第5話 《少女殺人鬼》Ⅰ

 ガコンッ。

 九度目の挑戦。

 にも関わらず渾身のゴール下シュートは見事にリングに嫌われる。

 真逆の方向へ弾かれたボールをとぼとぼと拾いに行く。わたし以外の誰も存在しない世界。ボール拾いしてくれる親切なギャラリーなど当然いるはずもない。

 真夜中のまほしょ公園。

 生前の幼なじみと最後に会ったベンチからやや離れた場所に位置するバスケコート。

 ゴール下だけとはいえ外したボールを自分で拾いに行くという無為な行為。それを九度も繰り返すとさすがにしんどくなってきた。精神的負荷とともに発汗作用で汗がにじんでくる。

 春の夜はまだ肌寒い。このままだと風邪をひくかも。

 そもそもわたしはこんなところでなにをやっているのか。

 それを言ったらお終いよ、というどこかで聞いた決め台詞と同時にわたしの脳は今日一日身の回りに起きた出来事について回想のギアを入れる。

 時計台の針はとっくに夜の十時をまわっていた────。


 朝、目が覚めた時。

 真っ先に確認したのは自分の胸。

 魔女の心臓が移植されたというのに縫合の痕もなく、実にきれいなものだった。

 右手の中指も紫水晶の指輪を嵌めてはいない。

 さようなら魔法少女。

 君のことは忘れたい。

 あの魔女たちとのやり取りはすべて夢。

 そう思えたらどれだけよかったことか。

 枕もとの目覚まし時計は七時半を指している。

 自宅ではない。学校に通うため寝起きしているのは、寄宿舎アパートの自室。

 歯磨き、顔洗い、着替え、朝食のおにぎり、歯磨き。

 毎朝のルーティンをこなしてから登校。

 いつも通りの朝のはず。

 そんなささやかな望みはわたし以外の寄宿生の子たちを誰もアパートで見かけなかったことであっさりつまずくことになる。

 通学路にいつもならあいさつを交わす学生ボランティアの巡回員は皆無。

 通学路でいつもなら黄色い声でにぎわう小学生中学生の友達の輪は絶無。

 当然真穂百合中学名物の地下トンネルを潜って敷地に入っても、誰もいない。

 校舎や体育館、プール、校庭を一通り巡ってみても生徒も教師も存在しない。

 無人の真穂百合中学。

 人類の消滅した世界。

 ラノベや漫画、ゲームやアニメではありふれた設定だったけど、いざ現実で遭遇してみると別にどうってことはない。ただの終末世界。ただ、そういうものなんだ。へえ。という何の感慨も無くありふれた感想だけが冷めた脳にじんわりと伝わって来た。

 ただそれだけのことだった。緊張感のスイッチが切れてだらんと手足を弛緩させてナマケモノみたいな歩き方で早引きというか早めの自主下校。

 昔のわたしだったら寄宿アパートの自室に戻ってぼーっとするだけか寝るかの二択だったろう。しかし、いまのわたしは百合の咲かない土瀝青女から百合の咲くかもしれない土瀝青女へとアップデートしている。世話焼きな幼なじみがわたしの手を取ってあちこち連れ回してくれたおかげで、行動範囲が少しばかり広がっている。行ってみたい場所もないわけではない。

 そんなわたしが赴いた先とは。

 ネットカフェ。

 ……そこ、陰キャぼっちの行動パターンとか言わないでほしい。

 カラオケやボーリング、ショッピングやパーティなどといった祝祭イベ空間ントは複数の陽キャたちがいるから成立するのであって、陰キャのソロプレイとかあまりにも難易度ハードルが高すぎる。ていうか意味ないし。その点ネカフェであれば陽キャのあいつも結構漫画好きだったし、文芸部部長の鷲瑞先輩もラノベのコミカライズ作品をよく読んでいたから、その関係でよく文芸部連中といっしょに連れていかれた思い出。まあわたしは流行りの週刊・月刊漫画から好きなものをパラ読みする程度だったけど。

 ひさしぶりに入ってみると賭博とか銃器とか非合法の取引現場みたいなワルめいた独特の空気感に現役中二女子の厨二心をくすぐられる。まあ、ネカフェ経営者からすると光熱費削減や仮眠客配慮のために単に照明を暗くしているだけの話らしいが、それは置いといて。

 とりあえず普段読むことのない漫画を読むことにする。前世紀の遺物で古典名作と評判の少年漫画。青年漫画。男性向け漫画。まだ女性以外の性が存在していた時代の漫画。手当たり次第に十冊ほど見繕ってくる。

 現代の百合世界ではとっくに消滅し、いまや空想上の性でしかない彼らが活躍するところを余すところなく描かれた作品。何冊かパラ読みしたが、そのうちの一冊が心に刺さった。面白かった。ちょうどわたしが直面している状況とぴったり一致したから。

 主人公の眼鏡の男の子が、未来のひみつ道具を使って自分の気に入らないやつらを次々に消していった挙句、物の弾みで全人類を地球上から消してしまったという超展開。最初のうちこそ自分ひとりだけの世界、ゲームも漫画もお菓子も好きなだけ独り占めできると強がっていたものの、だんだんひとりだけの状況に心細くなり、夜に停電になってついに耐え切れず助けを呼んだところ、未来の子守りロボットが現れて万事解決。めでたしめでたし。

 で、彼とおなじ状況のわたしはこのひとりぼっちという状況に耐えられるかというと。

 おそらく耐えられるだろう。むしろ嬉々として迎え入れるだろう。

 【百合消滅後の終末】で独り静かなスローライフが保証されたこの世界で今日一日だけと言わず一生を送ることができる。実に結構なことではないか。ていうか漫画の話に戻るけど、せっかく嫌なやつが誰もいない自由と孤独と自分だけの青い惑星なのに、停電で真っ暗になった程度でなにを慌てて泣きじゃくっているのか、まるで意味がわからなかった。彼にとって昼寝は十八番なんだし真っ暗になったら眠りにつくまでの時間わずか0.93秒という特技を活かしてさっさと寝ればいいのに。別のエピソードだと無人島で十年もの永い年月をサバイバルした精神力の持ち主なのだから、孤独耐性は充分ありそうなものだが。

 そんな風にフィクションにムキになって思考していくうちに、ふと思う。

 では、わたしはこれからずっといまの状況を受け入れるつもりなのかと。

 答えはノーだ。

 当たり前だ。この状況を作り出しているのがあのクソ女《少女殺人鬼》である以上、さっさとぶっ殺して棗とわたしの●●ちゃんの仇を討ってやらないと、腸どころか全身の血液まで煮え滾った怒りが静まりそうにない。連動して全身毛穴から赤い湯気が立ち昇りそう。

 熱を冷やすため無料サービスのジュースやカ〇ピスを紙コップ五杯ほどラッパ飲み。一刻も早く殺したいところだが、おそらくヤツの支配下にあるこの世界ではわたしからは手出しできない。主導権はあくまであのクソ女。むしろアイツのほうこそわたしのことを一刻も早く縊り殺したいまである。ただ、犬養棗や桜歯未来に対する凶行を見るに、昼間の時間帯は襲撃してこないという確信がある。こっちが手出しできないように、あっちも手出しできない理由。断言はできないけど確信はある。それに、二度あることは三度あるというし。

 次の犯行時刻は夜中。それまで無駄に体力を消耗せず、好奇心に任せてあちこち出歩いたりするよりは、ネカフェに籠って体力を温存しておくのが吉。

 そう脳内予定表を立てるとまず持って来た漫画十冊を読む。続いてダークなアウトローやピカレスクロマンものなどを十冊読む。世界最高の暗殺者による何も知らないまま復讐狙撃に加担させられた哀れな少女の射殺死体や、泣き虫の殺し屋による被害者の頭の皿を割ったり切ったりした凄惨な斬撃死体を脳に焼き付けるほど見入ることで、来たるべき《少女殺人鬼》との血みどろの死闘に対する覚悟に備えていた。

 時間が経つのを忘れて読みふけってしまい、気がつくと夜九時。空腹がしんどかったのでカップ麺の天ぷら蕎麦にお湯を入れて十代少女の育ち盛りの食欲であっという間にたいらげてお腹を満足させる。食事メニューおよび受付の料金表を見てその分のお金を置いて退室。エレベーターに乗ってネカフェの入ってた雑居ビルから出ると夜の街の新鮮な空気で深呼吸。人通りも車の通りもないので道路のど真ん中を悠々と闊歩。どこへ行くかは決まっていた。というかここ以外にない。

 真穂百合小学校西附属公園。

 通称・まほしょ公園。

 犬養棗と出会って、小山内薫が救われ、小山内香と出会って、犬養棗が殺された場所。

 おそらく、それ以外にもわたしの知らないところで様々な因果の糸が絡み合っている。

 不可視の因縁と不条理の宿命が渦巻いている不思議な空間。

 ただ待っているだけなのも退屈なので何かをすることにした。

生前の棗が得意だったバスケ。正直、わたしはバスケが苦手。身長170cmの薫ちゃんを背負って走れるくらいだから単純な身体能力だけなら自信がある。だが、小さなリングを目指してボールを放つ力を微調整するとか、そのあたりのさじ加減がめちゃくちゃ苦手。だが、あいつの仇を討つ前にそういう苦手を克服しておくのも悪くない。

 死闘を間近に控えて脳がハイになっていたせいか、そんな謎理論でバスケ自主練開始したのだった。で。


 回想終了。

 というわけで結果は見事九回連続ゴール下失敗。ネカフェでバスケ漫画でも読めばよかったかと思わなくもないが、あの教えの達人・犬養棗がマンツーマンで教えてくれても駄目だったので結果は変わらなかったと思う。ボールとポストの距離を目視で計測した上にその距離を頭に入れてボールを放つ力を微調整するとか。スポーツ少女のマルチタスク能力は異常。シングルタスクだけで精一杯な陰キャのわたしには荷が重すぎる。でも。

 あと一回。

 あと一回だけ。

 そんな負けフラグで負けず嫌いな気持ちとともに手に持ったボールをポストに向けて──


「こんばんは」


 来た。

 ついに来た。

 来てしまった。

 空回りしたボールが手から滑り落ちる。

「おひさしぶりです。扶草さん」

 声だけで誰かわかってしまう。

 抑揚のない無機的で事務的なこの声。

 その事実を理性では受け止められても、感情が受け止めきれない。

 後ろに近づいてくる彼女の正体、わかっているのに見たくはない。

 しかし。

「月がきれいですね。今日はバスケットボール日和なんでしょうか?」

 知らねえよ。

 そんないつもの突っ込み癖が躰に染みついて、つい反射的に振り向いてしまう。

 わたしの目はすぐそばまで近づいていた彼女の姿を容赦なく映し出す。

 真穂百合中学の制服。

 眼鏡をくいっとさせて知的キャラを演出するショートボブの先輩。

 先輩なのに後輩のわたしにもいつも丁寧口調で接する文芸部部長。


 鷲瑞遥。


 まさかこのひとが《少女殺人鬼》だったなんて。

 無表情ポーカーフェイスを装いつつも内心は驚きと怒りの臨界点突破。

 そんなこちらの事情などとは対照的に、彼女はいつものように淡々と言動する。

「今日は扶草さんに渡すものがあって」

 そういって彼女は先日の創作ノートとクリップ止めされた百枚くらいのプリント用紙の束を手渡す。プリント用紙の先頭には「犬養棗」の三文字が濃い大きめのフォントで印字されていた。「ノートは貴女の過去の夢や思い出話を記録したものです。小説が完成した以上、個人情報保護の観点からも貴女にお返ししたほうがいいと思いまして」

 ズレたお気遣い本当にありがとうございます。先日みんなと共有されてしまった以上何の意味も無い配慮。さらにそのみんなもいなくなってしまったから、二重に無意味なんだけどね。

「それと、ついさっき犬養棗シリーズが完結したのでそれも。私のサイン入りの生印刷なので大切にしてください。プレミア必至です」

 ご丁寧にどうも。人類消滅した市場なき世界でどんなプレミアがつくのかは甚だ疑問だけど。

 相手わたしとの間合いを測る前口上はそのくらいにして、さっさと本題に入ってほしい。いつでも《少女殺人鬼》との死闘に移れるようノートとプリントの束を左手に持ち替える。

 すると。

「それでは私はこれで」

 ぺこり。

 すたすた。

 …………あれ?

 そのまま帰ろうとする鷲瑞先輩。

 声がでなかった。まるで明日また学校で会えるような自然な動き。そうであってほしい、という切なる願望がわたしに沈黙という悪手を選ばせたのか。何事もなかったかのように。そうすればこのまま無事に。

 って、何を考えているんだわたしは。

「……《少女殺人鬼》ォォォォォォォォォォォッッッ!!!」

 ぴくり。

 公園出入口の防護柵の前で立ち止まる鷲瑞先輩。

 喉も裂けんばかりの真夜中の大絶叫にさすがに反応せざるを得なかったか。

 さっき来た足跡をなぞるかのように同じ足取りでわたしのところまで戻ってくる。

 ──って。

 左手に持ったノートとプリントの束で自分の胸をがっちり防御。

 それを見た彼女はふう、と息をつく。

 わたしから三メートルほどの距離を保って。

「……無知は罪といいますけど、知ることは罰を受けるみたいなものですね」

「え?」

「ちょっとお話しませんか?どうせ時間はいくらでもあるのだし」

 そういって鷲瑞先輩はベンチへ向かう。

 わたしと棗の思い出の場所。

 聖域。

 しかし、棗の先輩で取り巻きで恋人で花嫁でもある《百合の季節》のあのひとに、近寄るな汚すなと声を荒げることはできなかった。あの「ざまあ」とわたしの●●ちゃんを汚した《少女殺人鬼》の素顔でもない限り。きっとわたしは先輩の顔のままだったら為す術もなくまた心臓を抉られて、先輩の仮面を取って殺人鬼の素顔を晒したあいつに「ざまあ」と煽られる運命なのだろう。まるで愛するひとを人質にとられて為す術もなく殺され、愛するひとも殺されるという救いのない作品の主人ピエのように。


「どうぞ」

「……ドモ」

 先輩が近くの自販機で買ってきたわさびコーラの缶と苺ジュース入り紙パックのうち後者をわたしに手渡す。わたしが炭酸やミント、わさびといった刺激物はもちろん、それらをジュース類と混ぜたゲテモノ飲料の類いが大嫌いということを知っているから。当の彼女は棗と同じく混ぜるな危険のゲテモノ飲料の類いが大好きなので、ベンチに腰掛けるなり前者を迷いなくごくごく飲み上げる。炭酸と香辛料のダブルパンチ。わたしだったら喉が焼けて数日間声がでなくなりそうな劇物。でも、先輩にとっては気付けの水程度の些細な刺激に過ぎないのだろう。

 わたしが苺ジュースを飲み切るよりも早くわさびコーラを一気に飲み干すと、じろっとめずらしく感情的な目で睨む。しかし、ここはわたしも引き下がれない。

 一歩も引く気がないわたしに、呆れと怒りをある種の冷静さでコーティングした声色で問う先輩。

 それに対しわたしは一貫してエゴで問い返す。

「どうして私を引き留めたんですか?あのまま放っておいてくれたら、すくなくとも貴女はこの世界での余生を全うできたのに」

「先輩はこれからどうするつもりなんですか?」

「質問で質問を返さないでください。どうして私を」

「先輩はなんで犬養棗を殺したんですか?」

「質問で質問を」

「先輩はどうしてわたしの心臓を抉り取ったんですか?」

「…………………………」

「…………………………」

 永い沈黙の末、根負けしたのは先輩のほうだった。

「……よく考えたら、何も知らないで死ぬよりは納得して死にたいですよね」

 うんうん、と一人納得してうなづく先輩の姿はまさしくサイコパスだった。

 こわい。

 けど。

「死にたくはないです。でも、是が非でも聞きたい」

「ややこしい話かもしれませんが」

「時間はいくらでもあるのでは?」

 わたしの返しに先輩は黙ってうなづく。

 わさびコーラを飲み切った空き缶を一瞬捨てようと立ち上がりかけるも、結局お供えのようにベンチに置いて彼女は語り始めた。生前葬で弔文を読み上げる友人代表のように。

 縁起でもないと思いつつ、わたしは彼女の話に耳を傾けた。


 まずは私の生い立ちからお話しましょうか。え?いくらなんでも壮大すぎる?いえいえ、《少女殺人鬼》について語るのであれば、本来なら『旧約百合聖典』の「創世記」から語りたいくらいですよ。ですが聖典を引き合いに出してしまうと後世の膨大な神学論争はじめキリがなくなるので、ここでは私個人の記憶にある《少女殺人鬼》のみをお話したいと思います。

 私は物心ついた頃には鷲瑞遥であり同時に《少女殺人鬼》でもありました。鷲瑞遥が内向的で読書好きの女の子だったのに対し、《少女殺人鬼》は偏向的で殺人好きの女の子でした。最初の殺人はまだ幼稚園に上がる前、母親不在のちょっとした隙をついて近所の散歩ぼうけんをしたときです。たまたま中学校の下校の時刻と重なったせいか、制服姿の見目麗しいお姉さま方と鉢合わせしました。あちらも幼子だった私を見て庇護欲を掻き立てられたのでしょう。家まで一緒に帰ることになったのですが、そのなかにひとりロリコンの痴女が混ざっていました。彼女は仲間と別れると私の家に連れて帰るのではなく、人通りのすくない人目につきにくい死角へと言葉巧みに誘い込み、明らかに初犯ではない鮮やかな手練手管で気がつけば私は生まれたままの姿に剥かれていました。泣きも叫びもしなければ抵抗もしないお人形のような私の裸体に、彼女はさぞ舌なめずりしていたことでしょう。

 そんな彼女にとって誤算だった点は三つ。

 一つめはその時の私がつい先日母親のママ友たち主催の幼児の性教育を受けたばかりで、プライベートゾーンを他人が勝手に晒すのは「悪」と認識していたこと。

 二つめは「悪」すなわち「罪」を犯したものは「罰」を受けなければならないという遵法意識が私のなかですでに芽生えていたこと。

 三つめは「罰」を与えられるだけの能力が私にはすでにあったということ。

 彼女が甘い睦言を耳元にささやきつつ私の胸を愛しげに撫で上げた瞬間、脳内に電撃が疾りました。目には目を。歯には歯を。胸には胸を。私は伸び切っていないちいさな手を彼女の胸元にのばすと彼女もそれを慈しむように受け止めようとしたのが彼女の最後でした。

 心臓摘出。

 まさか幼児の力で自分の心臓があばらごと抉り取られるなどとは夢にも思わなかったでしょう。私も正直思いませんでした。なにかに導かれるようにして手をのばした、ただそれだけです。性の処女はじめては守れても罪の処女はじめては守れなかった。それが《少女殺人鬼》の力が覚醒した瞬間はじまりでした。信じられないものを見たような目のまま絶命した遺体を前に、私は抉り取った心臓を放り投げてしばし考えました。このまま放置すべきか処理すべきか。

 しかし、不思議なことに彼女の遺体は心臓もろともそのまま何の前触れもなくふっと消え去りました。いえ、光の粒のようなものが空へのぼっていったようにも見えました。彼女の魂が天界へ召されたのでしょうか。が、それは室内で掃除しつつカーテンを開けるとほこりの光の粒がきらめくのと同じ程度の目の錯覚に過ぎなかったのかもしれません。

 こうして私の《少女殺人鬼》としての経歴キャリアが始まりました。《少女喰いの魔女》と言い換えてもいいかもしれません。幼稚園に通うようになってからは年長組の女の子を、小学校に上がってからは高学年のおねえさんを、児童会館ではなかよくなった指導係の中学生のお姉さんを、造作もなく手にかけました。慣れてしまえばかんたんなことでした。ひとのいないところで手をかざしてかくあれかし、と唱えれば彼女たちの心臓は自動的に抜き取られ、しばらくすると遺体が消えるとともに不思議な光の粒が浮かんで昇天する。ただそれだけのこと。

 かくあれかし。それは女神様がこの世界をお創りになった時のお言葉だと幼稚園の百合聖典の時間に学びました。私は女神様のご意思の代行者として彼女たちの魂を天界に送り届ける役割を仰せつかったのではないか。そんな不遜な考えが浮かんだりもしました。

 いまだに忘れられないことがあります。いつものように人通りのすくない路地裏を歩いていた時のことでした。前から大人が歩いてきました。《少女殺人鬼》の標的は当然大人ではなく少女です。いつもならスルーするのですが、この時は違いました。

彼女を逃がしてはならない。そう頭のなかで声がするのです。彼女も私の頭の声が聞こえたかのように油断なく身構えました。その瞬間、罪の処女はじめてを捨てる前に脳内に疾った電撃の何十倍もの衝撃が全身隈なく落雷のように駆け巡り、私は気を失いました。気づいたときには彼女はすでに息絶えていました。彼女の胸を抉る真っ青なドーナッツの穴。真っ赤なドーナッツではなく。彼女は人間ではなかったのでしょうか。気がつけば私が握っていた彼女の心臓も本物ではなくシリコンかなにかでできた紛い物でした。そして、彼女の死に顔もいままでの少女たちの死に顔とは違うものでした。たいていの子は自分より年下の幼児に心臓を抉り取られたことを信じられないものを見るような目で、あるいはなかよしの子に裏切られたという果てしない無念の目で息絶えていました。しかし彼女は、悔しいなあ、残念だなあ、という無念の気持ちを湛えつつも、その一方でこの世にやり残したことはないというどこか矛盾した安らかな寝顔で、そう、勇者のような安らかな死に顔で眠っていました。どことなく犬養さんにも似ていましたね。畏敬の念を抱いたのは女神様に続いてこのひとが二人目だったかもしれません。その後まもなく彼女の遺体は消え去りましたが、周囲にはその死を悼むかのように大量の光の粒が蛍の光のように取り囲み、それらはそのまま空へ浮かぶこともなく遺体の後を追うかのように儚く消え去りました。名前すら知らない彼女のことはいまだに気になっています。

 その後、小学二年生になって親の仕事の都合で引っ越すことになった私は、ふたたび衝撃的な出会いを果たすことになりました。それが。


「扶草さん。貴女です」

「わたし?」

 敵に名指しされて目を白黒させる。そんな衝撃的な出会いなんてあったっけ?

「まあ、あの頃の貴女は他人や外界には一切興味を示さない、ちょっと変わった子でしたから。私が心臓を抉ろうとしても何の反応もありませんでしたし、覚えていなくても無理はない」

 ちょっと待てや。いつのまにそんな蛮行を。

「通学路と人通りの少ない場所の下見も兼ねて真穂百合小学校の裏通りを歩いていると、入学式帰りで保護者とはぐれたのか、あるいは何か用があったのか、ひとりで歩いてきた小学一年生の扶草さんと遭遇しました。会うなり衝撃、いえ、電撃が全身を貫きました」

「初恋?」

 わたしのKYな茶化しを無視して先輩は話を続ける。

「貴女から放たれていたオーラ、雰囲気はまぎれもなくあの名前も知らない彼女とそっくりだったのです。今度こそあのいっぱいの光の粒を余すことなく天界へ送り届けたい。そんな自分でも不思議な使命感で頭がいっぱいになった私は扶草さんのすぐそばに近づくと、それでもなお貴女のビー玉のように虚ろな目は他者である私のことを露ほども映し出さなかったので、これさいわいと手をかざして心の中で言いました。かくあれかし、と。しかし」

 そういって彼女が見つめる右手はまるで幽霊か呪物にでも触れたかのように小刻みに震え始めた。

「抜き取れなかったんです。心臓」

「え、なんで?」

「それは私が聞きたいです。いつもなら標的にした少女の胸に手をかざして『かくあれかし』と心の中で唱えれば心臓は自動で抜き取られて遺体も自動消滅、光の粒を確実に天界にお届けできたお手軽なオート作業でしたのに。なぜか貴女の時はそうならず、代わりに顔からすっ転んでいました。前例のない不測の事態に私はしばし考えました。リスクを侵さずこのままそっと撤退するか、あえての二度目のおかわりをするか。逡巡している私がふと後ろを振り向くと」

 ふたたび右手微震警報。アル中みたいな震え方なのにそれとは真逆の真っ青な顔。

「犬養さんが笑顔でこちらに近づいてきました」

 こわい。わたしなら速攻で逃げ出す。

「即座に私がその場から立ち去ると、それと入れ替わるように犬養さんは貴女にお声がけをしました。そこはご記憶と思いますが」

「うん。覚えている」

「公園で貴女の怪我の手当てをした後どこかへ連れて行ったのを物陰から見届けると、それと入れ替わるように私は公園のベンチに腰掛け、九死に一生を得た脱獄囚のように大きく息をつきました。比喩でなく大量の汗がどっと滴り落ちました。どくどく波打つ心臓を静め呼吸を整えていると、『よかったらどうぞ💛』と不意に飲み物が差し出されました。振り返るとついさっき公園から出たばかりの犬養さんが満面の笑みで立っていました」

 こわいこわいこわい。

「犬養さんは私といっしょにベンチに腰掛けました。私がハバネロコーヒーを、彼女がシュールストレミングおしるこを飲み干すと、私は覚悟を決めました。きっとこの正体不明の女の子の手で私は闇へと葬り去られる。どんな方法でかはわからないけど。これはいままで私がやってきたことの報いだ。しょうがない。殺人鬼という人でなしの行き着く先、運命だ。しかし、諦観した私に彼女が告げたのは意外なことでした」

「意外なこと?」

「一言でいえば提案です。彼女は自分が中学生になるまでは《少女殺人鬼》としての活動を一切停止してほしいと言ってきました。その代わり、それ以降は自分の決めた手続きに従う限りにおいては十分すぎるほどの対価を与えられる、と」

 中学生になるまで?その代わり、それ以降なら?充分すぎるほどの対価?

 刹那、最悪なひらめきが脳内に迸る。

「……《百合の季節》?」

「ご明察。あのひとは《少女殺人鬼》にぴったりの獲物を自分の手で見繕えるようになるまで待て、と言ったんです。どうして同じ仲間を敵に売る真似ができるのか、ひとの心が大きく欠けた私でもその真意は見極め難いものでした。しかし、その提案を拒絶すれば速攻でジ・エンドなのは間違いありません。最初から私に選択肢はありませんでした。彼女と契約を結び彼女が中学に上がるまで自宅待機を命じられたコロナ渦の学生の如くおとなしく真っ当な文学少女を演じることにしました。演じるといってもそちらも本当のであることに変わりはないのですが。《少女殺人鬼》は毎日殺人の美酒をあおらないと殺人衝動を抑えきれないほど欲望の強い生物ではなく、むしろ殺人の勲章を飾るのは数年から数十年周期において一度に数個程度で構わない、ごくつつましやかな生物です。どこぞの人間の性犯罪者とは違います。私ものんびりと人間の子どもとして小中学校の生活を満喫しつつ、犬養さんからその日を告げられるのを楽しみにしていました。そしてその日」

 無念そうに唇を噛みしめて、彼女は怒りの言葉を絞り出す。

「彼女は私を裏切りました」

「……裏切った?」

「話はここまでです、扶草さん。いいえ」

 次の言葉が出る寸前、わたしの躰は全力で後方に飛び退く。

「扶草菫」

 彼女は眼鏡をはずして・・・・いた・・

 彼女の視界に入った空間は心臓を抉り取られたような虚無と化していた。

 彼女の視界に入らぬよう樹木の影に隠れたわたしは恐怖しつつ思考する。

 魔女たちの噂では、この百合世界は八割方彼女の支配下に入ったらしい。

 人類もわたし以外消滅したらしいし、ほぼ完全無敵状態。

 なのに、ここまでわたしに執着する理由とは。

 まぶしい。

 夜空の月よりも公園の街灯よりもはるかにまぶしい輝き。

 それは人間にはあまりにも神々しく禁則指定せざるを得ないほどの強烈な光。

 まさか。

「ようやく気付いたか。いや、凡愚な人間にしては察しがいいというべきか」

 彼女は鷲瑞遥であって鷲瑞遥ではない。

 黒髪ショートボブではない、金髪ロングヘア。

 頭上には神々しい光輪、背中には美々しい両翼。

「そう、《少女殺人鬼》など所詮凡愚の目にしか映らぬ虚像の虚名にすぎぬ。我の真の姿と名はただ女神一柱ひとりのみぞ知る」

 歌うように裁くように彼女はいう。その崇高なリズムは世界をも改変する。

 真穂百合小学校西附属公園、通称まほしょ公園から夢の世界の公園へ。

 真夜中の公園。

 無謀な都市計画により無慈悲な廃墟と化した円環状幽霊街。

 果たしてここは夢か現か現実か。

「我は天の御使い。女神の忠実なる僕。神意の代理人。神罰の代行者」

 夢現の境目が曖昧になるわたしに彼女の昂る殺意が頬を灼く。ここが現実の悪夢であり彼女を斃さない限り現実は目覚めないことを否応なしに悟る。

 そう、どこにも逃げ場など存在しない。そもそもわたし、わたしの幼なじみ、わたしの●●ちゃんの三人を潰した時点でわたしのマジぶっ殺ルールで死刑決定したこいつを逃す気もない。

 女の子には女の子の意地がある。神に叛逆する異端者の気持ちで樹木の影から彼女の視線に臆さず一歩を踏み出す。

 それを見た彼女は執行官の情けとも憐みとも敵ながらあっぱれともつかぬ表情で名乗る。

「我が名は天使ユリエル。慈悲深き女神に代わりて罪深き裏切り者の娘に罰を下す」

「わたしの名前は扶草菫。犬養棗と●●ちゃん、わたし、三人分まとめてぶっ殺す」

 言い終えるなり、一方の殺意の毒針が容赦なくもう一方の躰を針山のように串刺しにした。


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