はここまでだ」と吐き捨てるように言って身を翻した。


 流介が鼓動の早まりを宥めつつ「やあ、お取込み中でしたか」とわざととぼけた口調で言うと、女性は「助かりました。実はあの男にしつこく口説かれて……」と礼を口にした。


「路上でいきなり口説くとは、実に不埒な男ですね。知らない顔なのでしょう?」


「いえ、ちょっと過去に会ったことのある男です。でも親しいわけではありません」


 女性は息を整えると、顔を上げて流介をまっすぐに見据えた。


「ご無沙汰しています、飛田さん。ハウル社で社長の秘書をしていた森井美鈴です」


「ああ、やっぱりあの時の秘書さんか」


 流介はそう言うと、記憶の隅に残っていた美しい面影と目の前女性を重ね合わせた。


 あさり坂の肉鍋屋で会った時はウィルソン氏の部下として現れたせいか洋装だったが、今の美鈴はすっきりと上品な柄の銘仙だった。

 

 ――あの時は事件の聞き込みでとりこんでいたので気づかなかったが、相当な美女だ。


 流介は品のよさと頭の良さを同時に感じさせる美鈴に、こんな田舎にも美と知性を兼ね備えた女性がいるのだなと感心した。


「お仕事で来られたんですか?」


 流介は僅かな違和感を覚えつつ、美鈴に尋ねた。別段、地理的に不思議な場所ではない。ウィルソンの会社は舟見町の方だが、以前、話を聞いた場所はここよりほど近いあさり坂だったのだ。


 だが、と流介は思った。


 このあたりは家も店も少ない。商売といえば妓楼で働く人々のための店ぐらいだ。


「仕事ではありません。ウィルソンさんの会社は辞めていて、今は仕事をお休みしています」


「そうなんですか、どちらにせよこのくらいの時刻になったら不埒な者が現れないとも限りません。気をつけて下さい」


「はい、ありがとうございます」


「それにしてもあいつ、どういう男なんでしょうね」


「この辺りでのさばっている女衒の一人だと思います」


「女衒?女衒が森井さんのような身なりのしっかりした女性を狙うのですか。

この街も危なくなった物だなあ。……とにかく、お宅まで送って行きますよ」


 流介が申し出ると、美鈴は「そんな、家は遠いですから……」と返答を濁した。


「僕の家は弥生町です。森井さんは?」


「入船……弁天の方です。飛田さんよりも遠いです」


「わかりました。では森井さんが安心できそうな所までとしましょう」


 流介が言うと、美鈴は「はい、ではお願いいたします」と遠慮がちに頷いた。


してくれた森井と言う女性だった。

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