第3話 4月25日の悪夢

 四月二十五日。

 この日は真穂百合中学のすべての人間にとって忘れられない運命の日となった。

 無論、このわたしも含めて。


 犬養棗が来ていない。

 午前八時二十五分。いつも通り教室に入ったわたしが真っ先に気づいた事実。

 前の席がぽっかりと聖域のように空いている。あえて視界に入れないように着席。

 そのまま腕枕で五分間の仮眠を取ろうとするいつも通りの習慣。が、いつもの目覚まし時計はいない。仮眠はあきらめる。昨日のようなイレギュラーもある。教室の空気は重い。みんな上辺は平静を装っているもののあいつの話題を避けるという避けられない沈黙ジレンマの枷が不可視のおもりとなっている。

 犬養棗。

 いままで一度もわたしに先着を許したことがなかった早起きで優等生の幼なじみ。

 始業時間三十分前の登校がデフォで小学校の卒業時は皆勤賞と模範賞の二冠を達成。

 そんな彼女に遅刻はあり得ない。

 となれば病気か怪我か家庭の事情か。

 健康優良児である彼女の体質的に前者は考えにくいし後者も彼女の気質を考えると前もってわたしに連絡してくれる可能性が高い。まあそれは前者についてもおなじことだが。

 となると、登校途中不慮の事故による怪我。あるいは事件。まさかの誘拐。

 脳が事態の予想をどんどんよくない方向へ転がり落ちていくのを止めるように、あるいはとどめを刺すように───


 ガラッ。


 桜歯先生登場。いつものように教壇に向かう。

 否。

 いつものようにではない。

 いつもは始業時間開始と同時にものすごくいい笑顔で教卓を出席簿で八つ当たり気味に叩いて注目を集めてから朝礼を始めるのがルーティン。今朝は始業時間開始三分前に能面のような無表情で教壇に立ち、出席簿を教卓に置いて無言で生徒全員がそろうのを待つ。

 しん、と水を打ったかのように静まり返った教室。おそらく他の教室も先生たちが早めに登壇して生徒全員がそろうのを待っているのだろう。いつもは廊下から他クラスとのなかよしの子同士の複数絡まり合った黄色い混合おしゃ合唱べりが有線放送のように聞こえてくるが、今朝は放送局内でストライキでも始まったかのように一寸も聞こえない。

「遅れました!」「スミマセン」ちょうど三十秒前ギリギリのところでわたしと棗のように小学校からの幼なじみ二人組が息を切らせて飛び込んでくる。が、教室のただならぬ空気を察してかすぐさまそっと鞄を置いて静かに着席。全員がそろってしまう。運命の歯車が動き出す。

「……今日はみなさんに残念なお知らせをしなければなりません」

 滔々と述べる桜歯先生の口調と表情。それはテレビのドキュメント番組で観た交通事故でたいせつな一人娘を失った母親の顔にも似ていて。

 不意に一昨日夢で見た光景が落雷のように脳髄を切り裂く。

 あの子が殺された未来線。

 あの子がいない未来。

 心臓が跳ね上がる。体熱上昇。発汗。過呼吸。

「昨夜、みなさんのクラスメイト、二年A組の犬養棗さんが」

 やめろ。


 ───亡くなりました。


 タイミングを見計らったかのように鳴り響く始業チャイム。

 それは、弔鐘の音を思わせる無常の響き。




 それから後のことはあまり覚えていない。周囲の子たちの話によると悲鳴とも怒号ともつかぬ少女たちの金切り声があちこちの教室から一斉に噴火、まるでテロリスト集団に占拠された学校のような壮絶な有り様だったという。ある少女は訃報を聞くなり犬養棗への変わらぬ愛を証明するかのように椅子から崩れ落ちておいおい泣き喚きまたある少女は犬養棗への一途な恋心に酔い痴れるかのようにナルシシズムたっぷりにしくしく啜り泣きまたある少女は犬養棗への秘めたる情愛が巨大すぎるため彼女の死を受け入れられずおほほほほほと気が触れたような凄惨な笑みを自らの唇を噛み切って凄絶な血化粧に染め上げた顔面一杯に湛えた夜叉と化しそしてある少女は犬養棗の死に真っ先に殉ずるために祭りのハナを切るかの如きクソ陽気な絶叫とともに廊下を駆け出し階段を駆け上がり屋上のフェンスをよじ登り屍者の手向けとばかりに豪快な人間花火を打ち上げるもすでに教諭陣による非常事態の準備万端さによって一命を取り留める。その後も次々に涙と洟と涎を飛ばしながら少女たちの人間花火第二弾が打ち上げられるも下で待機していたレスキュー隊の救助マットにより不発。他にも泡を吹いてぶっ倒れる子や胸痛を訴えてうずくまる子、ガラスをたたき割ってリスカする子、体育館のカーテンを使っててるてる坊主になりかける子など多数。

 幸い教師たちのまるで・・・こう・・なる・・こと・・予想・・して・・いた・・ような迅速な動きでそれ以上被害は拡大することなく、病院へ搬送された生徒以外は各自保護者の付き添いや教師引率のもと集団下校となった。

 わたしと《百合の季節》の一部メンバーを除いて。


「扶草先輩」

「ん?」

「昨日は香の怪我を手当していただきまして、ありがとうございました」

「わたしはなにも。礼を言うならあいつに──」

 もういないけど。

 そんな不謹慎な続きの台詞に気づいたのか否か。薫ちゃんはぺこ、と黙礼すると他の泣いている子のそばに駆け寄りそっとハンカチを差し出す。犬養棗の訃報の余波はいまだ止むことなく、ここ教員専用の会議室でもあちこちで啜り泣きや慨嘆のため息、どこで購入したのか数珠で拝む音や仏壇の鐘の音まで聞こえてくる。まだ葬儀も済んでないのに。

 普段生徒の入室が許されない教員専用会議室に、わたしと《百合の季節》の一部メンバー10名ほどが集められている。集合時刻3時厳守とのことだったが、先生たちは一向に姿を現さない。もっとも狂気のお祭りじみたあの後始末に手間取っていることを考えると責める気にはなれないが。

 故人と特に縁の深い者たちだけに情報公開する腹積もりだろうか。

 そもそもあいつがなぜ死んだのか死因すら知らないのだから。

 あるいは事情聴取か何かか。警察が来たりして。

 突然謎の黒幕GMが乱入してこれから皆さんにデスゲームを開始してもらいます、なんて宣言しようものなら全員一斉に自害して勝利者なしでゲームが成立しなさそう。

 そんな不謹慎を通り越してアホすぎる知恵の輪を脳内でこねくり回してしまう。

 すべてもうどうでもいい。

 わたしにとってこの世界は終わってしまったのだから。

 犬養棗は死んだんだ。

 犬養棗は亡くなった。

 犬養棗はもういない。

 どう言い換えようと覆ることのない事実。

 ふつうの主人ヒロイならあの子の死に顔を見るまでは死んだなんて絶対に信じない、と涙をぬぐって己が心を奮い立たせる場面なのだろう。

 だが、わたしはふつうではなかった。

 こんな状況下でも冷めていた。自分でも驚くくらい。

 さっき桜歯先生に棗の死を告げられるまでの覚悟と告げられたときの衝撃と告げられたあとの諦観。こうした過程を経てわたしの心はすでに喪の儀式を済ませてしまったのかもしれない。哀しみという名の澱みはすでに心という名の貯水槽タンクからからきれいさっぱり洗い流した。あとの人生はあいつのいない空虚な世界をあてもなくさまようだけ。

 所詮土瀝青女に百合の花なんて咲くはずもなく。幼なじみの期待に応えられそうにないみじな自分。棗ごめん。死者に謝罪なんて卑怯な生者のやることだ。頭でわかっていても心がついていけない。これからのわたしは幼稚園の頃のように誰と手を取り合うことも誰と歩みを共にすることもなく他人をノイズか背景か小石かのごとく異物として切断処理するだけの狭い世界で一生を終えるのだろう。

 そんな未来の年金制度を憂う若者のような灰色一点思考に陥っているうちに会議室の時計はいつのまにか3時30分を指していた。そろそろ職員室に催促しにいこうと椅子から腰を浮かしかけると、廊下側からなにやら言い争う気配が近づいてきて。


 カチャッ。


「ですから、全校集会などをおこなって数百名単位の暴動リスクを背負うよりは各クラス三十名ずつに分割したほうが適切なリスク管理と何度申し上げれば」

「誰も責めていない。貴女がそれでいいというのならそれでいい」

「責めていますよね。なんですかその目は」

「この目は生まれつき」

 口角泡を飛ばしつつ入室する桜歯先生と連れの女性。いつもものすごくいい笑顔を絶やさぬ彼女にしてはめずらしく目の色を変えてヒートアップしているのに対し、隣の女性は中学校には場違い感が否めない海外の占星術師めいた濃い暗桜色のフード姿。いかにも無関心そうに肩をすくめつつ桜歯先生の怒気を飄々と受け流す。しかし睨むような目つき以外の顔立ち、全体的な雰囲気はどこかしら彼女と似ていないこともない。姉妹か従姉妹だろうか。

 さすがに桜歯先生は喪の空気を察したか、こほん、と咳払いして議長席へ。

「皆さん、こんな非常時にお呼び立てしてしまい申し訳ありません。本来でしたら亡くなられた犬養棗さんのご冥福をお祈りすべきなのですが」

「時間がない」

 ばっさり。ぎろ、と忌々し気に睨む桜歯先生になんら頓着なく隣に着席した彼女はわたしたちを値踏みするかのごとく睨め回すと、

「はじめまして、真穂百合中学生諸君。そして《百合の季節》の花嫁たち。私の名前は桜歯未来。理事長命令により非常勤理事として今回の非常事態に当たることになった。犬養棗の死はショックだろうが今は時間がない。今回君たちの果たすべき任務はただ一つ」

 そういって手元の資料と思しきプリント用紙をばんばん、と八つ当たり気味に手の甲で叩いて机に置く。

「犬養棗を殺した犯人逮捕に協力してほしい」


 遺体の発見現場は真穂百合小学校西附属公園。

 通称、まほしょ公園。

 昨日の夕方、棗の最後の笑顔を見た、あの場所だ。

 今日の早朝、通学路の安全を先に確認するため巡回中の学生ボランティアが公園から犬が異常なほど吠えているのが聞こえて不審に思い駆けつけたところ、腰を抜かして声も出ない老婆と彼女を守ろうと身を挺して吠える忠犬、そして目の前には無言で仁王立ちしたまま事切れている少女の亡骸。

 死亡推定時刻は今日の午前2時から3時のあいだ。

 死因は心臓を喪失したことによる心不全および失血死。

 

 警察の内部資料を非合法に拝借したかとしか思えない機密情報のオンパレード。

 他人事ながら肝を冷やすわたしとは対照的に、ホチキス止め10枚程度の資料に憧れのひとであり最愛の彼女であり最高の推しであった犬養棗の死に様を克明にまざまざと再現して脳を焦がしてしまったのか、再度しくしくと啜り泣き咽び泣く少女たち。さっきまでさんざん目を赤く腫らしていたのに一体どこにそんな余剰の水分を隠し持っていたのか。よく脱水症状を起こさないものだと正直感心を通り越してあきれてしまう。同時にむしろ彼女たちの反応のほうが正常で平然としているわたしのほうが世間の目から見たら異常なのかもしれない、そんな根源的な疑問符が脳裏と良心をかすめる。

「あ、あ、あのっ!!し、質問いいですか!?」

 つっかつっかえな口調に一瞬薫ちゃんかと思ったが、彼女は左隣の席で一心不乱に資料に見入っている。挙手したのは向かいの席に着席していた子。さっき数珠で拝み鐘を鳴らしミニ仏壇立てて棗の菩提を弔っていた子。確か昨日の放課後ティータイムでお指くちゅくちゅとか下ネタぶっこんで来た子。

「ああ。当然答えられない質問もあるが、それでよければ」

「こ、こ、今回の事件は、《少女ガー魔女ター》の犯行だと思うのですが、い、い、いかがですか!?」

 ざわっ。

 愁嘆場だったはずの場面がざわつく。泣き濡れていたはずの子たちの泣き顔が一斉に驚愕に変わる。って、《少女ガー魔女ター》?

怪訝な面持ちになるわたしに、そっと耳打ちしてくる薫ちゃん。

「連続少女失踪事件の首謀者とも噂される魔女のことです。ご存知ないですか?」

「そもそもその事件知らないし」

「まあ、十年以上も前に起きた、うちではない某地方都市が舞台の未解決事件ですので。都市伝説やオカルトの類いに首を突っ込むと真っ先にでてくる話ではあるんですが」

 生憎わたしは都市伝説やオカルトや占いに傾倒ダイブするタイプではないので、その手の話にはとんと疎い。それにしても今日はなぜか吃らないな。どうしたのか。訝しむわたしをよそに、桜歯未来はもう一人の吃りっ子の質問を容赦なく切り捨てる。

「ノーコメントだ。ただ個人的な見解を言わせてもらえば、その事件の失踪者は殺人はもちろん、死亡すら確定していない。唯一残された物証が失踪者と同じ型の血液が付着した布切れだったらしいが、殺人事件の証拠としてあまりにも弱い。つまり、遺体が残された本件を同一犯による連続事件として訴えるには、根拠が脆弱すぎると言わざるを得ない」

 彼女の言っていることを理解しているのかどうか、質問者は質問するための極度の緊張感から解放された反動で酸欠金魚よろしくおくちをパクパクさせて首をコクコクうなづくのみ。

「……他に質問は?なければこの後警察による事情聴取が予定されているので、引き続き幸…桜歯先生の指示のもと、この部屋で待機していてほしい」

 そういって桜歯先生には目もくれず声もかけず用は済んだとばかりに一陣のよう(レス)に扉を開けて退室しかけたその時、まるで忘れ物を取りに戻るくらいの気楽さで、

「あ、そうそう。扶草菫と小山内薫。この二人は直接事情を聴きたいので私のあとについてきてくれ」

 そういって、振り返りもせずに今度こそ退室。

 ぽかんと口を開けたままのわたしたちに、ばんばん、と八つ当たり気味にプリントで机を叩き、「追いかけて。あのひと、ほんとうにあなたたちのこと置いて行っちゃうから」

 桜歯先生の切迫感ある声色に我に返り、薫ちゃんとハモるように一礼して退室すると、暗桜色のローブ姿はすでにはるか向こう廊下の突き当りの階段を昇るところ。

 負けるか。十代の若さにかまけた全力ダッシュ。薫ちゃんもバスケ部だけあってシャトルラン等で鍛えられた脚力はかなりのもの。彼女が3階に昇りきったところを三段飛ばしジャンプで余裕で追いつく。息も切らすことなく。そんなわたしたちを振り返ることなく、

「君はもう犯人を知っているんだろ?」

 どくん。

 こいつ、なにものなんだ?

 こいつ、なにを言っているんだ?

 こいつ、どこまで知っているんだ?

 完全に不意を突かれた完璧に想定外の台詞にわたしの心臓は跳ね上がり、わたしの脳は三つの黒い疑問符で塗りつぶされ、わたしの首には不安と焦り由来の精神的な発汗が首切り線のように一筋伝う。こいつの正体は?占星術師で生計を立てつつ本業は名探偵なのか。あるいは占星術師のガワを被った魔女の類いなのか。もし魔女ならいまのわたしがすべきことは。

「も、もう犯人を知っている……?ま、まさか、扶草先輩がい、い、犬養先輩を殺した犯人なの……!?」

 走ってきたせいか、いつものつっかえ口調に戻った薫ちゃんが蒼ざめた表情で後ずさる。

 飛んだ濡れ衣だ。ちょっと傷つく。

「ふむ、実は主人公ヒロインが真犯人という線もアリか」

 ねえよ。てかお前も乗るな。

「それで、犯人の名は?」

「……《少女ショート殺人サーキッ》」

 苛立たしげにそう答えると、彼女もなぜか苛立たしげに、というか桜歯先生のように八つ当たり気味にすぐ傍の非常ベル横に設置してあった消火器をなぜか拳で連打する。わたしの代わりに赤い容器を蛸殴りにしているかと思ったがそういう陰険な思惑ではないらしく。そして、そんな粗野な振る舞いとは対照的に、あくまでも理性的な口ぶりでわたしに訊ねる。

「君、その言葉をあの夢のなかで『はじめて』知ったんだね?」

「……そうだよ」

「ちょっと目を見せてもらっていいかな?」そういって占星術師は本人の許諾なくおでこがくっつくくらいの超至近距離で、まるで中学生わたしの眼球を天球の星を観測するかのようにつぶさに観察する。

「……ありがとう。嘘は言っていないようだね」

 そういって解放した彼女の目は教育者モードの桜歯先生の真贋の真眼をも凌ぐ、まるで魂そのものを覗き込んでいるような───魔眼、だろうか──人外じみた根源的な畏怖のオーラを放っていたが、もちろん口にはしない。

「そして小山内薫」

「は、は、はい?」

「君は昨夜、犬養棗から連絡を受けているね」

「ひへっ!?」

「通話かメールで、自分が殺される予言とまではいわないが、今夜自分の身に何かが起きることを匂わせる内容を伝えてきたのでは?」

「な、なんでそれを……!?」

 驚きで目をまんまるに見開く薫ちゃんに対し、人外占星術師は自分から答えるつもりはないらしく、先を続けるように桜の花びら模様をあしらった手袋でうながす。

「は、はい。そのとおりです。あの夜メールで『もし僕の身に今後何が起きたとしても』」

「『僕』?」

「あ、犬養先輩はメールやラインなどの文章だと一人称が『僕』なんです。そ、それで、『もし僕の身に今後何が起きたとしても、君が悩んだり落ち込んだりする必要は一切ない。もしどうにもならなくなったらそのときは、菫か桜歯先生に相談したまえ。きっとすべてうまくいく』とメールが送られてきました。い、犬養先輩はよく芝居がかった文章を送って来るのでこの時もそうだと思っていたし、まさかほんとうに何かが起きるなんて……」

「ありがとう。よくわかった」

 そういって名探偵のように安楽椅子で長考に耽るのではなく、芸術家のように天啓のひらめきが降りてきたがごとく、一瞬だけ神秘のヴェールを妖しく揺らめかせると、

「謎はすべて解けた。いや、解けたというよりとっくにわかっていたのだが、君たちの証言による確証がほしかった。これで次に進める」

「あ、あの!桜歯先せ…さん!」

 インターセプトするかのような薫ちゃんの発言に、占星術師はなんら気を悪くすることなく、

「未来でいい。アレと同じ呼び方は御免だ」

「み、未来さんは警察の方、ですか?そ、そ、それとも、占星術師のおねえさん?」

占星術師アストロジャーは世を忍ぶ仮の姿。正解とはいえないが、この世の森羅万象を見通せるという意味ではまちがっていない」

 そういって、さっき殴打していた消火器を今度は西瓜の中身を確かめる八百屋のおっちゃんみたいにぽんぽん、と叩く。ぽんぽん、というよりかんかん、といったほうが近いか。辺りを見渡すとさっきまでの狂乱っぷりを物語るかのようにあちこちの無人の教室のガラス窓が叩き割られ床には破片が散らばり、血や髪の毛や嘔吐の跡が生々しく残されていた。

 そんな昭和の遺物じみた世紀末学校の荒廃した光景を嘲るような、でもどこか慈しむような、そんな形容矛盾した笑みで彼女は非常ベルのボタンを押す。小学校でおなじみ地震火災の避難訓練で聞き馴染んだあの音に被せるように消火器のピンを抜いて構える占星術師。レバーを握って白い粉末を3階フロア全部がホワイトアウトになるくらいばら撒きまくる。逃げ場も回避スキルもないわたしたちは当然のごとくあられもないまっしろしろすけな姿に。

「ぺっ、ぺぇっ、ぶぇっ。み、未来さん、なにを……?」

 口に入った粉末を可愛らしく吐き出す薫ちゃん。

 顔中を覆った白い粉末を拭い取ったわたしたちは、目の前に広がっていた光景に絶句する。

 春の夜風が心地いい外の空気。

 星空の下のバスケットコート。

 バスケットボールが置きっぱのままのベンチ。

 ブランコにシーソーに砂場に滑り台。

 真穂百合小学校西附属公園、通称・まほしょ公園。

 わたしと犬養棗が生前最後に出会った場所。

 ゴールポストよりもさらに高い頂にある時計台の針は二時を指している。

 夜中。草木も眠る丑三つ時。

 わたしたちは真穂百合中学校舎の三階から一歩も外にはでていないはず。

 しかも時刻もまだ夕方の四時にすらなっていなかったはず。

 さっきの消火器を目くらましに時空間跳躍でも行ったのだろうか。

 つまり、彼女の正体は。

「《未来カサ魔女》」

 自嘲気味に答える占星術師・桜歯未来。否、魔女か。

「だが、できれば君たちには未来と呼んでほしい。魔女としてのその二つ名はもう抹消されたものだし、《死星七シスタ姉妹ーズ》はもちろん、《魔星七マスタ姉妹ーズ》の末席すら汚せなかったただのモブ魔女だし、そもそも天獄から追放された身だからもはや魔女を名乗っていいのか怪しいくらいに魔力も魂も劣化しているし───って、愚痴と自虐にしかなっていないな、これでは」

 クックックッと自らを嘲笑うように自らのヴェールを軽く撫でる魔女。が、その発言とは裏腹に表情は生き生きとしているしローブはみなぎる生気を湛えるかのようにさっきまでの暗桜色から満開の明桜色に明度および彩度が増して輝いて見える。

「言っておくが、私には時空間跳躍能力の類いは使えない。ここは真穂百合中学でもごく限られたものだけが知っている量子型閉鎖空間、【シュレディンガー秘密シークレット基地ベース】。そこに私の未来視で得た視覚情報を投影しているだけの仮初めの電子時空間にすぎない。そして、いまの私は天獄からこの世界に追放されあらゆる迫害や魔女狩りの手を逃れるため真穂百合グループの庇護を受け、その庇護の対価として理事長の要請があれば非常勤理事として出動するだけの敗残者、堕ちた魔女にすぎない。それでも、ごく一部の『例外』を除けば、この世界におけるおおよその森羅万象は読み取ることができる」

 そういってわたしを迷いなく指さす。

「君の幼なじみを殺した、そして数々の少女失踪事件で跡形もなく少女たちを殺し続けた《少女喰いの魔女》こと《少女殺人鬼》。彼女および彼女の背景である秘匿情報を教えられるのは私だけだ。だからこそ理事長から直々にご指名頂いたのだろう」

「あのひと、に」

 ぽつん、とつぶやく。

 理事長。

 もう長いこと会っていない、わたしの───。

「もちろん、君がこの件から手を引いてふつうの中学生に戻るのも君の自由だ。だが、果たしてそれは本当に故人かのじょの遺志にかなうものなのかな」

「……どういうこと?」

 勝手に幼なじみの遺志を代弁されたわたしは不快感を目一杯に滲ませて聞き返す。

 しかし、海千山千で生き延びてきたであろう《未来視の魔女》は平然と受け返す。

「そもそも《少女殺人鬼》に殺される運命はずだったのは、君だ」

 …………………………え?

 あまりにも想定外すぎる回答。

 予想の範囲外から発射された言葉の超長距離砲に攻撃されたことすら気づかなかった。心肺停止状態に陥った被害者わたしに構わず魔女は無慈悲な超長距離砲弾をとどめとばかりに発射する。

「おそらく彼女はそのことを知っていたんだろう。君が魔女の夢を見たと語った日にお祝いと称して教室でパーティを勝手に開いたのはあの規律に厳格な担任教諭を誘導するため。彼女にそっと耳打ちしたのは君の色恋沙汰の相談や百合の開花予想時期とかではなく、文字通り《少女殺人鬼》とのXデーが間近に迫ったことを伝えるため。そして彼女から理事長に、そして非常勤理事の私へ緊急要請のホットラインが繋がったわけさ」

 言葉が出ない。

 あの時わたしは棗が勝手なことを桜歯先生に吹聴しているとばかり思いこんで、ヤマタノオロチに捧げられる村娘Aの心情つもりでいた。本当はあいつのほうが村娘Aだったのに。そして、本当はスサノオノミコトだったわたしは村娘Aを守ることなく何も知らず何も気づかず何もしない道化にも等しい無能なクズ勇者として表舞台から退場。しかし、いまだヤマタノオロチが生きている以上、舞台裏で村娘Aに続いて次の犠牲者となるのはまちがいなく───

「もし君がこのまま手をこまねいているのなら、ほぼ100%の確率で君は《少女殺人鬼》に殺される。あの子の死も無駄ということだ。だが、もし君が彼女の遺志を継いで夢で見た景色を再現するというのであれば」

 怒りにも等しい真紅の決意が全身で滾る。それを眦に滲ませて彼女を睨む。堕ちた魔女は愉快そうに手袋でわたしのほっぺをぷにぷにもちもち鷲掴みに。決意削がれるからやめろ。こそばゆいしくしゃみでそう。

「あ、あ、あのっ!!」

「ん?」「どうしくちっ」

「お、お、おふたりで盛り上がっているところ恐縮なんですが、さっきから魔女とかショートカットとか、な、なんのおはなしですか?が、《少女喰いの魔女》って例えじゃなくホンモノの魔女なんですか……?そ、それに本当は扶草先輩が殺されるはずだったって……?」

 自分のいった台詞の意味にはじめて気づいたように蒼ざめる薫ちゃん。

 ていうか、こんなおとぎ話みたいなおそらくは禁則事項だらけの極秘情報、こんなに話していいんだろうか。

 くちっ。

「……ここは量子型閉鎖空間、世界のどこにでもあるが同時にどこにもないゆらぎの場所。ゆえに、この世界の根幹にかかわる伝達困難な禁則事項でもここでなら話すことができる。それに、君も夢でおおまかなイメージとしては理解できているだろうが、やはり明確に言語化したほうがいいだろう」

 それはその通り。

 だが、急に理解のある年上面して頭を撫でるのはやめてほしい。

 ぱっぱ、と撫でる手を振り払うとなおのこと面白そうに撫でようとする彼女がなんかもう癪だった。




 百合ゆり中学校。

 読んで字のごとく魔法まほうで守られた百合ゆりの中学校。

 ほぼすべての役職から降りているが真穂百合グループの実質的な支配者で唯一役職に就いている学校法人・真穂百合の理事長・扶草茉莉ふそうまつり。一介のニンゲンにすぎない彼女と天獄の魔女でもトップ集団の《死星七姉妹》がどのようにしてかかわり合うようになったか、そして彼女たちのあいだでどんな契約が交わされたのかは定かではない。ただわかっているのは、真穂百合中学はじめ彼女の影響下にある小中学校は魔女の資質があると見込まれた少女を選抜するための機関システムだということ。君は理事長から魔女についてなにか聞いたことはあるかい?ない?本当に?でも、魔女の資質を有した少女ガール候補生カデッツとしてふつうの中学生とは異質だという自覚はあるみたいだね。百合の咲かない土瀝青女。他人がひとの姿形にみえないといった異常な症状。それは君が魔女の心臓を擁する玉座としての「魂」が、もはやひととしてのそれから逸脱した証左なのかもしれない。もっとも、魔女の資質を有していても陽キャでコミュ強な子もいるから断定はできないが。

 すまない、話が逸れたね。ともかく、最上位世界たる天獄へ少女の魂を定期的にお届けすることで、この世界の領域不可侵および安寧の保証を対価とした契約が交わされているのでは、と推測している。無論、魔女の魂というこの世界のニンゲン目線からすればとほうもない超越的ブレイク進化スルーを目指す以上、届けられる少女の魂にも尋常でない強度が求められる。【魔女の試練】という三百六十六回もの転生を繰り返しても経年劣化するどころかなお強度を増す突然変異クラスの魂、そうした人外じみた少女の魂のみが天獄へ入ることが許される。ほとんどの魂は【魔女の試練】に耐えきることなくわずか数回程度、多くてせいぜい十回前後の転生でほぼ例外なく経年劣化を引き起こしあえなく崩壊、魂の消えた肉体はそのまま原因不明の突然死を遂げる。あるいは自らの意思で魂の消滅を望んで自己崩壊する場合もあるが、どちらにしろ魂の消えた肉体は突然死を遂げる。少女たちの魂の旅程はそこでお終い。輪廻転生の輪からも外れ、そのまま虚空の闇へと消えることになる。おそらく少女から魔女へのジョブチェンジを果たせるのは鮭が遡上して無事に産卵を終える確率よりもずっと低いだろう。

 それほどの代償を支払ってまで百合世界の安寧がほしいのか?答はイエス一択だ。君も夢で見たように《死星七姉妹》クラスともなれば自由に世界を書き換えることができる。もし彼女たちがその気になればこの世界をゼロから新たに創り直すことも可能だろう。それこそ神様がたった7日でこの世界を創ったように。その場合、彼女たちが新たな神様になるのかな。魔法とはイメージの世界、想いの昇天、呪いの果てにあるものだ。そして、魔女とは魔法を使うことに世界で一番長けた生物だ。神様のまねごとなんて彼女たちにとってはお茶の子さいさい、お茶漬けをつくるよりたやすいことだろう。そんな彼女たちに理想の世界を乗っ取られるくらいなら、おそらく理事長は彼女たちの足を舐めてでも百合世界の存続と安寧を望んだんだろう。それに、言葉は悪いが取引に使われるのは生きている人間でなく死者の死後の魂、それもごく一部の選ばれた少女のものだからさして良心も咎めないし実利的な観点からも申し分ない。所詮この世界は生者のものだからね。死者に人権など存在しない。

 こうして一見一方的な不平等条約のようにも見えるが、百合こち世界側にとっては不可侵条約というだけで十分すぎるほどうまみのある取引なわけだ。しかし、《死星七姉妹》という強大すぎる力と関わる以上、必然的に外部からは悪しきゆがみやノイズ、不確定因子をも呼び込むことになる。そのなかでもとりわけ大きく厄介なもののひとつが───。

 《少女殺人鬼》。

 少女の皮を被った不死の化け物。

 彼女の正体はなにか。彼女の目的はなにか。一切合切何もかもが不明。

 私の見た限り、人間サイドも魔女サイドも彼女についての詳細はいまだ知り得ていない。この世界での彼女の痕跡は記録される限りでは、数年から数十年に一度の割合で連続少女失踪事件を引き起こしているということだけ。なぜ彼女の犯行と断言できるのかって?事件の被害者には私とおなじく天獄から追放された魔女も含まれている。おそらく真穂百合グループの庇護を受ける前に運悪く彼女の襲撃を受けたのだろう。誓ってもいいが、魔女を殺せる人間なんてまずいない。《死星七姉妹》が直々に出張るかその直轄組織《スターイトとすブレイものカー》が命を受けて出張るか、いずれにしろ天獄の星民レヴェルでないと無理。

 ただ───。


「ただ、なに?」

「今回、《死星七姉妹》は究極魔法【不死の弔鐘】を君に託した。つまりそれは、彼女の斃し方を知っているということ。私には見通せなかっただけで、《少女殺人鬼》についてのなんらかの情報はすでに把握されているのかもしれない」

 めずらしく難しい顔で考え込む占星術師の魔女。

 そこにさっきから何やら不満げな顔をした薫ちゃんがついに物申す。

「み、み、未来さんはずるいです!」

「ずるい?」

「未来が見通せるならなんでそのことを犬養先輩に教えてくれなかったんですか!!?そ、そ、そうしたらこんな悲しいことにならずにすんだのに……!」

「バタフライエフェクトって知ってる?」

 そういう彼女の目は会議室でわたしたちを値踏みしたときよりもさらに冷たい蔑みの色をしていた。

「ば、た……?」

「反論その①。基本的に未来の事象を過去の人間に伝えるのは特級クラスの禁則事項として固く禁じられている。どんな影響を及ぼすか予測困難だし、下手をしたら連鎖反応で全宇宙が消滅する最悪なシナリオもあり得るのだから。そういう大人の事情を加味斟酌しギリギリの綱渡りしつつ最善を尽くそうとしている現場の人間に、上っ面だけ見てぴえんして文句つけてくる無垢イノセントお子クレイマーには正直イラッとする」

「え、え……?」

「反論その②。君は自分の大切な人間に訪れる死の運命を回避せよ、というけど、それは裏を返せば君以外のひとにとって大切な人間たちに訪れる死の運命を甘受しろ、ということ。犬養棗や扶草菫の死の運命を回避した結果、無関係の人たちに取り返しのつかないほどの多くの死をもたらす災厄にして最悪なIFシナリオも充分にあり得る。君には自分たち以外の人間に死という最悪の外れくじを引かせてもその後の日常を笑って過ごせる覚悟はある?」

「ぐっ……」

「反論その③。私は真穂百合グループの庇護を対価として未来視はじめ先方の有益となる諸々のサービスをその要請に応じてその都度提供している。この劣化した魔力や魂を酷使してね。で、文句をいう君は対価として私に何をくれる?お金?魔法?それとも躰?躰は大人でも心は子どものままの君に一体なにができるのというの?」

「ねえ、もうその辺で」

 目に涙をいっぱいに溜めてしゃくり上げる寸前の薫ちゃんを見て割って入る。大人げなく大人の武器を使って散々子どもの無垢な瞳を嬲った魔女は反省心ゼロの顔で、さらに追撃を仕掛ける。

「犬養棗を喪った悲しみを胸いっぱいに溜め込んで持って行き場がないから私にぶつけた、といったところかな?そんな子どもじみた八つ当たりは現場の大人からすれば迷惑以外の何物でもない。私でなく犬養棗を殺した当人に直接言ってやれと」

「できるなら直接いってるよ!」

 子ども特有の感情ダムの水位がついに限界に達し、決壊する。激情に駆られるままさらに言いつのろうとするも、なぜか途中で涙声が途切れる。

「?どうしたの、薫ちゃ、ん……」

 わたしも途中で声が途切れる。

 二の句が継げなかった彼女が震えながら人差し指で指す先。

 そこには。

「言ったでしょ?文句を言うなら殺した当人に直接言えって」

 わたしたちの視界に飛び込んできた予想すら許されざる光景。

 夜中の公園の入り口からなかへ闊歩する真穂百合中学の制服。

 それは昨日別れたあの幼なじみと九割九分九厘変わらぬ面影。

 犬養棗。

 死体が歩いている。

 否。

「ここは私の未来視で得た視覚情報を投影しているだけの仮初めの電子時空間。いま再生しているのは四月二十五日午前二時三十五分真穂百合小学校西附属公園で実際に起きた出来事の残像にすぎない。そして本来ならもう一人招かれざる客もいるはずだけど、彼女は情報量過多で投影不可能な《少女殺人鬼》。よって、犬養棗の無音声パント映像マイムみたいになってしまっている」

 彼女の言う通りだった。

 棗はいつもと変わらぬ見た目イケメン中身乙女のまま、昨日のわたしたちと同じように西側に置かれたベンチのほうへ向かう。誰かと談笑している、というよりはどこか申し訳なさそうに苦笑いを交えての釈明。どんな内容の会話を交わしているかまではわからない。だが、空気の滑らかさから察するに、すくなくとも顔見知りの関係であることがうかがえる。

 そうこうするうちに、棗の口を開く回数が少なくなり、それと反比例するかのように、お言葉ごもっとも、うんうん、とまるでクレーマー対応の真摯なオペレーターのように相槌を打つだけの回数が増える。そして何を決意したのか、昨日の夕方と同じくベンチに置きっぱのバスケットボールを手に取ると躊躇いなくベンチからゴールポストを目指してえげつないディープスリーを解き放つ。

 月明かりに照らし出された暗闇の褐色ボールは、夕日に照らされた橙光の褐色ボールに勝るとも劣らないうつくしい放物線を描いて。

 しゅぱっ。

 また入れやがった。

 昨夕の再現映像のように。

 よしっ、という雄叫びが聞こえるくらい渾身のガッツポーズ。

 が、そんなことしている場合ではないことは、その直後の彼女のさびし気な笑みでこちらにまで伝わって来た。いったいなにが。

「……でも、やくそくは、まもってもらうよ」

「え?」

「きみには、そうするけんりと、ぎむがある」

 目を赤くした薫ちゃんの棒読み台詞。それが棗のくちびるの動きを読み取った読唇術だと気づくのに数瞬かかった。それがなにを意味するかを脳が咀嚼するのにさらに数瞬。

 そして。

 彼女は憐れむような、慈しむような、弱々しい笑顔で手刀をそっと首にかける。

「なるべく、くるしまぬよう、たのむよ」

 手足が勝手に駆けだす。彼我の距離はおおよそ二十メートル弱。全力ダッシュならまだ充分間に合う。だが。

「ダメだ。これは過去の再現映像にすぎない。君が行ったところで無駄だ」

 そういってわたしを捕らえる魔女。ならなんで止める。

 抗おうとするも後輩の猛禽類めいた絶叫がすべてが終わったことを知らせる。

 蒼ざめた薫ちゃんの真っ赤な目が捉えた先。

 そこには。

 顔の皮を丸ごとべろんと剥がされついでに形のいい鼻梁と唇も平らに整地され表情筋と眼球が剥き出しにされ喉を潰され首周りは親指と中指で作る輪に入るくらい骨ごと圧縮され胸にはあばらごと貫通した真っ赤なドーナツの穴がぽっかり空いた廃校小学校の理科準備室にでも捨て置かれていそうな呪いの人体模型と化した何かが。

 犬養棗が立っていた。

 全身に血液を送るポンプが無くなった以上、胸から溢れでる鮮血は泉のように噴きだすこともなく、赤い液体がぽたぽた力なく滴り落ちて、足元に不憫な水たまりを形作る。

 それは角度を変えて見れば、月明かりの清らかな影と化して、まるで幼なじみとの思い出のベンチを守るために弁慶の立ち往生を果たした、気高き誇り高き少女の像のようでもあって。


 >世界の顔なき顔の皮を剥いで真理を突き止めよ。

 >存在の声なき声の喉を潰して世界を堰き止めよ。

 >真理の心なき心の魂を消して存在を繋ぎ止めよ。


 【不死の弔鐘】という超圧縮概念による魔鐘の一節。

 それを忠実に再現した通過儀礼のごとき少女の懇切丁寧な殺し方。

 《少女殺人鬼》を殺すための究極魔法が《少女殺人鬼》が殺すための殺人手法のように扱われたのは何の皮肉か何の因果か。

幼なじみの亡骸を晒された怒りで脳の回転数が青天井に跳ね上がる。彼女の死を無駄にしないため、なんて戯言はいわない。彼女の死をなかったことにするため。ただそれだけのために特化した思考回路。

 だが。

「クソが」

 まるで自分の口の悪さを聞かされたような既視感。堕ちた魔女はそう毒づくや怒りで頭の澄み切ったわたしを右手に恐れで混乱状態に陥った薫ちゃんを左手に抱え両手に花ならぬ両手に米すなわち米俵担いだお米様抱っこの要領で公園から全力疾走。逃げる。駆ける。跳ぶ。公園を出て子どもの頃よく通っていた桜並木通りを数百メートル一気に突っ切って河川敷の土手に跳躍のリズムで上がりさらに駆けて行き着く先は国道が隣接する秋穂市へと連なる真穂大川に架かった真穂百合大橋。

 とりあえずここが安全地帯なのか、ふっと力をゆるめてわたしと薫ちゃんを歩道上に降ろす。こんな物々しい占星術師の恰好して中学生ふたり抱えて全力疾走しても息ひとつ切らしていない。でも、顔色は病人のように蒼ざめていた。まるで薫ちゃんの悪い顔色が伝染うつったかのように。

「逆探知された」

「「は?」」

 条件反射的に聞き返すわたしたち。それに構わず、彼女は一人反省会を始める。

「まさか《少女殺人》自身が待ち伏せしていたなんて。もうここは単なる過去の再生映像の会場ではないし、私たちもそれをただ見ているだけの観客ではない。夢にしてもうひとつの現実。もしここで《少女殺人》に殺されたらそれは仮初めでも何でもない、現実リアルの死だ。虚構ゲームじゃない。コンティニューやリプレイの類いは一切存在しない」

「文字通り命がけの鬼ごっこってこと?」

「そ、そ、それって、か、か、かなりヤバいんじゃ」

 ようやく落ち着いたと思った顔色がふたたび蒼ざめ過呼吸になりそうな薫ちゃんとわたしに、魔女は右手で頭を抱えながらも反対の左手で落ち着けの意思表示。

「まあ、それは大丈夫。君たちはこの橋を渡りさえすれば現実へ帰れる。真穂百合中学に戻ったら桜歯先生にこのことを真っ先に伝えて。私はここであいつを足止めしておくからって」

「死ぬ気?」

 思わず本音がポロっと飛び出す。

「君たちといっしょに逃げ帰れって?そんなことしたら【迷い秘密基地】の《少女殺人》より先に真穂百合中学桜歯先生あいつに殺されるよ。君を標的にしてる殺人鬼そのまま放置してどうするの。心配せずとも途中の桜並木に足止めと削りの工作魔法仕掛けておいたから、死ぬことはないでしょ。多分」

 そういって手をぴらぴらさせてはよいけの合図。しかし、橋の向こうに一歩前進しかけたわたしとは真逆に、薫ちゃんは決意を秘めたお顔で堕ちた魔女のまえに進み出る。必然、魔女のお顔も憮然と捻じれたものに。

「……どういうつもり?」

「ま、ま、まだ、あいつに文句をいってません!」

「は?君は図体だけ大人で心はお子様と思ってたけどまさか頭の中身まで子どもだったの?こんな修羅場に君がいても足手まといにしかならないってことくらい察しなよ」

「た、対価」

「対価?」

「対価を払ってませんよね?あなたに対価を払ってない以上、私があなたに守られる義理も道理もない。だったら、私は私で勝手にやらぐぼえ゛っ゛」

「甘えんなクソガキ」

 薫ちゃんの長身がくの字に曲がるくらいの壮絶ボディを入れると悶絶させる間もなく首に手刀一閃で失神。流れるような所作に目を奪われているわたしに、ぽい、と薫ちゃんの恵体をゴミ収集車の作業員にゴミ袋でも投げるように放る。割と重い。

「悪いけどそいつ持って行って。君ならそれくらい余裕でしょ?」

「軽々しくいってくれるね」

 そういいつつも背負えてしまえるのは何の因果か宿業か。つい一月前までランドセル背負っていたとはとても思えない身長170cmの後輩女子を小学生女子の平均身長にも及ばない先輩女子わたしが背負うというシュールな絵面。他人の揉め事に口出しする気も柄でもないがこのままスルーするのもアレなので一言だけ。

「帰ったらちゃんと謝りなよ」

「これは駄々っ子を黙らせるために必要な躾。年長者の義務。私はなにも悪くないしどこにも謝る要素などない」

「桜歯先生に報告してもいい?」

「……心臓マッサージで胸骨折ってもやむを得ないことだしそういうことでは?」

 急にマジトーンになって草。

 我知らずにんまりした笑みを浮かべるとそのまま手をぴらぴら振り返して深夜の大橋を駆ける。

 薫ちゃんをおぶって十メートルほど走った瞬間。

 そいつがいた。

 彼岸で待ち構えるシルエット。

 ただ、星空の下で佇んでいた。

 ただ、それだけなのに。

 この世に存在してはならない圧倒的な畏怖感。

 この世に存在してはいけない絶望的な禁呪感。

 ようやく倒せたと思ったラスボスのシルエット。

 心の芯が極薄ステンレスみたいにへし折れそう。

 呑み込まれまいと丹田に力を込めるそのまえに。

 なにかが切断される不快な感触が聴覚を満たす。

 視界にはわたしたちを庇うように前に立ち塞がる魔女。

 彼女の右手が斜め上四十五度の遥か夜空の死兆星に向けて斬り飛ばされ真っ赤な飛沫をまき散らしつつ、ぽちゃん、と彼方の川面に水音をたてて水没する。

 古池や 右手飛び込む 水の音

 風流も風情もない、ただ物騒で不気味なだけの、五七五。

 そんな現実逃避の世捨て人気分に浸っているのとは対照的に現実と向き合っている魔女は何でもないような顔で右手の傷口をヴェールで縛って冷静に止血し同時に骨伝導じみた発声でわたしの鼓膜のみを震わせる。

(《少女殺人》に正規の出口を潰された。いまから非常用出口を開ける)

(非常用出口?)

(私の合図と同時に川に飛び込んで)

 そういって背中にまわした左手で右側の欄干を指す。

 と、その人差し指を背後から伸びてきた手がぎゅっ、と掴む。

「また君か」

 呆れた口調で掴んだ手を払おうとするもバスケ部センターの握力は魔女といえど指一本で剥がせるものではなく、意識を取り戻したばかりの彼女は。

「た、た、対価。まだ対価を払ってません」

「タイカタイカ五月蠅いね。いま君たちのなすべきことはこの場から逃げることだけ」

「それで残った未来さんはどうするんですか?左手だけで戦おうというんですか?初めて会ったひとを見捨てるなんていくら私が子どもでもそんなの一生後悔するもごっ!?」

 またボディブローでも喰らって悶絶させられたかと思いきや、左手の手袋を薫ちゃんの掴んだ手ごと無理やり口の中に詰め込まれまたしても失神。口から手と手袋を取り出し意識を回復させようとするも制せられる。

「聞こえてないだろうけど、そんなに対価っていうならその手袋を対価にする。私に君たちを守らせる権利としての対価に」

 そういって桜色フードを路上に脱ぎ捨てキャミソール一枚に。

 それは占星術師といったインドア派女性の醸し出す想像的な弛緩性の空気ではない。

 それは素手ステ喧嘩師ゴロといったアウトロー系のみが持ち得る弾力性ある張り詰めた空気。

 蝉の抜け殻のように脱ぎ捨てられた桜色フードが月明かりとは異なる神秘的な淡い桜色の光を自ら帯びると、真穂百合大橋にいつの間にか多くの桜並木が移植されたかと錯覚するほどの濃厚な桜吹雪が舞っていた。ちょうどわたしたちの姿を敵方の視界から都合よく覆い隠す濃霧のように。

 願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

 魔女は口笛を吹くようにそう独り言つと、「如月ではないし願ってもいないけど」と自嘲気味に笑う。ぴっ、と素肌の褐色の左手で背中越しに右側を指す。

 合図。

 すぐさま堕ちた魔女という遮蔽物から右の欄干に向かって駆け出す。濃霧と見まごうばかりの桜吹雪で覆われている上に欄干までの距離はたった四、五メートル。見つかるリスクとしてはかなり低いはず。しかし。

「……っ!?」

 欄干を飛び越えようとするまさにその寸前で殺意の弾道が桜吹雪の障壁を発泡スチロールの粒のように難なくぶち抜き、一ミリの狂いもなくわたしのこめかみをもぶち抜こうとする。極限にまでせり上がった恐怖がわたしの大腿四頭筋を硬直させ、まさに彼女の思惑通りに殺意が命中しようとした瞬間、

「とまるなバカ!」

 怒声と同時に容赦ないローリングソバットがわたしのわき腹に炸裂し薫ちゃんもろとも欄干を越えて先ほどの魔女の右手に続き死兆星めがけて吹っ飛ばされる。まるで春の夜に打ち上げられたロケット花火のように。戦場から強制離脱させられたわたしが黄泉比良坂に幻視した真穂百合大橋に見たもの。それは。

 蹴った左足を綺麗に切断されバランスを崩し為すすべなく倒れ込む魔女。

 蹴り飛ばされたわたしを憤怒の表情で睨みつける《少女殺人鬼》の素顔。

 その素顔は。

 その正体は。

 喉元まで出かかったその名前を口にする間もなくわたしたちの躰は急下降を描き、そのままおぶった薫ちゃんと共にあえなく水没し、わたしの意識はそこで途切れた。




「ふ、扶草先輩。起きてください」

幼なじみの後輩の声で目が覚める。

 小山内薫。

 真穂百合中学一年B組出席番号六番。

 バスケ部のセンター。

 学年もクラスも違う彼女がなんでわたしの目覚まし役に?

 現状把握能力の低下したわたしの脳に彼女の第二次警報が鳴り響く。

「は、はやく起きてください。桜歯先生が呼んでますよ」

 やばっ。

 こつん。

「ぐっ…って、うん?」

「目は覚めましたか?扶草さん?」

「あっ、ハイ」

 痛くない。

 昨日の朝礼のときとまったく違う。

 頭蓋陥没をも覚悟させる鉄拳制裁の類いではなく、保育士さんが園児に「めっ」とたしなめるおままごと程度のもの。よく見れば笑顔も昨日までのものすごくいい笑顔──外見如菩薩内面如夜叉の具現化──とは明らかに異なる裏表のないやさしい笑顔。人格が乗っ取られたか魂の設計図でも書き換えられたか。

 教員専用の会議室。時計の針は七時を刻んでいる。机上に配布された資料はとっくに片付けられ、ここにいるのはわたし、桜歯先生に薫ちゃんの三人だけ。《百合の季節》のメンバーはもう帰ったのだろうか。

「ふ、扶草先輩、警察の事情聴取が終わるなりの上で眠ってしまって。ま、まあ私も事情聴取の後保健室の空きベッドで眠ってしまったので、お互い様ですけど」

「他のみんなは?」

「か、帰りましたけど、犬養先輩のお別れ会を開くっていっていましたから、ど、どこかに集まっているかと」

 《未来視の魔女》は?

 その台詞はわたしの声帯を震わせることなく、わたしの口だけ不自然にパクパクする破目に。

 どうして?

「扶草さん」

「はい」

「もう遅いから小山内さんを送っていきなさい」

「え」

「『え』ではありません。可愛い後輩を家まで送り届けるのは先輩として当然の務め。しかもあんなことが起きたのですから、なおのこと」

「でも」

「これは命令です」

 昨日と変わらぬ有無を言わせぬ強制力。人格が変わっても魂の支配力は変わらないらしい。

「わ、私は平気ですけど、さ、桜歯先生がおっしゃるならしかたないですよね」

 こっちはこっちで急にツンデレムーブしだすし。昨今はキャラ変更が流行りなのか。

「そ、それでは失礼します」

「失礼します」

 そういって頭を下げ会議室の扉を閉める間際。

 突如脳内で立体展開する未来の記憶。

 それはあり得たのかもしれない未来の光景。

 ある晴れた日の墓地。

 身内のみでしめやかに執り行われた密葬の儀。

 遺体なき棺。

 黒衣装に身を包んだ桜歯先生が唯一の遺品である桜の花びら模様を配った手袋をそっと収め、そこにぽたぽたと悲しみの雨を降らせた。

 いつものものすごくいい笑顔も、やさしい笑顔さえも崩した、童女のような泣き顔で。

 それは誰の記憶にも断章にさえも残らない、悲しい光景────。


真穂百合中名物の地下トンネルから出口のお花飾りをくぐって学校を出る。

 通常夜七時ともなれば繁華街では保護者同伴のない未成年者を補導するため補導員が巡回しているが、あの事件のせいで通学路でも非常事態対処のための警備員が目を光らせて巡回している。

 正直ひとりでも大手を振って帰宅できると思うんだけど。

 ぎゅっ。

「あの、薫さん?」

「なんでしょう?」

「引っ付かれると非常に歩きにくいんですが」

「昨日犬養先輩のき添スコーでおなじことされましたよね?」

 いや、されてないが。

「ほ、本来なら私が昨日犬養先輩と帰るはずだったのに、扶草先輩に横取りされたから、これでおあいこなんです!」

 いや、なにがおあいこなのか論理の飛躍すぎてさっぱりだが。ていうか吃る時と吃らない時の法則ってなにかあるのか。そっちのほうが気になる。

「犬養先輩と初めて会った時のこと、覚えてます?」

「……覚えてる」

「小学生一年生の時からの幼なじみなんですよね。いいなあ。私は小学五年生の時こっち引っ越してきたから」

 いいのか。

 死んでしまったらどのみちおなじでは。

 そんな人の心の無さすぎる台詞を口ずさみかけてあわててブレーキ。お口にチャック。十三年以上この世界に生きているわたしだが、いまだに言っていいことと悪いことの区別がわからなくなるときがある。おそらく他の人間にとっては自明であろう善悪の区別。先天的な道徳感覚。後天的な倫理論理。こうしたひととして大切なものの目利きがボロボロ抜け落ちている。だからわたしは百合の咲かない土瀝青女なのだろう。

「いじめられてたんです」

「……え?」

 唐突な告白。思わず訊き返してしまう。

「前の小学校で、ですけどね。私みたいに背が高くて動きやしゃべりがとろい子が真っ先に標的にされるという、よくある話です。幸い引っ越すことができてあの生き地獄からは解放されました。そして、出会ったのが」

「犬養棗」

「はい」

 笑顔が痛々しい。

 あいつの天然年下ジゴロっぷりは幼なじみのわたしから見ても時々ドン引きするほど。

 当然いじめで傷ついた転入生を後輩想いのあいつが放っておくはずもなく。

「皮肉ですよね。犬養先輩が殺されたあの場所で私は救われたんですから」

「まほしょ公園」

「そう。転入前日の日曜日に学校の見学にお母さんと行くつもりだったけど、怖くなって逃げちゃって。当てどもなくさまよった末にたどり着いたのがあの公園でした。ベンチでぼーっとしていた私にバスケットボール持ったあのひとがあの笑顔で誘うんですよ。初対面の子にですよ。しかもバスケなんて見たこともやったこともない私に」

 そういって苦笑する薫ちゃんに私はうなずく。目に浮かぶような光景だ。

「最初はディフェンスをやらせたんでしょ」

「はい。手を伸ばしただけでシュートをブロックできる快感を、バスケの楽しさを最初に教えたかったんでしょうね。いままで自分の大きな躰が嫌でしょうがなかったですけど、生まれてはじめて好きになれたのかも」

「あいつは初心者でもバスケ好きになれるようプレイしてくれるタイプだから。でも、最後のほうになるとちょっと本気だしてくる」

「よくご存じですね。エスパーですか?」

「ちがう」

 犬養棗のバスケ講座。

 最初は初心者向け接待プレイしてくれるけどもしその子に素質があってうまくなれそうだったら、最後ちょっとだけ地金見せて、その輝きをめざしてもっとその子にプレイするよう自発的に誘導する。策士だ。

「最初あれだけブロックできたのに最後のほうはフェイントかけるしフェイク混ぜるしスクープショット放ってくるしでやりたい放題やられましたよ。でも全然嫌な気分じゃなくてむしろ爽快というか、『バスケって楽しいよね』ってあの屈託のない笑顔でいわれたらもう……。ズルいですよね。あんなの反則ですよ。おかげで中学入学して真っ先にバスケ部に入部しちゃいました」

 つう、と頬を伝う一筋の滴が月明かりに照らされる。

 声を潤ませる彼女にそっとハンカチをわたす。

「あ、ありがとうございます。……ふふっ」

「なに?」

「せ、先輩も他のひとの気持ちを考えられるようになったんだなって。や、やっぱりあの夢は正しかったんだなって」

「やかまし」

 十三年間も人間を観察し続けたらどんな人でなしだってある程度は人間らしく振る舞えることくらいできる。所詮これはあいつのエミュレートにすぎない。こんなの成長とはいえない。

「あれ?これって犬養先輩のハンカチじゃ」

「え?」

 そういわれて覗き込むと紫系の暗色のハンカチだろうか。夜の暗がりな上、あまり自分の持ち物に頓着しないわたしはそれが私物か否かの判断ができなかった。しかし、棗からハンカチを借りパクした覚えもない。あいつからハンカチを借りたのは小学一年生の初対面の時だけで他に記憶がない。でも、もしあいつのだったら。

「よかったらあげるよ。形見分けってヤツ?」

「だ、駄目です!なんてことをいうんですか!?ちゃ、ちゃんと洗ってお返しします!!」

 なぜか憤然とする薫ちゃん。逆鱗に触れてしまったのだろうか。でもどこに怒る要素が?わたしにはさっぱりわからなかった。やはり人間は難しい。


 その後も故人あいつを悼むように薫ちゃんと過去のよもやま話をしているうちに、昨日故人あいつが急ダッシュした場所に差し掛かった。不意に脳内に蘇る昨日の光景。

(よくここから小学校裏通りで転んだ香ちゃんが見えたものだな)(視力検査でいつも2.0記録してたけど本当は8.0くらいあったんじゃ)などと回想に浸っていると、

「す、すみません扶草先輩」

 そういうなり速攻で遠ざかる後輩の背中。

 またか。

 既視感というか予感はある程度していたけど。

 猛ダッシュで追いかける。

 幸い人間卒業レベルのあいつとは違い彼女は年相応の身体能力だったので、引き離されずに追いつくことができた。昨日のルートをそのままたどり真穂百合小裏通りの舗道へ。

 そこには。

「あ、おねえちゃん!」

 小山内香ちゃん。薫ちゃんの妹。

 さすがに二日続けてころんではいなかったか。

 ぱあっ、と月明かりが花になって咲いたような笑顔。

 昨日泣いたカラスが今日は白鳥になって笑っている。

「香!?どうしてこんなところに!?」

「おねえさんの声がきこえたから」

「え?」

 戸惑う姉に構わず、香ちゃんは後ろにいたわたしに向かって直立不動で丁寧に頭をさげる。

「あの、すみれおねえさん。このたびはなつめおねえさんがとんだことで、つつしんでおくやみもうしあげます」

「ご丁寧なあいさつ、痛み入ります」

 礼儀には礼儀を。わたしも深々とお辞儀し返す。

「ふ、扶草先輩も乗らないで。ていうかおねえさんの声ってどういうことなの?」

「きのうはおねえちゃんの声だったけど、きょうはなつめおねえさんの声がきこえたから」

「???」

 さっぱり要領を得ないといった顔。もしかして昨日のこと香ちゃんから聞いていない?まあ、幻聴が聞こえて気がついたら外にいたなんて恐怖体験、よほどのことがない限り自分から話そうとは思わないだろうけど。

「えっと、さっき、ばんごはんをたべたあと急にあたまのなかに声がきこえてきて。なつめおねえさんの声でこういってたの。『香ちゃん、わるいけど昨日私たちが遊んだ公園にまた行ってきてくれないかな。きっと薫と菫も来ているはずだから。よかったら三人で私の菩提を弔ってほしい』って。」

 あいつの口調まんまだ。これは信頼度の高い証言。しかし、薫ちゃんはなぜか蒼ざめた顔でぷるぷる震え出し手も振って頭も振る。もしかして幽霊とか苦手?

「いやいやいや。い、いくらなんでもこの時代に幽霊はあり得ないでしょう。嘘はよくないと思うなあお姉ちゃん。うん」

「あ、あと『もし薫がゴネたらこれは遺言ですって伝えてほしい』だって。『もし叶えなかったら薫の枕元に参上するかも』って」

「は、は、早くいきましょう!せ、せ、先輩のご遺志を無下にするわけにはい、い、いきませんからねっ!!!」

 そういって手と足が同時にでるカチンコチンな歩き方でわたしたちの先頭にたつ。

 証明わかり完了やすい


 真穂百合小学校西附属公園、通称・まほしょ公園。

 今日殺人事件が起こったばかりの立ち入り禁止区域。

 部外者立ち入り禁止のテープを張り巡らし警備員たちを巡回させることで静寂と緊張に包まれた人為的な隔離空間。

 そう思っていた。

 ついさっきまでは。


「それでは、犬養棗さまのご冥福を祈って~!」

KケーPピー!」

「「「KケーPピー!!!」」」

 乾杯、もとい献杯の音頭とともに一気にボルテージが高まる真穂百合小学校西附属公園。

 死者を悼む雰囲気というか静けさとはまるで無縁のお祭り騒ぎで盛り上がっている。

 警備員はじめとする大人たちも中学生たちに混じって飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。

 近隣住民の迷惑などなんのそのという以前に当の住民たちが葬儀振る舞いのお酒に積極的に群がり率先して参加しているのでとめようがない。

 さすがに未成年者にはアルコール飲料は提供されていないものの、犬養棗の死という至高の美酒に酔いしれた真穂百合中学の面々はジュースやお茶の紙コップ片手に真っ赤になって呂律も回らない状態で彼女との美しき思い出やら唯一無二の美点やら告れなかった無念さやらを泣いたり笑ったり怒ったりしながら我先にと次々に語り合っていた。先刻の真穂百合中学での暴走のような一線を越えずに大騒ぎの域にとどまっていたのは、時計台にでかでかと設置されたご尊影が見守っていたからだろうか。

 犬養棗のクソデカ遺影。

 しかも変顔ver。

「「「………………」」」

 どうしよう、こんなときどういう顔をすればいいかわからない。

 香ちゃんはほっぺハムスターみたいに膨らませて笑うの必死に堪えているし。

 薫ちゃんは耐え切れずに噎せ返っているし。腹筋何本かぷっつん逝ってるし。

「あ、薫。それに菫先輩も」

 助け船到着。

 薫ちゃんと同学年らしきこの子は、昨日の放課後ティータイムで沼勧誘してきた子。

 確か名前は。

「ごめ゛、蓮ぢゃ゛ん゛、ち゛ょ゛っ゛どま゛っ゛で」

 噎せた影響で気管支がヤバいことになっている薫ちゃん。妹ちゃんに背中さすってもらっているのを見て一言。

「あーツボ入っちゃったかあ。無理もないよね、あんな


 ク ソ み た い な 遺 影 」


 ぶ────っっっ。

 蓮と呼ばれた子の容赦ない評に耐え切れず、腹筋崩壊した薫ちゃんは公園の地べたをダンダン叩いて笑いの機関銃を連射している。

 とどめを刺すな。

 そう突っ込みたくなったがさらなる追い打ちになりかねないので黙っている。ていうか君、ずいぶん口悪いね。《百合の季節》所属なんだから犬養あいの花嫁じゃなかったっけ。

 そんなわたしの内心を見透かしたように、嫁いびりの小姑めいた毒針でちくり。

「ずいぶん遅かったですね。棗先輩の正妻がそんなことでは困ります」

いやいやいや。正妻になんてなった覚えねえし。こちらも負けじと言い返す。

「そっちこそあんなクソみたいな遺影掲げてどんちゃん騒ぎなんて、お葬式にしてはちょっとド派手すぎない?」

「故人の遺志です」

「え」

「故人の遺志です。ていうか全生徒に一斉送信されたんですけど、知らないんですか?」

「知らない」

 てかスマホもってないし。

 そういうと、ハア~つっかえみたいなクソデカため息。

「どんだけ情弱なんですか」

 そういって差し出されたスマホには、いかにもあいつらしい文面が小気味よく躍っていた。


「真穂百合中学のみんなへ。

これを読んでいるということは、僕はもう死んでいるのだろう。生前のみんなのご厚誼に深く感謝しつつ最後にひとつだけわがままを聞いてほしい。

僕の葬儀は是非お祭り騒ぎにしてほしい。参列者全員が悲しみにむせび泣き湿っぽい雰囲気のなか送りだされるのは真っ平ごめんだ。お酒やジュース、歌舞音曲で御神輿わっしょいするくらいのにぎやかな雰囲気で派手に陽気に送り出してほしいんだ。

これは僕の最後のお願いだ。もしかなえてくれたら必ず僕の魂はあの世からこの世界に舞い戻ることを約束しよう。かつて偉大な百合の救世主が悪しき魔の手にかかり処されたが、三日で復活したという百合聖典の伝承は知っているだろう。僕もたった三日で現世に戻るとまではいわないが、いつの日にか必ず戻ってくる。そう、僕の幼なじみこと百合の咲かない土瀝青女、彼女が百合の花を開花させる日にまでは戻ってくることを誓おう。

約束する。彼女の魂を賭けてもいい」

ちょっと待てやゴラ゛ァ゛。

本人不在で自分の魂を勝手に賭けられて憤然とする。当たり前だよなあ。しかし、そんなわたしを蓮ちゃんは冷ややかに一瞥する。なんで。

「こんなにも棗先輩から愛されていたなんてさすが菫センパイ。わざわざ私たちが勧誘するまでもなかったですねセンパイ。よかったですねセンパイ」

 嫌味。理不尽。怒涛の当てこすり。京しぐさ。

 なんかこの子昨日と比べて当たり強くなってない?わたし、なにかしたっけ?

 きっつい空気で胃壁すり減らしているわたしとは対照的にようやく腹筋を回復した薫ちゃんはすーはー深呼吸しつつ、友人に質問。

「あ゛、あの、蓮ちゃん」

「あ、薫、復活した?」

「な、なんか公園がすごいことになっちゃっているけど、こうした公共の施設で個人のお葬式?お通夜?お別れ会?っていいの?」

「遺言書の注記事項に書いてなかった?この葬儀の開催許可は真穂百合理事長が取ってあるって。ついでにあのクソみたいな遺影の設置とか会場準備万端すべて真穂百合の職員が行っている」

「そ、それって、いいの?」

「いいんじゃない?だってあの理事長だし」

 畏敬と諦観の入り混じった投げっぱなし口調ジャーマン。同意しかない。

 だって、あのひとだし。

 世界のフィクサーとも噂される彼女がその気になれば、娘の幼なじみの事件現場を学校主催の葬儀会場に塗り替える程度のこと、ゆで卵の殻を剥くよりたやすいだろう。

 時計台の針は午後七時半をまわっている。

 わたしたちの後からも参列者が続々入場して公園内の人口密度は増す一方。

 よく見ると車椅子やら松葉杖ついて参加する女の子の姿も。

 もしかしてあいつの後を追って殉死し損ねた連中なのか。

 どういう気持ちでこの会場に参列したのかはわからないが、病室で精神状態を悪化させるよりは殉死未遂の原因となった彼女を悼むことで、少しでも澱んだメンタルが快復すればいいと思う。てか、あのクソみたいな遺影に出迎えられて逆に悪化したりしないのだろうか。そこだけが心配だったが、いざご対面すると噴き出したり泣き笑いしたりで故人の思い出とともに笑いで心の傷や鬱を超快復させている子が多いみたいで安心する。

 お祭り空間特有の人混みから紙コップ入りジュースでご機嫌な香ちゃんを守りつつ、薫ちゃんは蓮ちゃんに訊ねる。

「そ、そういえば鷲瑞先輩は?」

「あのひとは参加拒否」

「ええっ!?どうして!?」

「こんなお祭りに参列しても棗先輩は生き返らないって。文芸部は文芸部のやり方で棗先輩の魂を復活してみせるって、同じ文芸部の子から聞いたけど」

「も、もしかして、犬養先輩のシリーズ小説完成させるつもり?」

「そうじゃないの?あのシリーズももう二桁の大台に乗るけど、なんだかんだで毎回楽しみなのよね」

「あ、あ、あの手で触れられるびょ、描写とか、切なすぎて無理ィ……」

 ぷしゅー、と頭から煙出して茹でだこみたいに真っ赤になってうずくまる薫ちゃん。

 鷲瑞先輩の小説はわたしも読んだことがある。確かまだ一年生だった頃《百合の季節》の集いに無理やり連行されてその流れで部活棟の文芸部室に入れられて「読んでください」と有無を言わさず鷲瑞先輩からあの無表情のまま渡された薄い本が

『犬養棗は迷わない~紅水晶の吐息とともに~』

 犬養棗シリーズの五冊目だったらしい。

 当初は完全に自己満足の趣味で済ますつもりだったらしいが、ふとした拍子に《百合の季節》の一部メンバーに書きかけの文書ファイルが漏れて大好評を博し学校中に瞬く間に拡散、まるで『源氏物語』のような受容の流れだったという。当然褒められて創作者としては悪い気がするはずもなく創作意欲がガンガン燃え上がって長編化決定、以降棗本人の了承も取り付け、作中ヒロイン公認のシリーズものとして本格的に執筆が始まったという。

 ちなみに読んではみたものの、いわゆる夢女子小説で女の子の視点から棗の一挙手一投足がが理想的な王子様系ヒロインでごく控えめに言って歯の浮くような美辞麗句、はっきり言えば共感性羞恥の火の玉ストレートでこっちの脳が丸焦げになりそうな燃焼性描写のオンパレード、さすがに十ページ読んだところでギブアップ、 not for me の旨を申し出て本をお返しした。

 まるで雨に濡れた捨て猫のような先輩のしょんぼりした様子にさすがのわたしも罪悪感を覚えたが、後で棗に聞いたところによるとあれは落ち込んでいるのではなく、わたしという読者に衝撃を与えられたことに対する作者の仄暗い悦びを抑えた表情だったとか。心配して損した。

 もうほとんどの参列者がクソみたいな遺影に別れの挨拶を済ませたのか、時計台前広場にはぽっかりと空きスペース。それを見越したかのように数々の打ち上げ花火とともにダイナミックエントリーしたのはさっきKPの音頭を取った女の子。昨日の放課後ティータイムでお指くちゅくちゅとか下ネタぶっ込んできたのと同じ子。

 彼女はマイクを手に取ると会議室ではびくびく閊え閊えだった口調が嘘のようにMCの輝きを解き放つ。

「それではご参列の皆様、名残は尽きませんがそろそろお別れのお時間でございます。これは決して故人との未来永劫の別れを意味しません。かといって、来世や天国、彼岸といったふわふわした空想のなかだけの世界での再会もまた意味しません。故人ははっきりと遺言書でこう言いました。必ず現世に帰ってくる、と。あの奇跡の百合救世主・リリィのように復活する、と。彼女はよく嘘に真実をまぶして相手を言いくるめることがありましたし、私たち《百合の季節》を手玉に取ったこともありましたが、嘘そのものをついたり、ましてや私たちや皆様の篤い信頼に傷をつけるような真似は一度たりとてありませんでした。そうですよね、菫さん?」

 そこでわたしに振るな意味深な目線を送るなてへぺろすんな馬鹿野郎。

「ま、そういうことですので、故人が戻って来た暁には派手な凱旋パレードで出迎えてあげましょう。それまでのしばしのお別れ。しかし、このまま手を振ってバイバイというだけでは味気無さすぎる。そこで故人ともっとも親交の深かった彼女からお別れの花束ならぬ花火を天国の彼女にむけて打ち上げていただきたいと思います」

 そういってさっと手をこちらに向ける。

 《百合の季節》の誰かだろう。薫ちゃんか蓮ちゃんかな?

 そう思ってふたりに目をやると、いつのまにか二人ともわたしの両脇をがっちり確保。

 まるで被疑者を護送する刑務官のように。え?

「ここまで鈍感系主人公ヒロイン極めると一周廻って逆にすごいというか、ある種の清々しさまで感じるわね……」

「そ、そうかな?わたしは何周廻っても鬱陶しさしか感じないというか、あ、あきれ果てて物が言えないけど?」

 ふたりともひどくね?

 そんな苦情を一切受け付けず、ずるずると衆人環視の下クソみたいな遺影前広場に引き立てられる。死刑囚かよ。

 すっと末期の一服のごとく差し出された新品の着火ライター。

「ささ、菫の旦那。こいつで一思いにちゃちゃっと」

「着火だけに?」

「それではご覧ください。天国へ捧げる感動のロケット花火、点火です」

 無視スルーされた。死にたい。

 しくしく泣きながら点火する。ロケット花火は近所のコンビニで季節外れのものを買ったのか学校の備品で去年の余りものを失敬したのか、いずれにしろ天まで届くような代物ではない。

 まあ、こういうのは気持ちが大事というし。

 導火線が火花を散らすと、参列客が一斉にカウントダウンを始める。三、二、一。

 ひゅうううううううんん。

 荒ぶった口笛のような発射音とともに夜空へGO。

 ぱああああああああんん。

 お腹の芯にまで響く澄みきった音。でも、天までは届かない。

 視界の届く夜空に一瞬だけ小さな花を咲かせてぱっと散る。

 その切なさに観衆が刹那の感慨を噛みしめていた次の瞬間。


 ひゅっ。


 見た。

 見えた。

 確かに。


「な、流れ星……?」

「み、見えたよね?」

「間違いないよあれ」

 盛大な拍手を送ろうと身構えていた観衆がどよめく。

 プロのエンターテイナーがこの機を逃すはずもなく。

「ご覧ください皆様。いま、確かに見ました。この目ではっきりと。菫さんから送られた夜のラブレターに対するお返事がなんと、流れ星。なんという粋な計らい、風雅な趣向。さすがは犬養棗、幼なじみに対する最大級の愛を感じます」

 勝手に感じてろ。

「これはふたりの織姫の織りなした新たな七夕伝説と申し上げても過言ではありません。真穂百合に新たな百合の歴史がまた一ページ……!」

 熱のこもったMCトークに酒やジュースに群がっていた観衆が煽られないはずもなく、むしろ乗るしかないこのビッグウェーブに的な流れへと盛り上がり、一方の集団はナ・ツ・メ!ナ・ツ・メ!と連呼し出し、もう一方の集団はス・ミ・レ!ス・ミ・レ!とわたしの名前を勝手に連呼し出し、最終的に彼女たちの合唱はひとつのうねりへと融和し、

「「「「「ナ・ツ・ス・ミ!ナ・ツ・ス・ミ!」」」」」

 重度の百合アルコール中毒患者による集団催眠のごとき有り様に。

「「ナ・ツ・ス・ミ!ナ・ツ・ス・ミ!」」

 小山内姉妹も見事に乗せられているし。香ちゃんは姉のマネしているだけで真性の患者ではないと信じたい。てか蓮ちゃんは?

「乗りませんよ」

 ジト目でばっさり。べ、別に乗ってほしいとかそういうのでは。

「でも、よかった」

 彼女はそういって胸を撫で下ろす。

「これ以上あのひとが愛した真穂百合が酷いことにならずにすんで。永遠に消えていなくなるより、たとえ蜘蛛の糸ほどのか細い希望でも縋れるものがあるとないとでは大違いだから。まあ、その意味ではセンパイに感謝すべきかもしれませんね」

 そういってぺこ、とかすかに頭をさげるとすぐに目線をさっきの花火と流れ星が交差した夜空へと向ける。

「私もただ死を待っているだけの人生はつらいですから。あのひとが死の向こう側から見守ってくれて、いつかこちらに帰ってくるというかすかな希望をもって生きていきたい」

 まっさらな心からでた無垢な願い。

 その気持ちは痛いほどよくわかる。

 でも。

 ごめん。

 わたしにはできない。

 わたしは犬養棗が殺されたという事実そのものをこの世界からなくしたい。

 犬養棗が殺された未来線を消して彼女が生きる新たな未来線を引き直したい。

 その結果、犬養棗の幼なじみだった少女が存在から記憶までまるっとその未来線から消え去ることになったとしても。

 ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。

 不意に歓声が止み、観衆から万雷の拍手が沸き起こる。 

 どうやらMCエンターテイナーがうまいことこの場を締め括ってくれたようだ。

 死を悼むとは到底思えない酒とジュースと変顔遺影の三三七拍子揃ったお祭り空間。

 でも、これはこれでよかったと思えるから不思議だ。

 なによりあいつ自身それを望んでいたのだから。

 しかし。

 これはわたしが望む結末ではない。

 たとえ全世界が認めるメリーバッドエンドであったとしても、わたしは絶対に認めない。

 わたしは未来を変えてみせる。

 七夕百合伝承という奇跡の星空の下、小山内姉妹と蓮ちゃん、MCらと観衆から沸き起こった万雷の拍手を浴びつつ、わたしの頭はこの未来をなかったことにする方法でいっぱいだった。わたしは脳を焼け焦げになるのも構わずフルスロットルで稼働させて《少女殺人鬼》という不死の化け物の殺し方を一意専心に思考しつづけた。


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