第4話 ????の契約

 雨。

 雨が降っている。

 灰色の空からとめどなく降りしきる冷たい雨。

 濡れ鼠になってたたずんでいるいつもの公園。

 《少女殺人鬼》と死闘を繰り広げた幽霊廃墟。

 《紫水晶の魔女》からキスされた屈辱の聖域。

 《黄金狂の魔女》と同魔女相憐れみ合う空間。

 気がついたら、もう三度目の訪問になる場所。

 これは明晰夢とか正夢とかいうレヴェルでなく、文字通りもうひとつの現実なのだろう。

 論理的にも感覚的にもそう形容したほうがぴったりくる。

 だが、わたしの直感はもうひとつの事実を鮮明に感じ取っている。

 いま、ここにはわたしだけしかいない、ひとりぼっちの世界ということを。

 無謀な都市計画により無慈悲な廃墟と化した環状ースト幽霊街タウン

 わたしの空虚さをそのまま投影したかのような空疎な街並み。

 ああ。

 そうか。

 ここはわたしなんだ。

 世界から隔絶した誰一人存在しない完全な孤独。

 ひとの手触りやぬくもりとは無縁な人工的な無機質さ。

 なのに、とめどなく降りしきる冷たい雨に感じられるぬくもりに近いなにか。

 それは現実のわたしが泣かない分、もうひとつの現実のわたしが泣いているからだろう。

 わたしの頬につう、となにかが伝った。

 雨粒とは明らかに異質な熱をもったそれに、もはや自分を誤魔化すつもりもなかった。

 気づけばわたしの手足は動き出していた。

 歩く。

 走る。

 叫ぶ。

 転ぶ。

 まるで子どものように。

 否。

 まるで生まれてはじめて子どもの体験をするかのように。

 幸い石畳や砂利ではない柔い芝生の上での転倒であったため、香ちゃんのように膝や手を擦りむくような外傷は負わなかったものの、心のあちこちを擦りむいて不可視の傷痕だらけだったのを知ったわたしは泣き叫んだ。

 来るはずのない大人を求めて。

 来ないはずの子どもを求めて。

 悲しい。

 犬養棗が死んだことが。

 悔しい。

 親友の死に何一つできなかったことが。

 さっさと出てこい《紫水晶の魔女》。

 お前がいなければ天獄の魔女《死星七姉妹》と引き合わせてもらえないし、彼女たちから究極魔法【不死の弔鐘】を託してもらえることもできない。その結果、《少女殺人鬼》という不死の化け物を殺すことはできず、救世主の復活という淡い希望に縋るだけの空虚な人生を送ることになるだろう。もっとも、わたしはその儚い人生ですら《少女殺人鬼》の手でばっさり断ち切られるのだろうが。

 助けが来る気配は一向に訪れなかった。

 心なしか雨脚が激しくなった気がする。

わたしを嘲笑うかのようだ、というのは自意識過剰が過ぎるだろうか。いままでのわたしならこんな駄々をこねるような真似をせず、無言で立ち上がって目的地に行くなりどうすべきかを考えるなりを淡々と粛々と行っていただろうから。少なくとも犬養棗と初めて会ったときのわたしなら。

 でも。

 泥にまみれた手で濡れた芝をぎゅっと掴み、唇から血がにじむほど己の弱さを噛みしめる。

 わたしは弱い。

 それでも、いまは立ち上がらなくてはならない。

 心の炉に火を入れよう。

 そのときだった。


 ざっ。


「棗?」


 ぐさっ。


 …………えっ?

 の胸を抉る真っ赤なドーナッツの穴。

 犬養あいの胸を抉る真っ赤なドーナッツの穴。

 棗とおそろい。棗といっしょ。いつでもいっしょ。どこでもいっしょ。

 振りむいたばかりのわたしはゆっくりと雨空に向かって仰向けに倒れる。

 冷たい雨が容赦なく死にゆく少女わたしの躰を鞭打つ。

 一筋の救いの光。

 それに目が眩んだがゆえの油断。

 気配と足音だけで死んだはずの幼なじみと確信して振り向いた刹那、その幼なじみを殺した当人がわたしの心臓を躊躇なく抉り出している。

 《少女殺人鬼》。

 まさかこんな夢の世界にまで侵入しているなんて。

 否。

 【迷い猫の秘密基地】に侵入を許した時点でこうなることは予測できたはず。できなかったのはこちらの落ち度だ。そもそも《未来視の魔女》の生死すらわかっていないのだから。彼女の屍を超えたとしたら、その後どう行動するかくらいわかっていたはず。

 《少女殺人鬼》はわたしの心臓を栄光のトロフィーのように高々と掲げる。

 霞む意識。

 靄る視界。

 それでも力強く脈打つそれは十三年もの永き歳月に渡りわたしを支え、全身隅々にまで大切な血を流してくれた大切な躰の一部。器官。臓器。宝物。異形のフォルムだけど。見ようによっては顔のない赤ちゃん。見えなくもない。愛おしい。意識の混濁。思考の汚濁。あはっ。わたし、この年でおかあさんかあ。シングルマザーってやつ。ううん。あいつがおとうさんだからちがうよ。なんで出産に立ち会ってくれなかったのか。いまもいないし。父親失格。ガツンと言ってやらなきゃ。こういうのは最初が大事。ああ。先生。わたしのあかちゃんをとりあげてくれて。ありがとうございま


 ぐちゃっ。


 ペースト状に握り潰されたそれは何の感慨もなくわたしの頭上に降り注ぐ。

 何も知らない幼子に浴びせられる鮮血の洗礼。

 曇天から降り注ぐ冷たい雨でもその呪いは拭いとれない。

 胎児殺しの汚名を着せられた未婚シンのような虚ろな瞳で。

 虚無と化した視界に映しだされたものは。

 《少女殺人鬼》が無表情に拳をあけて。

 あかちゃんだったそれを水たまりに不法廃棄。

 すこしだけ、口角を上げて。

 産婦人科医の《少女殺人鬼》は患者のわたしにそっとささやく。


「ざまあ」


 殺す。

 ぶっ殺す。

 このクソ女絶許。

 憤怒の獄炎がわたしの虚無を真っ黒に焦がし尽くした瞬間、無間地獄へ堕ちるかのごとくわたしの意識もまた無明の闇へと墜ちた。




「不幸中の幸いと喜ぶべきか焼け石に水と嘆くべきか、判断が難しいところじゃの」

「それはあの子のするべき判断でしょう。ワタシらがすべきはさらにその先の判断」

「同意」

 声が聞こえる。

 意識が戻ったわたしが最初に確かめたのは心臓の有無。

 胸にいくつもの管が繋がっている。これは人工心肺装置というやつだろうか。

 しかし、わたしはベッドで安静にしているわけではなく、立たされている。

 というか浮いている。

 生命維持カプセルのなかで。

 澄み切った羊水というか生命のスープというか得も言われぬ透明な液体が全身の周りを流れるプールのようによどみなく循環している。

 心地いい。

 さっきまでの憤怒が嘘のような安らぎ。

 死ぬ間際、涅槃の境地はいままでの人生で最高の安寧が得られると聞いたことがあるが、それに近い感覚。この躰に繋がれた管や口のマスクが外れたら一発でアウトなのだろうから、あながち間違ってはいまい。

 意識が戻ったわたしに気づいた声の主たちは議論を止めて、じっとこちらを注視しつつ近づく。ていうかわたし、いま気づいたけど真っ裸なんだよなあ。全裸JC。いまさらキャーなんて金切り声あげるほど幼稚ではないけど、それでも見知らぬ大人たちに勝手に鑑賞されるのはめっちゃモヤるものがある。児ポとセクハラで訴えるぞゴラ゛。

 そんなわたしの内心を睨み目だけで察したのか、声の主のひとりが主治医のように返す。

「別に鑑賞しているわけではないぞ。生命カプセルの被験者は衣類下着の類いは着けぬのが原則じゃし、なにより主の回復具合、健康状態、心理状況を目視で確認するにはこちらのほうが手間が省けてよい。ただそれだけのこと。もっとも、《紫水晶の魔女》じゃったら嬉々として鑑賞に勤しむのじゃろうがな。やれやれじゃ」

 そう爺むさい口調で爺くさい付け髭でちゃんちゃんこ羽織った彼女は金髪碧眼の幼女だった。サンタクロースならぬ田舎の好々爺に憧れて仮装したかのような奇妙な背伸びっぷり。でも、この声には聞き覚えがある。

 もしかして。

「《黄金狂ゴールド魔女ッシュ》?」

「覚えていてくれて光栄じゃよ、扶草菫」

 そういって手を差し出す。

 こちらも返そうとするも透明カプセルの壁に阻まれる。てか手動かしただけで激痛が。心臓抉られたあとの筋肉が引き攣れてめっちゃ痛いんですけど。

 そんなわたしを汚いものを見るような目で蔑む赤髪朱眼の美女と、そんな彼女をじっくり観察する目で切って返すかのようにわたしのほうもチラ見する銀髪灰眼の美女。どちらもスーツ姿なので指導教員と教育実習生の対比のようにも見える。

「心臓抜き取られたあの状態でよく生き延びていたものだ。さすがあの女の娘だけあって生き汚い」

「《紅玉魔女》ちゃんったらそんなこといわないの。この子が生きてくれたおかげでワタシらも損切りか継続かの選択ができるようになったんだから」

 損切り?継続?

 聞きなれない用語に目を白黒させていると、心なしか三人ともわたしを見る目に憐みの色が。

 安楽死の老人か去勢される予定の犬でも見ているかのような憐み。

 そんな嫌な予感を確信に変えるかのように爺むさい幼女は咳払いひとつ、重々しく告げる。

「本来なら儂ら天獄の魔女は、主ら百合世界の住人とは不干渉不可侵が基本原則じゃ。じゃが事ここに至っては主と交渉せざるを得ない。それほどまでに事態は切迫しておる」

 いやいやいや。それならわたしみたいな子どもなんかよりもっと社会的地位のある大人と交渉すべきでしょうが。

 そんな内的モノ独白ローグを見透かしたかのように──否、かのように、ではなく実際に見透かしているのだろう。魔女なのだから人の心のひとつやふたつ、魔力でも魔法でも使ってエスパーするくらい彼女たちにとって至極簡単なこと。そんな文章を頭に浮かべると、それと併せて彼女は渋柿よりも渋い面で二度うなづく。

「まず、主の心を勝手に読み取ることを許してほしい。内心の自由やプライバシー権の抵触行為ではあることは承知しておるが、なにせ主はしゃべることもままならない状態である上、事態は切迫しておるのでな。そしてなぜ交渉相手が中学生の主でなければならないのか、という問いについては大きく分けて二つ理由がある」

 ほう、とわたしが目線を上げると同時に右手の中指がしゅっ、とマッチでも擦ったかのように煙る。水中なのに。

 熱っ!?

 筋肉の引き攣れも厭わず右手をぶんぶん振ると、中指から星光のごとき紫色の輝きが放射される。紫水晶の指輪。《紫水晶の魔女》からの贈り物。いつのまに。

 あ。もし、これが魔女お付きの魔法少女の証なら。

 そんな連想ゲームめいたわたしの推論に、お髭幼女三度目のうなづき。当たりか。

「一つ目は主が《紫水晶の魔女》と繋がりがあること。お主が自由意志でもって儂らと交渉するのであれば不干渉不可侵の原則を侵すものではない。《少女殺人鬼》を殺すことが最終目的の主にとって【不死の弔鐘】は是が非でも手に入れたい究極魔法、そうであろう?」

 こくこく。

「ならば儂らはそれを主に託そう。これは儂らの意思での百合世界への干渉や交渉ではなく、あくまで百合世界の住人たる主の意思での交渉の結果じゃ。大義名分は成り立っているから問題はあるまい」

 そうか?

 正直問題はありまくると思うが。

 たとえば他の天獄の魔女にそれぞれ真穂百合中学から一人ずつ魔法少女にするよう命じたら、実質彼女たちを操り人形にして百合世界にいくらでも干渉できるようになると思うのだが。他にも似たようなスキームはいくらでも思いつくし、それらの手練手管を実践したらあっという間に傀儡国家や植民地化の要領で実効支配できそうなものだが。

 それに、《未来視の魔女》の話だと──あくまで彼女の推測ではあるが──百合世界は天獄の魔女たちと不可侵条約という名の実質不平等条約を結んでいるが、それはそれだけでもこちら側にうまみがあるから、名より実を取って下位の座に甘んじているとのことだった。しかし、《黄金狂の魔女》の口ぶりだと百合世界に対する不干渉不可侵の原則は契約や条約云々というよりは、「大義名分は成り立っているから問題はあるまい」と、対外的な何かの目線を気にしているかのような言い方だった。

 これは一体。

 まあ思っただけで口には出さない。下手に口出しして相手の機嫌を損ねたりしたら、それこそ事だ。あのクソ馬鹿絶許女をこの手でぶっ殺せる機会をみすみす逃すほど、わたしは愚かではない。

 無論、わたしの考えていることはカプセル越しのお爺ちゃん幼女魔女にまるっとお見通しなわけだが、苦笑いしつつ意味ありげな流し目した時点でまあお察し。答えてくれるはずもないのでこれ以上考えるのは時間の無駄か。

 となると次に気になるのは。

 二つ目の理由。

 そう思うとなぜか彼女はむう、と答えに窮する顔になった。

 なんだろ?

 訝しむわたしにカプセル越しに唾でも吐きかけるような忌々しさ全開の表情で答える赤髪朱眼の美女。

「貴様以外の人間はすべてあの世界から消滅したからだ。ゆえに、貴様以外に交渉相手がいない。以上」

 ……………は?

「ちょっと、《紅玉魔女》ちゃん」

「事実です」

 それだけいうとわたしから顔をそむけて再び無言。

 人類消滅?

 脳内でノストラダムスがスキップし始めたわたしに、ようやく重い口を開くお爺ちゃん魔女。

「一切の人間が消えた。あの百合世界から。こちらから観測した限りどの世界の座標軸においても彼女らは移行した痕跡もなく存在も確認不能。完膚なきまでに消え去ったんじゃ」

 お髭の幼女は作戦本部に全滅した部隊の最後の生き残りのように冷徹な事実のみを報告し、推測する。

「……まだ詳細はわからぬが、九分九厘《少女殺人鬼》の仕業と見て間違いなかろう」

「千パーあいつの仕業でしょ。いまシーシュポス部署の魔女たちが全力で対策に当たっているけど、現状こちらからできることは何もなし。あっちの世界は八割方あいつの手に落ちたと見ていいと思う」

「あえて魔法名を名付けるとしたら【百合ポスト消滅後アポカ終末リック】とでもするか。まったくとんでもない術式を組み込んだものじゃな。一介の魔法使いとしては敵ながらあっぱれというか、教えを乞いたいくらいの気持ちじゃ」

「なに馬鹿なこと言ってんのよ。そんな腑抜けた台詞、《黄金ゴー魔法ルド漆黒クロ字》の名が泣くわよ。ギンギンに尖っていたあの頃のアンタはどこ行ったの?」

「わ、儂をその名で呼ばないでくれぬか《天球魔女ねえ。古傷が疼いてかなわん」

「そ、そっちこそ姉なんて年上みたいな呼び方しないでよ!アンタみたいな爺様より年上だなんて冗談じゃないんですけど!!」

 なぜか急に激昂しだした銀髪灰眼の美女。美魔女に年齢の話題は禁句らしい。エイジハラスメント駄目、絶対。

 が、そんな空気をまったく読まず火にガソリンぶっかける天然ガス爆発な魔女がひとり。

「ですが、《天球スフ魔女》様が私たちより年上なのは事実では?《死星七姉妹》の系譜においても最古参のおひとりだったはず」

「ば、馬鹿っ」

 ぶちっ。

 何かがキレた音と同時に、彼女の銀髪と灰眼が紅蓮の焔のごとく燃えあがり怒りが溶岩のようにそれまで軽快だったお言葉を激重に煮え滾らせる。

「誰が最古参お局糞BBAだってあ゛あ゛ん゛!!?その薄汚え口を二度と利けなくなるようギザギザに縫い合わせてやろうか!!?」

「(最古参のおひとりなのは)事実では?」

 ぶちぶちぶちっっ。

「上等だよゴラ゛。その無駄に固い花崗岩の墓石みたいな石頭叩き割ってやんよクソが」

 宣戦布告と同時に発生する閃光。爆発。破壊。衝撃。

 なんだこれ。

 突如勃発した魔女同士の闘争。

 やり取りだけ聞くとヤンキーが優等生に因縁吹っ掛けているようにしか見えない。しかもその発端が美魔女に対するどうでもいいようなエイジハラスメントとかマジで笑えないんだが。壮絶な速度で備品が壊滅したり壁がぶち抜けたり天井が崩れ落ちたり空間が崩壊したり時間が消し飛んだりするのをお爺ちゃん幼女がものすごい勢いで修復したり《天球の魔女》の手にかかりそうになった《紅玉の魔女》を危ういところでフォローしたりとまさに縁の下の力持ち、八面六臂の大活躍。生命維持カプセルには絶対防御シールドでも掛けられているのか、どれだけ爆風や衝撃波が伝わってきても無傷だったりする。

 そんな彼女たちの暴れっぷりをカプセルのなかのわたしはただ黙ってぼんやりと眺めつつもふとこんなことを思った。

 まさか《少女殺人鬼》の理不尽な凶行もこんなしょうもない理由で行われたんじゃないだろうな、と。


 三十分後。

 おそらく時間も空間も魔女の手で操作されたのだから正確な数字ではないのは明らかだが、それはそれとして。

「……扶草菫」

 ……はい。

「……前回の不肖の弟子に引き続きこの度の不祥事、心から謝罪したい」

 いえいえ。

 棒読み口調になるのはお爺ちゃん幼女に対する不満ではなく、その両隣との温度差。

 なんでワタシが謝罪しなくちゃならないのよ?という目で不服そうな銀髪魔女と。

 なにか私は間違ったことをしたのでしょうか?とでも言いたげな天然ガス魔女と。

 コイツら人の心とかないんか?ないんだろうな。魔女だもんなコイツら。

 コイツらに挟まれて謝罪するお爺ちゃん魔女はまさしく中間管理職の鑑。

 恨み言や小言の十や二十軽く出てきそうだが年上と馬耳東風にいくらいっても時間の無駄だろう、彼女はできるかぎり恨みがましくため息を吐くと、

「すまぬがこやつらの謝罪は後回しにさせてほしい。時間がないからサクサク進めるぞ。まずは主の要望する究極魔法【不死の弔鐘】を譲渡することにしよう」

 そういってぱちん、と幼女の愛らしい指で器用に鳴らす。

 唐突にわたしの目の前に現れたのは、手術などに使われそうなステンレス製の銀色のお皿。

 だがその上に半月型のおなじく銀色の蓋が覆いかぶさっているため中身が見えない。

 確かクローシュっていったか。

 料理の温度や鮮度を保つための器具。

 あのなかに究極の料理よろしく究極の魔法【不死の弔鐘】も隠されているとか。

 クローシュのつもりで検索したらデーモン・コアが出てきて噴いたとかいう話を思い出す。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 目力こめて透視能力者のつもりで見つめる。

 ふっとクローシュが消える。

 中には魔法の秘伝書や魔法石や伝説の鐘などではなく。

 どっくん。どっくん。

 元気に力いっぱい脈打つ赤い神秘的なフォルム。保健体育の教科書で見慣れた図形。ああ。つい先刻あいつに潰されたはずの。生きていた。ああ。わたしの大切な。ちがう。ギリギリのところで理性のストッパー全開にしてやさしい幻想からつめたい現実に戻ってくる。

 目の前にあるのは他人の心臓。

 わたしの●●ちゃんではない。

「さよう。それは魔女の心臓。通称・魔鐘とも呼ばれておる代物。そいつを主の心臓を抉り取られたスペースに移植すれば、魔女ではない人間の器たる主でも【不死の弔鐘】は詠唱可能となる」

 移植。

 魔女の心臓を。

 少女であるわたしに。

「とはいえ、人の身で魔女の臓器移植という軽自動車にジェットエンジン搭載のごとき無茶をする以上、相応の代償は覚悟してもらわねばならん」

代償?

「主も《少女殺人鬼》との戦いの後の夢で見たであろう。魂が剥奪されあらゆる世界から己に関する記憶が己の存在ごと掻き消されると」

……でも、あいつは死なずに済むんでしょ?

「《少女殺人鬼》を【不死の弔鐘】で消し去ればな」

なら無問題ノーマンタイでしょ。

わたしは親指でからっぽの胸を指し、強気に催促する。ハリーハリーハリー。

 いくら言っても無駄ということに気づいた《黄金狂の魔女》は、なけなしの良心をはたいたかのような深いため息をつく。

「わかっておろうが所詮人間に過ぎない主が究極魔法を使ったところで、アレ相手では万に一つ程度の勝ち目しかないぞ。正直儂らでも勝てるかわからん。主が敗れたとしてもそれを見越した上でその戦いの記録をヤツを殲滅するためのデータに活用するのが本来の目的まである」

その時は絶対仇を討ってほしい。あいつが生きてさえいてくれればそれでいいから。

 出征する若者が残された家族を頼むような口調でお爺ちゃん幼女にいう。

 でも。

 あいつは絶対わたしが殺す。

 あいつは犬養棗を殺した。

 あいつはわたしの幼なじみの顔の皮を剥ぎ、喉を潰し、心臓を抉り取った。

 あいつはわたしの心臓を、わたしの大切な●●ちゃんを潰して嗤いやがった。

 「ざまあ」と言った。

 殺す。

 ぶっ殺す。

 クソ女絶許。

 胸元に繋がっていた管がいつのまにか消えて神話や幻想で魂がひとのからだに入るかのように魔女の心臓はカプセルの壁や生命のスープやその流動性、浸透率、抵抗力その他諸々の物理法則を一切無視して少女わたしの胸にすっと入っていく。

 まるであらたな●●ちゃんを身籠ったかのように。

 わたしの空虚だった心臓こころは新たな生命の息吹とともにじんわりと幸福で満たされていく。

 処女懐胎のマリア様もこんな気持ちだったのだろうか。

 ふと見るとカプセルの外から《黄金狂の魔女》が妊婦になった孫娘を見守るような目線。

 この魔女ひとがわたしのおじいちゃんおばあちゃんになった未来線もあったのだろうか。

 意識が溶ける間際、ふたたび彼女との別れの定型句あいさつが脳裏をかすめる。


───現世うつしよは夢。夜の夢こそまこと。扶草菫。よい現世ゆめを。






 魔女の心臓を移植し意識を失った彼女が拒絶反応を起こすこともなく無事に定着したものと思われるのと同時に、彼女の躰はこの最上位世界から消え去り百合世界へ何事もなかったかのように送還される。《少女殺人鬼》が大方を支配する無人の終末世界、静かなる地獄の始まりへ。果たしてこの賽振りはルビコンを越えるのか否か。

 三人の魔女は医療関係者の魔女たちに指示を出すと集中治療室から離れて医療棟を脱出し、《紫水晶の魔女》が缶詰めになっているであろうシーシュポス部署が入っている専門オフィスへと向かう。

 新人ではあるが歴代の魔女でも突出した魔力と魔法のセンスを併せ持ち、《魔星七姉妹》のクラスを一気に飛び越え《死星七姉妹》へと二階級特進した《紫水晶の魔女》。まさに魔女の星の下に生まれてきたような子。しかし、扶草菫のことになると目の色を変え暴走しがちでかなり危なっかしい。

 《黄金狂の魔女》が自ら教師役を買って出たのも彼女の矯正と教育を望んでのこと。

 その才を正しい方向に伸ばしていけば、必ずや自分たち以上の高みへと昇り詰めるはず。

 だが。

「先生」

「なんじゃ《紅玉の魔女》」

 かつての教え子、《紫水晶の魔女》より前に教師役を務めた《紅玉の魔女》にぞんざいな口調で返す。彼女がなにを言おうとしているのかわかりきっていたから。

「くどいようですがあの女の娘など使わずとも、すべて切り捨ててしまえば」

「くどい。《死星七姉妹》が承認した上にあの娘も指輪の光熱で署名した公式書類がすでに成立している以上、主の私情は通らぬ。損切りか継続かの判断は、すべて扶草菫のもたらした結果次第。それまでは主は無論のこと、儂ら全員いかなる判断も切断処理も許さぬ」

「チッ」

 露骨に舌打ちする彼女に対し、《天球の魔女》は先刻の大喧嘩が嘘のような静かな口調で訊ねる。

「《紅玉の魔女》ちゃんはまだあの子のことが気になってるの?」

「……何の話ですか?」

「《魔女イア》ちゃんのこと。あなたの大切なおともだち。ともだちというよりは姉のように慕っていたのかもしれないけど」

「……アイツはもう死んだ。もういない。どこにも。消えた魔女ヤツのことなど気にするわけが」

「《魔女》が死んだのは事故じゃ」

 《黄金狂の魔女》の言葉に静まり返る。

「あれは誰が悪いわけでもないし、どうあがいても避けられるものでもなかった。強いていえば運が悪かった。事故じゃ」

「『誰が悪いわけでもない』?先生、耄碌もうろくするにはすこし早すぎませんか?」

「なんじゃと?」

「悪いのはあの女。扶草茉莉。あの女がいなければ《魔女》と関わることもなかったし、《蒼玉の魔女》と恋に落ちることもなかったし、《蒼玉の魔女》と結婚することもなかったし、《蒼玉の魔女》と子どもをつくることもなかったし、《蒼玉の魔女》が死ぬこともなかった。

すべてあの女が悪い」

「だからあなたはあの子にやつあたりしているの?」

 母親が反抗期の娘に諭すような銀髪灰眼の魔女に対し、反抗期特有のナイフのような尖った目と口で返す赤髪朱眼の魔女。

「やつあたり?まさか?あの女の遺伝子を受け継いであの女の見た目も受け継いであの女の口調も受け継いでいるあの娘がたまらなく嫌でとてつもなく嫌いでとほうもなく大嫌いで吐き気を催すほど嫌悪している。ただそれだけの話ですよ」

「それをやつあたりというの」

 《天球の魔女》のため息。それに合わせるように《黄金狂の魔女》も援護する。

「扶草菫はいわば《蒼玉の魔女》の忘れ形見じゃ。妹分だったお主にとっては姪っ子も同然。もう少しやさしくしてやってはどうか」

「姪っ子?誰がですか?あの娘は血の繋がりなど何もない赤の他人です。魔女と人間のあいだには、人間と犬猫以上に生物としてのステージ格差があるんです。そんな下位生物ごときに縁が多少ある程度でやさしくしろなど、冗談にもほどがある」

「……血の繋がり、というのであれば無きにしも非ずじゃがな」

「?……先生、それはどういう」

 そんな話をしつつ歩行とも飛行とも空間ワ―跳躍ともつかぬ移動手段で彼女たちも無意識のうちにいつのまにかシーシュポス部署の専門オフィスに入館し、当該フロアに入ると慌てた表情の管轄の魔女たちが多重ステ音声レオで叫びながら駆け寄ってくる。

「《黄金狂の魔女》さま!」「《天球の魔女》さま!」「《紅玉の魔女》さま!」

「なにごとじゃ騒々しい」

「「「《紫水晶の魔女》さまが失踪しました!」」」

「………………なに?」

 《紫水晶の魔女》というパワーワードで一斉に凍りつく三人の魔女たち。

「こちらのメモを机に残したまま行方不明に」

「てっきりお手洗いか仮眠室に行かれたかと」

「そちらにご連絡などはなかったのですか?」

 再び多重ステ音声レオで混乱混声する彼女たちからひったくるようにメモ用紙を取り上げ、開いてみる。そこには丸々した可愛らしい筆跡が綴られていた。


「親愛なるゴルちゃん先生へ💛

菫ちゃんがピンチっぽいのでいってきま~す^^

心配しなくてもただ見守るだけなのでご安心を^^

はじめてのおつかいの気持ちで百合世界へGO!

                            《紫水晶の魔女》拝」


「あんの阿呆が」

 ぎゅっとメモ用紙を握り潰す。目配せで三人の魔女はそれぞれ阿吽の呼吸でそれぞれの魔女たちに指示をだす。それがおそらくは間に合わない、どうあがいても焼け石に水程度の対処療法にすぎないことをわかっていても。

 はじめてのおつかいだろうと授業参観だろうと百合世界への侵犯行為に変わりはなし。

 少なくともそう受け取るのが解釈上の正解。

 あとは向こうがどう出るかだけの話。

 これはもう損切りではなく、死なばもろともの最終局面。

 退路を断ってのオールイン。

 オールオアナッシング。

 そのための最善策を《死星七姉妹》の三魔女は知恵を振り絞って提示し、てきぱき指示する。

 ふと思う。

 これがきっかけで百合聖典の最終章【最終ラスト運命アポ黙示録カリプス】が発動するのではないか。

 もしかして自分たちはとんでもない百合史の最終局面に立っているのではないか。

 光と影に二分される百合聖典においてつねに影の役割を担ってきた彼女たちは、そんな終末を間近に控えたうすら寒い予感を抱かずにはいられなかった。


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