第3話

「ねえ、夜さ、誰か来た?」

 ほりにしの唐揚げの余りを食べながら、私は母に訊ねた。

「夜? いつくらいの話?」

「分かんないけど……深夜」

「来てない。そんな深夜なんか、来る馬鹿はいないでしょ。あんた、そもそもなんでそんな遅くまで起きてたわけ?」

 ――あーっ、糞が。

 心の中で私は舌打ちした。

「なんか、眠れなくてさ」

「あっそ」

 茶番は終わりだ、という風に、母は包丁で肉を切り始めた。


 仏間へ戻ると、兄は目をパッチリ開け、それも寄り目で横たわっていた。吊るされた電球を見ているのか、それとも見えない何かを見つめているのか、私には分かりかねた。

「兄貴、生きてる?」

「……ああ」

 喋った。

 元々の低く透き通った声の原型は無く、よく掠れた声だが、確かに兄が喋った。

「どう? 生き返った? 元気?」

「……ずめ」

「ん? なんて?」


「……うずめ」


 まるでうわ言を呟くかのように、兄は目を白黒させながら言った。

「うずめ? すずめ?」

「……ああ、とうさ」

 汗を真っ白になった肌に浮かばせながら、か細い手を点に向けて伸ばす。が、最後まで言い切ることなく、兄は目を瞑り、だらんと揚げた手を下した。




「ねえ、彩華の方はどうなの?」

 ――まだその話か。

「だからさ未稀、一体あんた何回言ったら分かるわけ? そんなのあるわけないって。うちは……」

 体調不良者は一人もいない、と言いかけて、青白い肌の寄り目な青年を思い出し、口を噤む。

「誰かいるの?」

「いや、別に頭痛とか幻聴とか、そんなのは無いから」

 無いには無いんだが。それよりも重症らしいのだが。




「ちょっと彩華、次保体だって! 大丈夫なの? 走んないと!」

 未稀が私の手を引っ張って走ってゆく。

「分かってるって、でもそんな急がなくても十分間に合うから」

 私はあくまで、ゆっくりゆっくりと教室への廊下を歩いてゆく。視聴覚室を通り、今では全く使われていないコンピュータールームを通って……。

 ――ん?

 コンピュータールームの、木製の引き戸の前で私はふと足を止めた。


 じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃ


 音が、聞こえる。

 何の音かは分からないけど、別の世界、空を挟んだ向こう側にある世界の音のように思えた。

 ぞぞぞぞぞ、ぞぞぞぞぞぞ

 潮騒が胸の中で沸き起こる。今まで感じたことのない気持ち悪さ。そう、大量発生したフナムシが全身を歩き回ってるみたいな不快さ。

 古びた木の扉の向こうには、一体どんな世界が広がっているのだろう。紫色の気体がグルグル渦巻いているような世界なのだろうか。向こう側には、眠ったコンピューターが規則正しく並んでいるだけの場所だということは分かってるのに。


 がらがらがら、がらがらがら、がらがらがら、がらがらがら


 磁石に引き寄せられる鉄くずみたいに、私は引き戸をそっと開け、コンピュータールームへ入る。

 ――よく考えたら、鍵、掛かってるはずなのに。

 刹那。

 ――え?


 青白い、まるで宇宙人のような顔をした兄が、パソコンの画面に顔を押し付けて、大音響の音を聴いていた。


 がらがら、がらがら、がらがらがらがらがら

 じゃんじゃんじゃんじゃんじゃん

 ぱちっ、ぱちぱちっ、ごごごぼぼぼぼぼっ、ばちばちばち

 ざく、ざくざくざくざく、ざくっ

 ……ぐさっ

 

 神社の鈴を鳴らすような音、お祓いをする時に振ってる棒みたいな音、火が燃えてるような音、畑を耕すような音、そして、生肉に包丁を突き立てた時みたいな、鈍く生々しい、いわゆる繊維を切り裂く音。

 途端に脳みそがぐわんぐわん攪拌され、平衡感覚を失った私は思い切り頭を床に打ち付けた。車酔いのピークみたいな吐き気を覚え、開いた口からは唾液がダラダラと顎を伝って垂れてゆく。

「あいぃ……ひゃひひゃひぇぶぼ?」

 兄はこちらには一切気づいていないようで、ただ目をいっぱいに広げてディスプレイに顔面を引っ付けている。

 なんとなく、兄が行ってはいけない領域へ引きずり込まれかけていることは察しがついた。


 私は腹ばいで兄が座っている真ん中らへんの席へ進む。

 進むごとに音は大きくなり、脳、神経、内臓、筋肉、血管、身体の全ての器官を著しくへし折って、それ相当の激痛を骨に与える。

 近づいていくと、兄は何かおかしなサイトを覗き込んでいるらしいことが分かってきた。

 画面の真ん中に巨大な再生ボタンがセットされ、その周りを古代文字のような意味不明の象形文字が取り囲む。

 その象形文字というのは、あるものは鬼のような牙を剥いた人の顔だったり、あるものは木に括り付けられた人間だったり、またあるものは鬼に踏みつけられた人だったりしている。

 兄はどの表情を浮かべることもなく、石像のように固まったままそれを聴いていた。

「……あにき」

 ゴクリと唾を飲み込むと、何かどろりとしたものが舌を撫でた。鉄の味。喉はカラカラで、流し込んだ唾液とどろりとしたもので襞が悲鳴を上げた。

 視界の四隅が薄っすらとぼやけてくる。脳裏で考えていることが一気に後方へ飛んでいく。

 兄の椅子はもう目の前……。

「兄貴!」

 喉につっかえて上手く声が出なかったが、確かに伸ばした手は兄の骨でゴツゴツした足を掴んだ。

 刹那。


「ぅぐぐぅぅぅぅぅぅっっっっぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁ!!」


 断末魔の叫びが、耳の穴を切り裂いた。

 握った足の感覚が、急激に消え失せていった。

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