8 映画

 月の都市は拍子抜けするほど地球とそっくりだった。月には大気が無いため、居住区域を覆うように巨大で透明なドームが空を覆い、地球から見たときに夜空に浮かんでいた月が、今は青い地球に変わっていることくらいで、後は地球にいる頃となんら変わりはない。重力さえもコントロールされており、歩くのにも不自由はない。月の夜と昼の周期は、地球の約15日に相当する。地球から見たときに満月だったので、これからしばらくは昼で、明るい時間が続く。

「さて、月に着いたわけだけど、この広い都市の中でひとりの女の子を見つけるのはなかなか大変だね」

 ホシは窓を開けて車から首を突き出すようにして、子供たちが住む集合住宅であるアパートを見上げながら言った。

「そうですね……」

 ナニエルはどこまでも続いているかのように並んで立つアパートのおびただしい窓の数を見ながら憂鬱を感じた。そもそも、ラジオをナニエルが聞いていたということをアキは知らないのだ。そして、奇跡的に会えたとしてアキは、突然はるばる地球からやってきた人に、あなたのラジオを盗み聞き、それを自作発言をして盗作しました、でもこのままでは僕の命が危ないので物語の続きを書いてくださいなど、愚かで恥ずかしいことを言われたら聞き入れてくれるだろうか。死にたくない一心でここまでやってきたが、車に乗って車窓を眺めているうちに、ナニエルの頭の中に一つの嫌な想像が働いていた。アキはもう大人になってしまったという想像だった。アキは大人と死を受け入れ、創作を辞めてしまったとしたら。その仮説は十分ありえた。そう考えると、醜く生にしがみつく自分がなんとも生き汚く思えた。

『ピピ、ガー――ツー』

 突然ラジオからノイズが流れ始めた。ナニエルはラジオを手に取る。ホシは車を路肩に寄せて停車した。つまみをいじると、ノイズが大きくなったり小さくなったりした。

「もう少し車を移動させてください。発信源に近づけばきっとそこにアキがいるような気がするんです」

 ホシは頷いてすぐに車を発進させた。

「このアパートから電波が発信されてるみたいだね」

 やがて、一番ノイズが大きくなったアパートの近くに二人を乗せた車はたどり着いた。ナニエルは車を降りる。アパートを一階から順にしらみつぶしに調べていくことにした。


🌕 🌕 🌕


 ドアを開けた少女はぼさぼさの長い髪をしていた。上下色の違うジャージを着ている。部屋の中からはテレビか映画でもついているのか、音がしていた。

「何か?」

 ナニエルの手のラジオからもはっきりと明瞭な音で『何か?』と流れた。

「あなたがアキ?」

 ホシが少女に聞いた。少女はナニエルの手の中のラジオを見て少し目を細めるようにした。

「違う。私はミカ」

「深夜にラジオで放送をしていたのは君だよね」

 ナニエルが言ってラジオを少女の目の前に出した。少女はそれをナニエルの手から取って様々な角度から観察し、電源を切った。

「あなたが聞いてたんだ。アキの話。何しに来たの?」

「アキと話がしたくて。アキのことを知っているの?」

 ミカはついて来い、というように二人を手招きして部屋の中に入って行った。ナニエルとホシは顔を見合わせ、少女の後に続いて部屋に入った。部屋のサイズは地球月問わずすべての子供共通で、ナニエルの部屋と同じような間取りだった。大きなモニターが壁に掛けられ、部屋の真ん中にはソファーとクッションの山がある。モニターには映画が映っていた。少女はソファーに腰掛けた。

「これを見終わったらアキについて教えてあげる。いっしょに見よう」

「アキはまだ子供として生きてるんだよね?」

「そうだね」

「映画はあとどれくらいかかる?」

 ミカはナニエルに不快そうな視線をくれ、何も答えずに画面に集中した。なすすべもなく、ナニエルとホシは少女の座るソファーのそばに散らかるクッションをそれぞれ引き寄せ、尻に敷いた。ナニエルが部屋を見渡すと、窓際に置かれた小さなテーブルの上にマイクといくつかの機械類が置かれていた。おそらくラジオを放送する機材と見て間違いないだろう。壁には机があり、パソコンと大量のコピー用紙が見えた。棚には大量のDVDケースが並んでおり、入りきらなかったものは床の上で山を作っている。簡素なキッチンのシンクには使用済みの食器が山を作り、脱ぎ捨てた服も床に所々散らばっていた。

 一時間ほど経つと、エンドロールが流れ始めた。ナニエルは後半しか観ていないが、概念的な映像が流れ、抽象的で難解だった。一晩中寝ずに運転をしていたホシは自分の膝を抱えてうとうとしていた。

「じゃあ、アキのことについて教えてくれる?」

 ナニエルは満を持してミカに尋ねた。しかし、ミカはナニエルの声が聞こえないかのようにその言葉を無視し、新たなDVDディスクをモニターの下のデッキに挿入した。オープニングクレジットが流れ始める。

「ちょっと、話が違うよ。これを見終わったら僕たちにアキについて教えてくれるんじゃなかったのか?」

 ミカはうるさそうに両手で耳を塞いだ。鼻を鳴らし、モニターを指さす。新たな物語が始まっている。ふとナニエルは、ミカはこの作品からナニエルに何かを伝えたいと思っているのだろうか、と思った。ミカはまたモニターを指さした。

 ナニエルはおとなしく映画を観ることにした。

 やがてその映画も終わり、エンドロールが最後まで流れた。ホシは横になって眠りこけていた。

「どう思った?」

 ミカはナニエルに聞いた。ナニエルは慎重に言葉を選んだ。

「わりと普遍的なラブストーリーだと思ったけれど、男のセリフが印象に残ったかな。一度変わったものはもう元には戻らない。変わったことに気付いてしまわなければよかったのにというセリフ。君はひょっとして、アキは以前とは違うということを僕たちに教えようとしているのか?」

 ミカはナニエルの言葉を特に表情を変えることなくじっと見ていたが、新たなDVDをまた取り出してデッキに入れた。画面を指さす。

 また新しい映画が流れ出した。ナニエルは眠気と疲労に耐え切れなくなり、その上映中に眠った。外は常に明るく、カーテンの隙間から覗く黒い空には青い地球が大きく輝いていた。

 ミカはそれから何本も続けて映画を観続けていた。3本ほど上映が終わり、さすがに寝疲れたホシが起きて、ナニエルを揺り起こした。ミカは二人をちらりと見たが何も言わなかった。

「ずっと観てるの?一晩寝かせてもらって悪いんだけど、そろそろ私たちにアキについて教えてくれない?」

 ホシが呼びかけてもミカはそれを無視し続けた。

「ねえ、無視しないでよ」

 ホシはカーテンを開け、DVDデッキをいじって映画の再生を止めた。ミカはむっとした顔でホシを睨んだ。

「あなたたちにアキの事を教えるかどうか考えた。結論が出た。教えたくない」

「どうして?いっしょに映画を観ないで居眠りしたのが気に障ったのなら謝るよ」

「あなたたちの作品に対する態度が気に入らない。あなたたちは映画を観てもこれといった感想も言わず、創作者のメッセージを読み取ることしか考えていない。読み取ることができれば価値を知ったような気になれるから」

「メッセージを読み取ろうとすることの何がいけないの?」

「読み取ることは悪いことじゃないし、読み取ろうとする行為自体をどうこう言っているんじゃない。あなたたちは読み取ることしかできないということに失望したの。アキの作品をそういう人に評価されてしまうのを恐れているの。あまりに芸術の受け手として、評価をする立場として無能すぎる」

「感受性が死んでるって言いたいわけ?」

 ホシは首にかけているペンダントを引っ張り出した。黒曜石のように真っ黒な石。

「もちろん、私は大人だから子供が持っているようなきれいな感受性というものはとっくに失っている。子供じゃなくなるってそういうことだから。でも作品を見る目は感受性だけじゃない。知識や経験で良し悪しくらい判断できるよ。アキの作品は良い作品だと思う。だからアキと話がしたいんだ」

「あなたたちは作品というものを自らの保身や、仕事のためのものとして見ている。自らの承認欲のために作品に関わっている。そんなあなたたちとアキを合わせるわけにはいかない。アキは純粋に、芸術としての美しさのためにだけ創作をしていなくちゃならない。あなたたちに会って他人からの評価や承認を得てしまったら、今のアキは失われてしまう。アキの作品は今まではちゃんと、純粋な美しさの追求だった。アキの作品の中に承認欲などという不純物を入れるわけにはいかない。だから、帰って」

 ミカは静かな口調でそう言った。

「君はアキのなんなの?」

 ホシが聞くが、ミカは答えない。

「そう言われて帰るわけにはいかないよ。それはあくまでミカ、君の意見であって、アキの意見じゃない。承認欲というものを不純物だと言ったけれど、本当にそうかな?何かやるにあたって、他人の目というのは良い影響も与えるんだよ。アキは今停滞している。何か他人からの新たな刺激が今必要なんだよ。アキの作品を知っている人、応援している人、好いている人がいると言うことを知れば、それは創作意欲になる。励みになるはずだよ。私はアキを部屋から連れ出して、バカでかい変化を与えようって言っているんじゃない。ただ、原動力を与えたいだけ。私は今のアキの作品を根本から変えたいとは思っていない」

「原動力の与え方が怖いんだよ。承認欲というものはもしかしたら励みになるかもしれない。でも承認欲のせいで、アキはきっと自分のためでなく人のために作品を創るようになってしまう。アキは今まで部屋に一人籠って自分のためだけに作品を創って来た。だから美しい作品が作れたんだよ。私はアキの今の作品を守らないといけない」

 ホシは軽く肩をすくめた。

「君の好みはわかった。私は、今のままではアキは作品を生み出せずに停滞してしまうから、今の状態から少し変わってしまうリスクを承知でなんらかの介入をしてブレイクスルーを図らないといけないと思っているけれど、一方君はその変化の小さな可能性も恐れている」

「まあ、そうだね。そのとおり」

 ミカとホシはナニエルの方を向いた。

「ナニエルはどう思う?」

「僕は」

 ナニエルが自らの保身のためにしか作品を見ていなかったのは真実であった。

「思い出したんです」

 しかし、映画を観ているミカの横顔に、思い出した記憶があった。

「僕は、アキの物語に、ちゃんと心動かされていた。アキの創るあの物語が好きだった」

 ナニエルが幼い頃、毎晩布団にもぐってアキの語る物語を胸をわくわくさせながら聞いていた記憶だった。

「それで、どっちなの」

 ホシが聞いてくる。

「僕は僕の保身のためにアキの作品を見ていた。でも、今はよくわからない」

「はっきりしてよ!」

 ナニエルは身体を動かすことができなかった。アキに続きを書いてもらいたいが、変わってほしくない。自分たちが出向いて行って原動力を与えればよいというホシの意見に概ね賛成だったが、その行為のリスクをミカに主張され、自分の目的が揺らいだ。何が何でもアキに続きを書いてもらって延命したいという気持ちの中に思い出した、アキの創る作品の美しさ。自分はその美しさを損ねてまで延命したいのだろうか。

「帰って」

 ミカは低い声で言って、胸元から自分のペンダントをつかみ出した。突然、ペンダントはまばゆく光り、部屋の中は真っ白になる。

 光が収まったとき、立っていたのはミカだった。床にはホシが倒れていた。

「何をしたの」

 ナニエルがホシのそばに駆け寄ってその身体に触れる。

「死んだ」

 倒れ込んだホシからはまったく生命の気配がしなかった。不気味に冷えたその身体は、数秒前までは生きていたということが信じられないほど異質な感じを持ってそこに存在していた。ナニエルはぞっとして手を離した。

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