第6話 《少女殺人鬼》Ⅱ

 争いは同じレベルの者同士でしか発生しない。

 二頭のカンガルーがボクシングする絵とともによく目にするこの一文。

 同じ人間同士なら体格の差、技術の差、あるいは手段の差はあっても争いが生じる余地は十分あり得る。むしろ弱い者が強い者に追いつけ追い越せと足掻く過程こそが人類普遍の闘争の歴史だ。

 しかし。

 もしそれが人間と津波、人間と落雷といった具合に存在様態のステージ格差が段違いな両者間だったとしたら。

 武道の達人が生涯を賭けた究極の一撃を大津波に向けて放って満足の笑みを浮かべた次の瞬間津波に呑み込まれそのまま海の藻屑と化したら。

 それはドン・キホーテ以下の大馬鹿野郎以外何者でもない。

 射撃の達人が雷を撃ち落とそうと雷雲目掛けて会心の射撃を何発も当てているうちに落雷の直撃喰らって焼死したら。

 それはベンジャミン・フランクリン劣化ヴァージョンの人間生き恥標本として未来永劫保存され語り継がれること間違いなし。

 つまり、少女VS天使とは似通った見た目とは裏腹にそれほどの絶対的な差があるのだ。

 否、それ以上の。




「とはいえ、こうなっても死なないとはさすがの我も予想しなかった。褒めてやる」

「……イラネエ」

 思うように声も出ないわたしは芝生で仰向けに寝かされ、それを油断なく観察する天使。

 四肢切断。

 五体不満足。

 出来の悪い昆虫標本。

 手足の切断面や体のあちこちにつけられた斬撃の傷口からの出血が噴水のように止まらない。

 初っ端から痛覚を遮断しておいてよかった。もし不可視の斬撃をこれほどノーガードで受けていたら許容量以上の痛みで肉体が勝手に死を選択していただろう。とはいえ生命の危険信号が感知できない以上、出血多量でヤバい局面なのは変わりない。どうしたものか。

「しかしわからぬ。貴様あの裏切り者のためになぜそこまで戦える?なぜそこまでいきどおれる?」

「……アイツハ」

 あいつはわたしにとってただの幼なじみ。てめえとどんないざこざがあったか知らねえがあんなひとをコケにした殺し方したうえにわたしもコケにした以上楽に死ねると思うなよこのクソ女絶許ブッ殺。そんなヤクザめいた口上が頭ではすらすら浮かぶも口がまともに動かず声にすらできない。こんな状態で究極魔法【不死の弔鐘】を詠唱することができるのだろうか。詠唱できてようやく大穴狙えるクソいくさ。もしかして勝ち目ゼロ?

 そう訝ると、いつのまにか天使が立ち姿勢から座り姿勢へ。まるで臨終間際の患者を看取るかのような格好で、彼女は語り出す。

「すこし話をしてやろう。貴様の幼馴染とやらがいかに我ら天界の聖民を裏切るという大罪を犯したかを。冥途の土産話くらいにはなるやもしれん」

「……イラネエ」

「あの夜、あの女は我を呼び出し、七年前の契約について話を切り出した。ようやく《百合の季節》の穢れなき魂を天界へ送り届けることができる。そう、天使の我は歓喜した」

 穢れなき魂。あの日の放課後ティータイムの彼女たちを思い出す。お指くちゅくちゅだの下ネタだの語録だので穢れまくっているあいつらが。ぷっ。

「しかし、あの女は予想外のことを言い出した。契約を履行することはできない。損害賠償条項は守るのでそれで勘弁してほしいと。ふざけるな。この七年を我がどれほど待ち望んでいたか。しかし、どれほど詰め寄ってもヤツが発言を撤回することはなかった。最後にはバスケで勝負しようなどとふざけたことを言い出し、ベンチからディープスリー打って入ったら認めてくれと。馬鹿なことを。承諾した。油断した。いくら天使の我をビビらせる正体不明の輩とはいえ所詮人間、そんな物理法則、確率の理を無視した神業ができてたまるものかと」

 そういっていまでも後悔しているかのように深いため息。人間卒業しているもんなあいつ。

「結局ヤツは入れてしまったが、約束は約束。人間との約束を天使が違えるわけにはいかない。それに、損害賠償としてヤツの魂を貰うというのはそう悪い条件ではなかった。貴様のような膨大な光の粒ではないが、とてつもなく強い者の魂というのはそれだけで価値がある。契約の追加書面ではヤツの魂のり方に細かい指定があり、大きく分けて『顔を剥ぐこと』『喉を潰すこと』『心臓を取ること』の三つ。妙だとは思ったが百合聖典の記述にそうした過激な解釈もあり得るからヤツなりの魂の儀式だと思って納得した。承諾した。そして、油断した」

 またか。

「人間には残虐に見える死に方でも当人が納得しているなら魂を届ける天使としては何も言うことがない。しかし、いつまで経っても光の粒は遺体から出てくることも天に昇ることもなく、遺体も消える気配がない。すると、七年前の我と同じく頭のなかに声が響いた。騙された、と」

「ダマサレタ……?」

「あれは天界に魂を送り届ける儀式ではない。天獄に魂を送り届け、新たな魔女を誕生させる反転の儀式、呪いの儀式だ。これを裏切りといわず何を裏切りといおう」

「……ウラギリ」

「裏切り者は殺せ。目には目を。歯には歯を。魔女には魔女を。【迷い猫の秘密基地】で魔女を一匹屠ったのは我らなりの怒りの意思表示。そして扶草菫。貴様はまっとうな人間として死ぬがよい。魂は迷うことなく天使の面子にかけて無事に天界へ送り届ける。運がよければそのまま聖女になれるやもしれぬ。案外天使の使いにも」

 そう途中までいいかけるも口をつぐむと、そっと手をかざそうとする。クソ。躰が言うことをきかねえ。芋虫のように足掻こうとするわたしに、天使は諭すようにいう。

「《少女殺人鬼》。確かに貴様らによってつくられた虚像の虚名に過ぎないが、一面においては我らの本質を見抜いた真名といえなくもない。

【女神の試験】を飛び越えて天界へ魂を送り届ける短縮ショート経路サーキット

【魔女の試練】を飛び越えて天獄へ魂を送り届ける短絡ショート経路サーキット

 しかし、我らは前者を望む。鷲瑞遥は貴様が隔離された箱庭で余生を過ごすことを望んだようだが、人的資源が枯渇しつつあるいま、ひとりでも多くの素質ある少女の魂が天界には必要なのだ。わかってくれ」

 最後はへりくだるように頼み込む天使。やめてくれ。憎めなくなる。さっきまでの傲岸不遜な態度はどこへ行ったんだ。それに、わたしの●●ちゃんを殺したのはなんでなんだよ。

 当然こうした疑問に答えるはずもなく天使の手がかざされる。ああクソ。出血のせいか頭がクラクラして考えがまとまらない。何の無念も晴らさぬままここで終わるのか。

「かくあれかし」

 モーゼの神託を授かったが如き声で紅海が割れるように、海の潮が引くように、わたしの意識もすっと途切れていく────




 死。

 全き死。

 救いなき死。

 紛う方なき死。

 目覚めなき死。

 わたしがそれを確信したのは視覚閾が捉えた絶無の光景だった。

 完全に漂白された無限円環に広がる虚無虚数の空間。

 世界でたったひとりぼっち。

 生きているうちには到底得られない完全な隔絶感、完璧な喪失感がここにはあった。

 わたしは死んだ。

 わたしは死んだんだ。

 おそらくここは死の国に至るまでに通らざるを得ない哀れな亡霊たちの中継地点。

 あるいは仮初めの休憩所。

 もしくは果敢なき保育園。

 前世の魂の肉体を脱ぎ捨てて皆一様に無力な赤子へと生まれ変わり、死という名の母親が迎えにくるまでここで待機するしかない偽りの屍者たち。

 そう。

 それしかない。

 そのはずだった。

 ふとした気まぐれで足元に広がる水たまりの如き小さな鏡面に気づくまでは。

「……わたし?」

 目が痛くなるくらいの純白で統一された世界でただひとつ、異彩を放っていたのは死角となっていた足元。

 そこに映し出されたのはわたしという名の偽りの鏡像。

 否。

 似ているけどちがう。

 百合の咲かない土瀝青女。

 読んで字のごとく青い髪のわたしとよく似た蒼い髪の女性。

 わたしよりずっと年上。

 でも。

 わたしがこれからどれだけ成長しても決して彼女には追いつけない。

 そんな予感があった。

 それほど彼女の見た目はわたしこと扶草菫二十代verの予想図を装いつつも、わたしにとってはアキレスと亀の追いつけなさにも等しい自己理想像の尊さを湛え、かつ、越えられない威厳に満ちあふれていたのだから。

 と。

「はじめまして。いや、おひさしぶり、かな?」

 悪戯っぽく語りかける無邪気な声と同時に、水たまりのごとき小さな鏡面から彼女の手が、顔が、肩が、胴が、脚が、雨後の筍のように遠慮なくにょきにょき生えてきた。

 亡霊特有の無感動さでその様を眺めるわたしに、彼女は笑顔で語りかけてくる。

「うん、やっぱり二回目だね。前回よりボクがずっと躰に馴染んでいるみたいでなにより。魂の強度が段違いなのは●●●のおかげかな?おかげで今回はあの子の手を借りずにあいつとの因縁の決着をつけることができそうだ」

 二回目?

 躰に馴染んでいる?

 ●●●のおかげ?

 わたしの脳内で激しく乱高下する疑問符群。

 どういうこと?

「スミレ」

 え。

 どこか他人行儀めいた響きに自分の名前が呼ばれたことに気づくのが数瞬遅れた。

「ボクはもう行くけどキミはどうする?行くなら手を引いてあげるけど」

 ふるふる。

 頭を振る。

 わたしはもう子どもじゃない。

「……そっか。じゃ、ゆっくりでいいからボクのあとについてきて。大丈夫。キミの進むべき道はこのボクが切り拓いてみせるから」

 そういって悠然と歩む背中は未来の次世代のために道を切り拓く勇者のようで。

 それは遠い過去に見たかすかな記憶とともに浮かぶどこか懐かしい面影でもあって。

 昨日今日だけでもう何度目になるかわからない死と再生の儀式をわたしは乗り越える。




「先生」

「なんじゃ《紅玉の魔女》」

「本当にご存知なかったのですか?あの《少女殺人鬼》の正体が天使だったということを」

「くどい。知っておったらとっくに主らと情報共有しておったわい」

 付け髭が可愛いお爺ちゃん幼女こと《黄金狂の魔女》はその愛らしさに似合わぬ切迫さに顔を歪めていた。口は軽口とため息を吐きつつ目は高速でスクロールする複数のPC画面を追いかけ手はそれぞれの部署から上がって来た緊急報告に指示すべくキーボードを猛スピードで打ち続ける。《紅玉の魔女》もほぼ同じ状態。

「まさか天界が黒幕だったなんて。あまりにも直球ストレートすぎて発想すらなかった」

「気に病むな。儂も外宇宙からの漂着者辺りが相場と決めてかかっておったからの。まさに木を見て森を見ずの典型というか」

「それも含めて計算していたのでしょう。私たちは天界の諜報機関の手のひらの上で踊らされてしまった。今頃奴らのいい酒の肴にでもされているかと思うと」

 口では冷静さを保ちつつも湧き上がる怒りを抑えきれず、「クソ!」とキーボードを叩きつける。

 ストッパー役の《天球の魔女》は別件で呼び出されて不在。

 《死星七姉妹》の実質トップ2が自ら事態解決に乗り出している辺り、情勢はかなり悪い。

 というよりほぼ絶望的。

 《少女殺人鬼》こと天使という天界勢力の手で百合世界の大半が実効支配されてしまった以上、天獄こちらからできることは何もない。扶草菫という百合世界の住民が自らの意思で彼女を排除しない限りは。

 できるのか。少女が天使を退けるなど。それこそ奇跡でも起きない限り無理な所業では。

 このまま百合世界は天界の手に落ちるのか。《魔女》が愛し守りたかった百合世界。

「先生」

「なんじゃ」

「本当ですか。あの女の娘と《少女殺人鬼》との戦いには万に一つ程度の勝機しかない、というのは」

「まあ、それが妥当じゃな」

「でしたら公式書類を改ざんしてでも、我ら《死星七姉妹》が出張るべきでは」

「それこそ天界の思うつぼじゃな」

「先生!」

「確かに儂は万に一つ程度の勝機しかないと言った。しかし」

 そういって幼女は振り返る。

「親は子のためなら万に一つの勝機など造作もなく掴むことじゃろう」

「先生?それはどういう──」

 ドタドタドタドタ。

「ご報告申し上げます!!」

 配下の魔女が凄まじい勢いで飛び込んでくる。それを見透かしていたかのようにお爺ちゃん幼女魔女はさらりと聞き返す。

「扶草菫になにか変化でもあったかの?」

「は、はい!!天使の攻撃で甚大なダメージを負っていたはずでしたが、毀損していたはずの手足はなぜか自己修復し、究極呪文【不死の弔鐘】を詠唱した模様。そして、驚くべきことに」

「魔力の波形が《蒼玉の魔女》のものと一致した、か?」

「は、はい!いま動画ファイルをお送りしますのでご確認ください!」

 そういって一礼すると足早に退室する。

 目を剥き出しにして報告を聞いていた《紅玉の魔女》は着信音と同時に苛立たし気にマウスクリック。

 百合世界はほぼ天使の支配下にあるためありとあらゆる妨害工作がなされており、そんななかで工作員の魔女たちの必死の働きで得た少女と天使の死闘映像は、映像機器黎明期のものといわれても文句のいえないほど解像度の低い代物だった。

 しかし。

 それでも彼女にとっては充分すぎるほどの代物だった。

 これは《魔女》の魔法だ、と。

 彼女の聞きたいことがわかっていたかのように《黄金狂の魔女》は特級の秘匿事項をあっさりと明かす。

「《蒼玉の魔女》が百合世界へ追放された際、魔女の証たる魔鐘を摘出して人工心臓を移植した。百合世界への不干渉不可侵の原則に抵触せぬようにな。その摘出した魔鐘は未来の魔女のために極秘裏に厳重に保存しておいた。つい先刻まで」

「…………!」

 無言で液晶画面に顔を戻し作業に戻るかつての弟子。

 同じく無言で作業に戻りつつ満足げに独りごつ師匠。

「言ったじゃろ?『血の繋がり、というのであれば無きにしも非ずじゃ』と」




 わたしが目覚めた時、すでに形勢は逆転していた。

 否。

 決着がついていた。

 さっきまで五体不満足のわたしを見下ろしていた天使は翼を折られ光輪を失い胸を抉られて芝生に横たわっていた。文字通り地上に墜ちた堕天使のように。

 わたしはその死に際を看取る告解の神父のように傍にいた。

 否。

 わたしではない。おそらくこの心臓の持ち主。【不死の弔鐘】。

 不死の化け物をも斃す究極魔法の発動条件は、呪文の詠唱ではなく魔鐘の鼓動そのものなのだろう。

 血を吐きつつ天使は自嘲気味に笑う。

「……もっと早く気づくべきだったな。心臓を潰されて生きている時点で人としておかしい、と。そしてまさか貴様が我の相手であったとはな。《魔女イア》」

「ボクたちは人間とは似て非なる存在だからね。感覚や認識の齟齬が生じるのは仕方ないさ。《百合天使エル》」

 わたしではない誰かがわたしの顔でにっこり微笑んで返す。《蒼玉の魔女》というのがこの心臓の持ち主か。なんだろう、すごく心地がいい。あのひととは別の意味でこの魔女と繋がりを感じる。生を、魂を、血を、ぬくもりを頂いている感覚。自分でも何を言っているのかわからないけど。

 混濁した思考を知ってか知らずか、天使は死にゆく者の表情でわたしの目を通じてわたしの心臓の持ち主に語りかける。

「因果応報とはこのことか。七年前に貴様の心臓を抉り取った我がいま、我と同じく人間の少女を依り代にした貴様によって心臓を抉られるとは」

「あの時ボクの心臓を抉り取ったのは女神を誅殺しようとした大逆非道の魔女が許せなくて、でしょ?ボクが君の心臓を抉り取ったのは人として、親としての責務を果たしたまでだから」

「人として?親としての責務?貴様、魔女の身でありながら人間に染まったか?」

「君も、でしょ?」

「…………………」

「君が忠実なる女神の僕として天使の責務を果たすのであれば、粛々とこの子の魂を天界に送るだけでよかったはずだ。でも実際の君は心臓を握り潰してこの子を煽るだけで立ち去ったり、かと思えば天使の御業で全人類を消滅させた終末世界でこの子にスローライフを満喫させてあげようとしたりと、まるで一貫性がない。それはまさに鷲瑞遥という人間の気持ちの揺らぎそのものに君自身が揺さぶられたから。ちがう?」

「……裏切り者の小娘に揺さぶられた貴様には言われたくないわ」

「ボクが言わなくて他の誰が君みたいな天使に言うのさ。それに」

 そういってわたしのほっぺをぷう、と膨らませる。かわいいなこの魔女ひと

「小娘じゃなくてマツリだよ。ボクの最愛の恋人ひとの名前なんだから、ちゃんと覚えておいてよね」「気が向いたら、な」

 露悪的ににやりと笑って言い終えるなり、赤黒い喀血とともに激しく咳き込む。天使に気が向くような時などこの先に残されてないのは明らかだった。それでも、わたしのなかの魔女は精一杯いつもの口調で。悪友に明日の昼食メニューどうする?みたいな感じで訊ねる。

「なにか言い残すことはある?あ、鷲瑞遥のほうも」

「ない。先刻書き終えた『作品』があいつの遺言だそうだ」

 「作品」ってあの犬養棗シリーズ?確かノートといっしょにまほしょ公園のベンチの上に置きっぱのはず。誰かに奪られてないよな?

「君は?」

「……ない。ただ」

「ただ?」

「……不思議、だと思う。幼馴染の貴様と袂を分かち、刎頸の友だったはずの貴様が不倶戴天の敵となってたがいに殺し殺され、そして、最後は魔女になった貴様に看取られる。まこと、運命とは神妙不可思議…………」

 声が薄れていく。

 姿かたちも消えていく。

 まるで過去に時間跳躍した影響で消え去る子孫のように。

 天使もまた魔女の手で現世から儚く消え去ろうとする不思議。

 その薄まった旧友の金髪を慈しむように触れたわたしのなかの魔女は、《黄金狂の魔女》のような別れのあいさつで彼女の旅立ちを見送る。

「おやすみ《百合の天使》。いい夢を」

 鼻の奥が塩辛いなにかでつんと沁みたのは内緒だ。


 さて、と。

 目頭をそっとぬぐったわたしのなかの魔女はすう、と肺腑いっぱいに空気を吸い込んで。

「あ・の・さ・あ!」

 唐突に円環状幽霊街のすべてを叩き起こさんばかりの大音声を発する。

「これはあくまで独り言なんだけどさあ!ボクらはもうとっくに亡霊に過ぎないからこれからこの世界を担っていくのは次世代の君たちの役割なんだよね!だからこの子のことよろしく頼んだよ!」

 すう、とさらに息を吸ってさらなる大音声で咆哮する。

 大切な一人娘を託す親の憤懣遣る瀬無い気持混じりに。

「《紫水晶の魔女》オオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 え。マジで。

 ぽん。

 振り返ると脳内イメージの《蒼玉の魔女》がわたしの肩を叩いてものすごくいい笑顔で。

(あとはまかせた☆)

 え。

 親指立てたすごくいい笑顔の見つめるその先には。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド。

「菫ちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんんんんんんんんんんんんんんんんんんん!!!!!!!!!!!!」

 うわ出た。

 上がり最速の勢いそのままにこっちに突っ込んできた冬眠明けのムラサキヒグマもといロリ痴女もとい変態魔女。大雪崩のごとく雪崩れ込んできた彼女を決死隊の覚悟で食い止める。

 うおおおおおおおおおおおおおおおおおお。

 なんとか彼女の突進を食い止められたのは前回と違って手足が欠損することなく復活していたからか。甘えん坊の忠犬ハチ公みたいに視えないしっぽブンブンさせてほっぺすりすりさせてくるのを必死でなだめる。どこでスタンバっていたんだこいつは。

「はうう~ひさしぶりの菫ちゃんが愛おしすぎておねえちゃん百合的に昇天しちゃいそう💛」

「寄るな近づくな触るな舐めるな物理的に昇天させんぞゴラアアアアアアアアアアアアアア」

「もう、菫ちゃんってばツンデレさん💛おねえちゃんがいないあいだ寂しかったんでしょ?」

 イラッ。

 口元にこぶしを当てて目を細めるしぐさ、めっちゃ腹立つ。

 生命の危機に追い回されたあの濃密すぎる時間のどこに寂しい要素があったというのか。

 いまはいまで貞操の危機に追い回されているしいい加減ちゃっちゃと終わらせてほしい。

「……でも、よかったあ」

「ん?」

「菫ちゃんが無事で。いくら《魔女イア》センパイがついているといっても前回の未来線でほとんど瀕死状態だったから。今回もしかするとって思うとおねえちゃん不安と心配でご飯もろくに喉を通らなかったけど、魔女の遵守事項がある以上ただ黙って見守ることしかできなかった。でもでも、さすがに二回目は前回の経験が活きたみたいだね。割とあっさりあの子を止めることができたでしょ?よかったよかった♪」

 いや、わたし四肢引き裂かれたうえに昆虫標本にされたんですけど。

 割とギリギリだったんですけど。

 結果しか見えてないのかこいつ。

 まあ、魔女や天使の感覚や認識は、人間のそれらとは乖離しているから齟齬が生じるってあいつもいってたし。

 と。

 なでなで。

「…………なに?」

「なにって、おねえちゃんからのご褒美だよお!今回も菫ちゃんは体を張って頑張ってくれたからね!痛みに耐えてよく頑張った!感動した!!おめでとう!!!」

「…………………」

 なでなでなでなで。

 魔女のやさしい頭なでは本当に限りなくやさしい。それこそ心も躰も痛かったこと、悲しかったことをどこか遠くへ忘れさせてくれるほどに。そして。

 ぱしっ。

「……菫ちゃん?」

「そういうこと?」

「な、なにが?」

 わたしはそれを許せなかった。

「わたしからすべての記憶を消し去って今回の事をなかったことにするの?」

「」

 押さえつけた魔女の手がぴくりと反応する。

 図星のようだ。

 なにか取り繕うとするもすぐに諦め、降参といわんばかりに両手を上げてため息ひとつ。

「そうか。これは《魔女》の意思じゃないんだよね。菫ちゃんの意思なんだね……」

「あのひとはもういないよ」

 あまり考えたくないことだけど。

 もし《紫水晶の魔女》の正体が天使の語るように幼なじみのあいつだとしたら。

 あいつとわたし。

 わたしとあいつ。

 あまり認めたくないことだけど。

 写し鏡の関係というか、思考が双子のようにシンクロしていると思うことが時々ある。

 わたしの未来にあいつがいなくなるよりはずっといい。

 あいつさえ生きていたらそれでいい。

 この思考の持ち主はあいつとわたしをそっくり入れ替えることができる。

 あいつの願いはわたしの願い。

 わたしの願いはあいつの願い。

 そんな思考に入り込んでいるわたしに、魔女は気分転換を提案する。

「菫ちゃん」

「なに?」

「ブランコに乗ろっか。久々に童心にかえってさ」

 そういって彼女は赤錆だらけで廃棄寸前の児童用遊具を指さした。

 月明かりに照らされた横顔には《紫水晶の魔女》ではないあいつの面影が宿っていた。


 きいこ、きいこ。

 赤錆の汚れと鉄鎖の軋みも意に介さず深夜の公園でブランコに乗る少女と魔女。

 後世の宗教画家だったらこの奇妙な光景に対してどんな題名をつけるのだろう。

 どう言ったものか、という逡巡の意を込めた間を持たせてから魔女は切り出す。

「……菫ちゃん」

「なに?」

「これは、おねえちゃんの知り合いの女の子の話なんだけど」

 絶対自分のことだ。

 いちいち突っ込んでいたら話が続かないので、先を促す。

「うん。それで?」

「その子はね、生まれた時から自分が他のすべてにおいて卓越して恵まれている女の子であるかを知っていたんだ。多分、天界の聖女に転生するため【女神の試験】の最終段階の魂の持ち主だったんじゃないかなって。頭はよくてスポーツもできて顔もよくて誰からも愛されていた女の子。未来視の能力がなくても彼女はこのまま完璧で無敵な人生を歩むことは容易に想像できた。もちろんわた、その子も人間である以上、そんなすべてが計算され尽くした最適解だけの人生のどこが面白いの?という疑問もなくもなかった。ただ、現実では最適解どころか計算すらままならない不幸な人間で満ちあふれていた。そんな疑問を持つこと自体が持てる者の贅沢な悩みに思えてしまい、やがて忘れていった。そんな風に人生を悟った錯覚に陥ったのが、幼稚園に入ったときのこと。でも」

「でも?」

「人生も世界もそんな単純明快に割り切れるものじゃない。そんな悟りめいた錯覚を頭からぶっ飛ばしてくれたのが《少女殺人鬼》との出会い。そして」

 そういって人差し指をわたしの心臓を射抜くように構えていう。

「菫ちゃん。きみとの出会い」

「……わたし?」

 魔女は興に乗ったようにブランコも勢いに乗せて熱くこぎながら熱く語る。

「《少女殺人鬼》こと天使はおそらくなんらかのイレギュラーで天界から追放されて人間の魂と融合したものだと思う。だから標的が少女に偏ったり無作為に狩ったりと天使らしからぬ人間らしい欲望に寄せた行動になってしまった。天界に送られた魂も大半が廃棄処分になったと思う。悲しいことだけど。そんな天使との出会いで彼女がまず第一に考えたことは、この真穂百合の街では犠牲者の少女を一人もだしてはならないということ。すべてにおいて恵まれたわた、彼女が自分を慕う子たちを、魂を天界に送るなんてそんな実質詐欺広告のために死なせるわけにはいかない。そのためにとっさについた嘘が《百合の季節》計画。あの時点で自分が思春期になれば百合重婚もやむなしの大勢の少女たちから慕われる立場になるであろうことは明白だったから。それを織り込んでの嘘。もちろん契約には損害賠償条項もつけるから、後から不履行にすれば嘘に少量の真実を混ぜた作戦に変わりはなし。それよりも」

 彼女に合わせてわたしも勢いをつけてブランコをこいでいると、なぜか負けじとさらに大きく加速。やはり負けず嫌いなのは変わらないのか。

「彼女にとっては菫ちゃんとの出会いのほうが衝撃的だった。何も映していないビー玉のような虚ろな目。何も語らない次元の割れ目のような虚ろな口。誰ともつながれない、ひととして大切ななにかが欠けた女の子。つまり、百合の咲かない土瀝青女」

 振り子の原理で大きく揺さぶられながら、まっすぐわたしの目を見る魔女。

「そんな彼女をわたし、もとい、彼女はどうにかしたかった。変えてみせたかった。そう、自分の手で百合の花を咲かせたかったんだと思う」

「……そうだったの?」

「その子が、ね。彼女ははじめ愛をあたえたらすべて解決すると思ったみたい。『百合聖典』では隣人愛について説かれていたし、育児本でも母親の愛情が大事みたいなこと書いているし。彼女にとって他の子たちに愛をあたえ、その返礼のように慕われることは朝のあいさつよりも身近で当たり前なことだった。でも、あの子にはそれが通じなかった。いくら愛情という水を如雨露で注いでも彼女の土壌は吸い込むのではなく、自分とは関係ないものとして弾いてしまう。土壌ではない、防水加工完備な土瀝青女。他の子たちといっしょに遊んだり、お買い物に行ったり、おでかけしたり、それこそ嫉妬深い子からはやきもちを焼かれるくらいに構ってみた。でも、何の成果も得られなかった。自分でもなぜここまであの子に執着してしまうのか不思議なくらいだった。そんなある日のこと」

 一回転しそうなくらい激しかったブランコ運動が徐々に減速する。魔女は靴をブレーキにして下の地面をこすりブランコ飛行機は完全にとまる。着陸成功。彼女は口調をあらためて子どもに昔話を読み聞かせする保育士さんのように語る。

「彼女はあの子を自宅にお招きしました。たしかあの日は他の子たちの都合が悪く、来られたのはあの子ひとりでした。会話が無くてもある程度の意思疎通ができるくらいになった彼女は、読書やゲームなどをいっしょにたのしんでいるうちに空腹になり、その日読んだ百合漫画に出てきたフレンチトーストをつくることにしました。彼女はこの年ですでに辛いものや苦いものなど劇物系を好みとした変わった子でしたが甘いものが苦手というわけでもなく、また、あわよくば菫ちゃんの好きなたべものでもっと心を開いてもらいたいという下心もありましたので、それに決めました。泡立て器で卵液を混ぜ合わせる作業は菫ちゃんに、わた、彼女はパンを切ってフライパンで焼く作業を担当。子ども特有の微笑ましい共同作業でできあがったフレンチトースト。自分たちの手作りのおやつを自分たちでいただくというのは子ども心にワクワクする、ほんとうに心が弾むものです。彼女も目を細めて頬をゆるめて自分の作った甘味を堪能しつつ、ふと菫ちゃんのほうを見ました。するとなんということでしょう」

「え。まずくて吐き出したりしたの?おかしいな、あの時はたしかおいしかった気が」

 毎度KYなわたしの返事を無視して魔女は熱く語る。劇的ビフォーアフター。

「あの能面人形だったような菫ちゃんのお顔がほにゃっ、と!ほっぺたがとろけるを具現化したようなお顔でほにゃっと!!笑ったんですよ!!!わかりますか!!!?あれが生まれてはじめて幸せで笑う子どもの笑顔ということでしたら、宇宙でもっとも尊い宗教画でしょう。それを見た瞬間、彼女の胸になんとも形容し難い感情のさざ波が、あの百合漫画の名言を引用していえば、そう、もにょっとした気持ちが生まれたのです!」

 そう熱く語って過呼吸になりかけたのか、呼吸を落ち着かせるためにヒッヒッフー、ヒッヒッフー。ラマーズ法か。

「その日から彼女の生きる意味、価値観は百八十度変わりました。愛はあたえるものではなかった。愛は愛するものだったのです」

「パードン?」

「いままで完璧な博愛主義者で完全な聖女に転生する予定だった彼女にとって、愛とは周りの恵まれないひとたちに惜しみなく平等にあたえるものだった。それだけの地位と能力、愛と力を持った彼女には当然すぎるノブレス・オブリージュでした。しかしそうではなかった。真の愛とは、まさに自分そのものをも超えた愛をもってその相手を愛すること」

 彼女はブランコから降りて夜空を見上げる。視線の先には紫色の星が瞬いている。

 過去多くの先人たちが見上げてきた光を殉教者にも似た死の光を見る目を向ける。

「その真理を悟ってしまった彼女には、もう聖女への道を歩むことはできませんでした。歩む道はただひとつ、愛することにきれいごともきたないことも厭わず構わず愛に殉じ全うする全宇宙で唯一の種族、魔女になること。聖女から魔女への華麗なる宗旨替えにも彼女は動揺することなく、自分のいまなすべきことを最短で探り当てました。それが《少女殺人鬼》との契約の追加書面。彼女を裏切ることに何のためらいもありませんでした。彼女の願いはただひとつ、人間でも聖女でもない、魔女という幼なじみを愛することのできる魂の器になって、扶草菫という百合の咲くかもしれない土瀝青女を愛したい、ただそれだけです。以上が私の知っている彼女のすべてです」

 静寂がしん、とたなびく。

 ブランコに乗ったままのわたしとブランコから降りた魔女。

 手が届く距離なのに、天の川でも横たわっているような無限の深闇を感じる。

 少しずつわたしのそばから離れていっているのは気のせいだろうか。

「……ねえ」

「なに?」

「《紫水晶の魔女》はわたしのこと」

「 だ い す き だ よ ! ! ! 」

「…………」

 即答。疑問の余地など一オングストロームたりとて入らぬ完答。

 ならなんで。

「少女と魔女。どっちも経験してみてよくわかったんだ。あまりにもステージが違いすぎる」

「そんな、時代劇の身分差じゃあるまいし」

「似ているよ。予想もしないところから障害が降りかかってくるのが特に。それは菫ちゃんのママもいやというくらい体験したことだと思うよ?」

「…………」

「至近距離で愛するひとと見つめ合うことだけが愛じゃない。手の届かない距離で愛するひとをそっと見守ることもまた愛なんだよ。それが魔女が少女を愛するための、たったひとつの冴えたやりかた」

 イラッ。

 なんだよそれ。

 まるで自分が夜空で輝く紫色の星にでもなったかのようなナルな語り口調。

 わたしの虎の尾を踏んでいることに気づかない魔女はさらに踏みつづける。

「なにより天獄の魔女がこれ以上百合世界に干渉すると天界との衝突危険度、世界改変や記憶改竄といった悪影響がどこまで及ぶのか見当もつかないし。だから」

「……来い」

「恋?」

 ダンッ!

「来い!カモン!カムヒア!!アズスーンアズポシブル!!!」

「は、はいっ!!」

 しゅばばっ。

 ブランコの上で仁王立ちした少女わたしの前にいざ鎌倉とばかりに馳せ参じる魔女。

 ムカつく。ムカ着火ファイアーするくらいムカつく。なんなんだよそれ。

 さっきから手の届かない距離で見守りたいだの百合が咲くのを見てみたいだの、わたしはお前専用の観賞植物じゃないんだよ。

 でも。

「自分の気持ちをはっきり伝えなかったわたしも悪かったのかもしれない」

「菫ちゃん?」

「だからいま、ここではっきり伝える。いい?」

 すうーっ。

「 わ た し は お ま え が す き だ ! ! ! 」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「な、なんかいったらどう?」

 ポロッ。

 えっ。

「な、『なんかいったらどう?』とは言ったけど『泣いたらどう?』と言ったつもりはないよ!?え。これもしかして告白失敗?振られた?わたしに告白されるのそんなにいやだったの?」

 オロオロ。

 完全に予想外の展開にさすがのわたしも慌てふためく。

 しかし。

「ちが、ちがうんだよ菫ちゃん。こんなになるなんて、自分でも思ってなくて」

 あわてて紫のハンカチで涙をぬぐうと、魔女はまるで夢にでも浮かされたのようにいう。

「愛をあたえていたときはどれだけ多くの子たちに愛されても平気だったのに、愛することを知ったいまの私は、たったひとりの女の子に愛されてしまっただけでもう、全然平気じゃなくなっちゃった。胸からあふれ出るこの想い、胸を搔き乱すこの気持ち、そう、これが愛っていうんだなって」

 そういうと、すーはー、すーはー、と深呼吸で気持ちを落ち着かせる。

 わたしは愛に対してそこまで苦しい想い、狂おしいまでの情念が渦巻いたことはない。

 怒りや憎しみだったらいくらでもあるけど。

 《紫水晶の魔女》と歩みをともにしたら、つらい、しんどい、苦しいといった負の感情を禍々しいオーラとともに解き放つ日が来るのだろうか。

「あ」

「どうしたの?」

「紫水晶の指輪持ってくるの忘れちゃった。う~、せっかくこのままの勢いでおねえちゃんの魔法少女になってください!ってサプライズプロポーズして菫ちゃんにベタ惚れさせる作戦が~」

 そんな穴あきチーズみたいな作戦ゴミ箱に捨てろ。

 告白という思春期一大イベントの直後だというのにこの緊張感のなさ。

 まあわたしたちらしいっちゃらしいけど。

「あ」

「今度はなに?」

「菫ちゃん、覚悟はしておいてね」

「なんの?」

「天獄の魔女が百合世界に干渉する以上、世界改変や記憶改竄といった悪影響が予想されるっていったでしょ?その対策のために出張る《死星七姉妹》はじめとするみんなに《紫水晶の魔女》お付きの魔法少女としてちゃんとご挨拶しないと」

「……マジ?」

「マジもマジ、大マジです。まあ《黄金狂魔女》ちゃんはすんなり通ると思うけど、《紅玉の魔女》先輩は激おこぷんぷん丸だから長時間拘束されるんじゃないかな。他にもいろんな魔女がいるけど、まあそこは気合と根性でガンバ!」

 うげえ。

 早くも萎えそう。

 でも。世界がわたしたちを思い通りに動かそうというのなら、わたしたちだって世界を思う存分掻き回したっていい。自由とはそういうことだ。その対価が魔女たちの圧迫面接その他諸々というならよろこんで支払ってみせる。自由を求めるその先に、百合の咲かない土瀝青女が欲していたものがある。そんな気がする。

「菫ちゃん」

「なに?」

「魔法少女の指輪は後日サプライズでプレゼントするとして」

 せんでええ。

「今日はその手付金を支払っちゃうね」

 え。

 すぐ前に紫づくめの魔女のキス待ち顔。

 どうしよう。

 どうしようじゃないが。

 素数、素数を数えるんだってベタやな。なら虚数でも数えるか。

 現実逃避でごった煮してきた脳内からも逃避して星空を見上げる。

 さっきの紫色の星のそばで薄い黄色の星が瞬いているのは気のせいか。

 さっきは紫色の星が《紫水晶の魔女》みたいだったけど違ったのだろうか。

 紫の星の色が菫の花の色だとしたら、薄黄の星の色は何の花の色なのか。

 もしかしたら。

 グキッ。

 閃きそうになった寸前、首の骨をいわすくらいに魔女のほうに無理矢理回転させられる。

 クイッ。

 ハ・ヤ・ク・シ・ロ。

 ……はい。

 いつもはわたしに温和な大型犬のごとくなついている彼女も初めてということでいら立っているのか。初めて牙を見せた。噛みついた。そういえばネカフェで見た男性向け漫画に女に恥をかかせるもんじゃないよ、って粋なお姉さんの台詞があったっけな。

 ……わたしも女なんですけど。

 そもそもうがい手洗い爪切りしなくていいものなのか。さっき先輩からおごってもらった苺ジュースの残り香がキスした瞬間子どもっぽく思われそうだし、天使との死闘で血の味が混じっていたらそれだけで破局しそう。それをいったら最初の夢のなかで血まみれ歯こぼれ傷だらけの口中を可愛い舌で隈なく容赦なく蹂躙した魔女もいたけど、まあそれはともかく。

 こんな煩悩まみれ雑念だらけの頭で人生初の恋愛イベントに臨んでいいのか。座禅だったら速攻で叩き伏せられるレベル。煩悩や欲望と切り離せないとはいえ、ある程度は頭を澄み切らせて臨みたい。そう願いつつ自然に魔女の頬に手をそえる。

「ん……」

 とくん。

 なんだ。

 わたしの胸に湧き上がるさざ波。脳にほとばしる電流。上気。発汗。鼓動。

 これなのか。

 これが、あいつがいった「もにょっとした気持ち」なのか。

 わからない。

 ただ、わかるのは。

「ん……」

 わたしもあいつと同じ声にならない声を発し。

 わたしもあいつと同じキス待ち顔をしていて。

 どうしようもなく引き寄せられているということ。

 磁石のS極とN極が引き寄せられるように。物理の法則。自然の摂理。人間の営為。

 そして。


 少女わたし魔女あいつははじめてのキスを交した。


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