第2話

 無駄にほりにしの多い唐揚げを、気を紛らわすつもりでぽいぽい胃に投げ入れ、風呂に入る。

 フィーッ、フィーッ

 透き通った鹿の鳴き声。

 キャンキャン、キャン! ガサ、カサカサガシャン……。

 何か身に危険を感じたのだろうか、慌ただしく鹿が山の中へ去っていくさまが想像できた。


 すっかり軽くなってしまった兄の脇を掴んで身体を引き上げてから、仏間に布団を敷く。

 布団を敷いている間も、ゴツゴツと骨が張り出した兄の脇の感触が手に焼き付いていた。

 パチン

 電気を消すと、仏間はしんとした暗闇のボックスと化した。

「……」

 脳はほぼ真空に近いのだが、なぜか妙に冴えわたり、瞼を閉じる電気信号を出してくれない。

 ふと隣を見ると、兄は寝息も立てずに眠っていた。こちらに向けた背中からは深い哀切がぞわぞわと手を伸ばしてきた。




 ――ダメだ。

 頭の冴えは闇が深くなるごとにどんどんと大きくなり、脳をチクチクと刺す。瞼は閉めても自動的に開き、ショボショボだけが糸を引く。


 カク、カク、カク、カク、カク、カク、カク


 壁掛け時計の刻々と時間を刻む音が脳の中心に座ったとたん、心臓を毛羽立たせるのを感じた。別に、何かが怖いとは思わないけれど。

 ――ああっ。

 私は耐え切れなくなって、布団を頭まで上げた。布団に染み付いた線香の香りがつん、とアルコール消毒液みたいに鼻にぶつかった。


 刹那。



 ッッスーッ


 木材が静かに擦れる音。

 眠気が徐々に溜まっていた身体が一気に覚醒した。


 ペタッ、ペタッ


 瞼がクワッと見開かれる。肩回りからゴワゴワと強張っていく。


 ミシッ!


 木材が著しく歪む音。

 猛烈な勢いで逆流するさざ波のような悪寒が走り、沸々と鳥肌が沸く。全身の毛がビシビシよだった。


 ペタ、ペタ、ペタ、ペタッ


 湿った生足が畳の上を舐めてくる音。

 何者かが、それも恐らく鬼か山姥みたいな得体の知れない何かが自分と兄の命を奪いに来たのだろうと、私の脳は導き出した。

 鬼か山姥の姿を確認しようと、頭まで隠す布団を剥がそうと腕を動かそうとした。刹那。

 バチン!

 脳に閃光が走った。腕はグググググと震えるだけで動かない。まるで糸に縛られたようだった。恐怖から目を閉じようと本能が思っても、瞼が引き攣って閉じない。


 ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、ベタ、ベタ、ベタン、ベタン


 畳の上を歩く音がだんだん近づいてくる。

 十四年生きてきて、怖いものなんて無かった。男子相手でも平気で殴り合いをしていたし、お化けや幽霊なんて鳥の糞程度にしか思っていなかった。だが、この時初めて私は、恐怖を感じると動悸が激しくなり、顔に血が回ってこなくなるということを知った。


 ベタン、ベタ、ペタ、ペタ、ペタ


 足音が徐々に遠ざかっていく。どうやら兄の布団の向こう、仏壇の辺りへ向かったようだ。

 再びギシッ、と木の軋む音。感じるはずの不快感も、蒸発した血液の代わりに血管を巡る“恐怖”という真っ黒い気体に邪魔され全く感じない。

 刹那、カチン、という陶器と陶器とがぶつかるような音がした。


 グゥゥフフフフフフフフッ


 かと思うと、上ずったような嗄れ声が心臓の鼓動を限界の向こう岸まで速める。

 脳の真ん中で、鬼の面を被った山姥が高笑いしている光景が上映された。


 ミシッミシッミシッミシィツ


 早足で遠ざかっていく足音。

 スーッ、トン

 向こう側の襖が開き、閉まる音。

 ――やっと、山姥、出ていったみたい。

 仏間は再びしんとした暗闇に包まれた。

 私は布団を剥ぎ取り、勢いよく身体を起こして周囲を見渡すが、静寂に包まれた箱は濃闇に侵され、目視出来るものはなかった。




 次の日の朝。

 天気は曇りで、今日も学校だというのに朝日が差さず、いつもよりも三十分遅い七時起きだった。

 ボワァッ

 短い欠伸しか出ない。

 サラサラで自慢だった黒髪はチリチリで、それぞれが好きな方向へ行こうと曲がっている。目はバチバチショボショボで、瞬きをすること自体がかったるい。

 立ち上がって、一歩歩こうとすると、ミシミシミシミシ脳内が軋み、思わず私は頭を抱え込んだ。

 隣を見ると、兄は抜け殻になったみたいに気をつけの姿勢で眠っていた。


 チーン、チーン

 凛とした音が、まだ鈍っている脳を少しだけ起こしてくれる。父へ朝の挨拶をするが、グレーの邪念が脳をどよんと包んでいた。まるで今日の空模様みたいに。

 ――仏壇には異変は無いらしいな。

 まさか夢かと思ったが、私の方向の襖が少しだけ開いていたのを確認すると、昨日の手のひらの痺れがまざまざ蘇ってくる。

 ならこっちは、と今度は仏壇の隣の板の間を見てみる。


 ――え、ウソ?


 私の頭に金槌が振り落とされた。


 ――開かずの壺の蓋が、ずれてる?


 開かずの壺、と私が勝手に呼んでいるのは、大きな仏壇の隣の板間に、仏像や花と一緒に並んでいる小さな壺のことである。白のベースに、まるで返り血みたいな気持ち悪い赤や紫の模様が散りばめられているのだ。

 一体全体何が入っているのか、私も兄も皆目見当がつかず、何度か母に訊ねても自分は知らない、の一点張りで教えてくれない。

 ただ、絶対蓋を開けちゃ駄目だからね、と人差し指を一本立ててこちらを見つめてくるだけなのだ。

 その壺の蓋が微かにずれている。衝動的に覗き込みそうになったが、止めた。


 母の有無を言わせぬ強い目線を思い出したのが理由の一つ、もう一つは、覗き込んだらそれこそ命をもぎ取られてしまいそうなほど、強く忌々しい凶悪なエネルギーが壺の周りに宿っているのが感じられたからだった。

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