ドッカラ・オンネン・ジュゴン・レディオ

DITinoue(上楽竜文)

第1話

 兄は、二日前から魂を失ったらしい。

 そう思えるほど、兄は豹変していた。

 これまでは、口数は少なくとも誰よりも情熱のあるサッカープレイヤーだった。練習熱心で、クールな人。眼鏡をかけた顔は不細工でも、私からすれば、彼の顔は誰よりも輝いていた。

 それが、どうだ?

 二日前からの兄は、目の色を失い、だらんと頭を垂らし、背中を丸め、げんなりと紫色の顔をした幽霊に成り下がっている。

 一体、どんなことがあって兄はそうなったんだ?


彩華あやか、どうしたの? 生きてる?」

 チリンチリン、と脳を打ち鳴らすベルの音に、私の意識は現実世界へ引き戻される。

「あっ、未稀みき……生きてる、大丈夫」

「ならいいけど。なんか機能もずっとこんなんじゃない? 大丈夫? なんか変なことでもあったわけ?」

「いや、別にそんなこと無いし」

「なら良いんだけどさ……」

 と、私の顔を覗き込む親友A、柴原しばはら未稀は、ミディアムヘアーをクルクルと弄る。

「あのさ、知ってる?」

「何が」


「最近さ、鎮御山しずおやま神社の近くに住んでる人がさ、なんかどんどん体調不良になってってるんだって」


「……なんそれ。そんなわけないでしょ。インフルでも流行ってんじゃない?」

 九十九つづら町と隣の四行しぎょう市の市境に聳える火山、権平嶽ごんだいらだけから噴き出した溶岩で出来たといわれる九十九山。その麓にあるのが鎮御山神社だ。

 かなり古く、鳥居も社も朽ちていて、参拝者はほとんどいないはずである。

「それがインフルじゃないっぽい。なんかさ、頭痛を訴えたりするのと、なんか変な音が聞こえるんだって」

 占いなんかが大好きな親友の熱弁を、右に左に聞き流す私。

「頭痛の頭をガンガン掻き鳴らすみたいな鐘の音とかがするんだって。土を掘る音とか何か変な呪文みたいなものを聞いたって人もいるらしいし。絶対なんかあるじゃん。あの神社どう考えても呪われてそうだもん」

「そんなこと、あったら面白いけどね」

 鎮御山神社とは山を挟んで反対側にある奥田おくだ家に関係のあるとは思えず、私はペダルを漕ぐ足を早めた。




「……生きてんのか? マジで」

 またか。

 兄の姿を探す私の視界に、針金を持った太く分厚い革手袋のような手が入る。

「何よ、あんた。毎度毎度……」

「だってそりゃ、明らかヤバそうじゃね? お前の最近のおかしさ」

龍牙りゅうが、あんたホント……」

 校則を破ってまで貫くゴールデンな長髪を揺らす、兄と同じサッカー部の守護神であり、無類の機械好き・改造好きの同級生、獅子内ししうち龍牙。

「なんかあるんなら、全部俺に話せよ」

 こちらに興味を持っているのか、いちいちお節介が多く、必死に遠ざけようとするがそれでも金魚の糞みたいに付いてくる。

「どーせさ、お前と相思相愛の兄ちゃんが気になんだろ? 分かってるって。けど、今日も部活来てねぇから」

 二日前から兄は部活に来なくなったという。それまでは、練習は出来なくても練習の補助と筋トレのためとして、受験勉強の合間を縫って部活に行っていたが……。

「そうですか。じゃ、私もう行くから」

 その情報が得られただけで、私にこいつと話す義務は無くなった。

 龍牙の顔面を手でグッと押して自転車に跨り、スタンドを上げた。




 ゴムを外してポニーテールを広げ、冷たい晩冬の風を一身に受け止め、タオルで髪を濡らす汗を拭き取る。

 バスで三十分くらいのところにある女子サッカークラブでの練習を終え、自宅の扉を開ける。

 瞬時に、木材の臭いが鼻につく。

「ただいまー」

「お帰りー」

 台所から母の声。

 練習の時のままの駆け足で私は台所へ入り、人参を切っていた母に荒い息のまま訊ねる。

「兄貴、どう?」

「駄目だね。ぜんっぜん駄目。仏間に閉じ籠ってボーっとしてるわ。ホント、何もしてないんだけどさ」

「……そっか」

 一瞬踏み出そうとした足がカクンとすくみ、全身が小さな迷いに直面した。

 だが、何とか、コの字型の大きな日本家屋の中心部分に位置する仏間へ私は歩みを進めた。


 サーッ

 そっと、襖を開ける。

 ――やっぱり、昨日のまんまか。


 私の視界に飛び込んできたのは、やはり体育座りで仏間の中心に佇んでいる、どこを向いているのかもわからない兄、純平じゅんぺいの姿だった。


 身体は仏壇の方に真っすぐ向き合っているが、視線は宙にある一点を寄り目で凝視しているだけ。口は顎の関節が外れてしまったみたいに中途半端な開き方をしている。顔は紙みたいに白く、体温をどこかへ失ってしまったのではないかとすら思えてしまう。髪は伸び放題でぼさぼさ、薄い髭が口周りを這いずり回っていた。

 彫刻のような分厚い肉体は一体どこへ行ったのか、兄の身体はシャープペンシルの芯のような頼りないものに変わっていて、筋肉で肥大した身体のために購入した大きめのTシャツの有り余ったゆとりがなんとも虚しい。

 首は指で弾いたら頭が飛んで行ってしまいそうなほどに細く、手は真っ白で複雑に入り組んだミントグリーンの血管が濃く浮かび上がっている。足もすっかり細くなり、テーピングがずり落ちてしまっているほどだ。


「……兄貴、調子どう?」

 また、前日よりも酷くなった有様に、心なしか語尾が震える。

 私の脳をぎっしりと埋めていたものが、強く噛んだ歯の間から霧のように抜けて、ぐるぐる渦巻く空白が脳に出来つつある。

「……ご飯、食べれる? 今日、兄貴の大好きなほりにしの唐揚げだってさ」

 努めて明るい声を出すが、その分、厳しい仏間の静寂が空恐ろしくなるだけだった。


 兄は、ぽっかり開いていた口をゆっくり閉じた。


 刹那、バン、という襖を叩いたような音が仏間に反響した。

 大きく肩が上下する。

 ――何かがぶつかった?

 まあ、どうせ鳥か。

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