11 大人

 部屋に満ちる光量の多さにハヤシは頭の奥にキーンとした痛みを覚えた。これ以上この部屋にいることは危険だと判断し、外に転がり出る。痛めたほうの腕をかばいながらマンションの非常階段を半ば転げ落ちるようにして駆け下りた。地上まで下りて柱に背中を預けるようにして座り込むと、腕の痛みが頭の中を占領した。ズキズキと熱を持ち、痛みで吐きそうだった。腕を動かさないように慎重に、怪我をしていない方の手でコートのポケットからスマートフォンを取り出す。メールボックスには仕事の指示連絡が大量に届いていた。とりあえず今日の他の仕事や、当面の新案件に断りの連絡を入れなくてはならない。

「No.1689、何の報告だ」

 電話に出たのは人間の体温をまるで感じない、冷酷な声だった。ハヤシの上司にあたる男だった。

「アキという延滞者の連行に失敗しました。力及ばず申し訳ありません。負傷したため本日の業務はキャンセルしていただきたいのですが」

「失敗?またか。お前は本当に使えない」

「申し訳ありません。今後は一層気を引き締めてまいります」

「お前のような使えない大人をこの世で養っておけるほどこの世はお人よしではない」

 冷酷な声でその後、一時間以上くどくどと苦言を呈され、ハヤシは合間合間に「申し訳ありません」を返した。正直、腕の痛みのせいで上司の言っていることの半分も聞いていなかったし、最後の方に至っては意識が朦朧としてきて、10秒おきに機械的に「申し訳ありません」を唱えるbotと化していた。

「それでは、明日にはまたしっかりと出勤するように」

 上司はそう言い捨てて一方的に電話を切った。ハヤシは暗くなったスマホの画面に映る自分の顔を見た。深くしわの刻まれた額には脂汗が浮かんで、一層老けこんで見えた。

 吐き気に耐え切れず、ハヤシはその場で胃の中身をぶちまけた。歩けそうもなかったが、上司は負傷した自分を助けるために誰か人をよこしてくれそうな気配はなかったので、自力で帰る他道はなかった。

 近くにカフェテリアがあったのでそこで少し休憩しよう、とハヤシは決め、柱に縋りながらよろよろと立ち上がった。


🌕 🌕 🌕


「そ、その怪我、大丈夫ですか?!」

 バイトの青年はハヤシを見るなり悲鳴混じりにそう言った。

「平気だ。ホットコーヒーを」

 ハヤシはよろめきながら席に着いた。青年はハヤシの様子を気にしながらも、駆け足でカウンターに入って行った。

 ハヤシは以前、同じ席に座っていた時に会った提供者の女を思い出した。ヘラヘラとした態度で、管理局員を利用して創作者の支援をする仕事をしていたが、彼女も大人だ。あのヘラヘラした笑顔の下には仕事の苦労があるに違いなかった。子供の時間が終わったのにこの世界に居続けるためにはそれなりの代償を差し出す必要がある。誰に?世界にだ。

「ホットコーヒーです」

 青年がまだ心配そうにハヤシの顔を覗き込みながらコーヒーを運んできた。

「どうも」

 ハヤシは普段なら入れないが、角砂糖を三つとミルクをたっぷりと注いでからコーヒーを口に運ぶ。熱い液体が喉を伝って身体を温めていくのが分かる。

「ありがとう。もう大丈夫だから、自分の仕事に戻りなさい」

 ハヤシは青年に言うと、青年はやっと安心したのか、カウンターの中に戻っていった。この青年はバイトをしているが、これは大人の仕事とは全く違う。すべての子供は生活に必要なものはすべて支給されるため、金を稼ぐ必要はない。青年はカフェで働く、ということがやりたいからその希望がかなえられているだけだ。子供のために働くことが義務である大人たちとは違う。青年の場合、給仕はやりたいけれど掃除は嫌だな、と思ったらそのパートはロボットがやってくれる。明日店をたたんで別のバイトがやってみたいな、と青年が思えばそれもかなえられる。今までここが行きつけのカフェだった子供の客のためにロボットがこの店を継ぐこともある。

 ハヤシはふうと長く息を吐きだした。ハヤシが大人になることを選択したのは、それ以外選択肢がなかっただけだった。17歳の時の進路意志決定票の記入の時に大人になることへの決意も固められず、かといって死ぬという決断も下せずにいたハヤシは、決断を先延ばしにし、結局期限日に仕方なく大人になることにした。大人になった後で、死ぬ決意ができればその時に死ねばいい。そう思っていたが、大人は死ぬことをどうやら許されていないようだった。60歳になるまで働き、その後で死ぬ。

 これでは40年の懲役だ。人の心を失った上司の命令を聞き、作り笑いをして媚びへつらい、顔色をうかがいながら毎日身を粉にして働いて、40年経ったら、はい用済みとばかりに殺される。

 仕方のないことなのだ。死ぬことを決断できなかった罰だ。いや、上司を見てみろ。あれこそが大人なんだ。期日までに大人になれなかったから、子供のままで大人の仕事をしているからこんなに毎日がつらいのだ。図体だけ大きくなり、大人の皮をかぶった未熟者。大人になれなかった罰なのだ。

「この世界がおかしいんだよ」というアキの言葉がよみがえる。この世界はおかしいのかもしれない。私が順応しようと歯を食いしばって耐えてきたこの世界は、変えるべきおかしなものなのかもしれない。

 でも、変えるなんてどうやって?自分にはもう、想像力なんて欠片も残ってない。時間は人全員が平等に与えられた才能を着実に奪っていくばかりで、未熟者の子供を勝手に大人に成長させてくれることはない。

 人を殺すなんてことはしたくない。自分が子供管理局員になったからには、自分の担当の子供が少しでも生き延びられるように督促状を何度も何度も送った。でも考えてみれば、自分がそうだったように、督促状を受け取る子供も決断ができないのだ。いくら急かされても死ぬなんてことが決められるわけがない。

 ハヤシはスマホを操作して、インターネット上の創作物をアップロードするプラットフォームにアクセスする。アキのページに更新はない。

「この世界を変えるなら変えてくれよ……」

 ハヤシは小さな声でため息とともにつぶやいた。

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