2 エビネ
青年はベッドから身を起こした。ベッドサイドに置かれたデジタル時計は正午を少し過ぎたことを示していた。
「ふぁ、ぁ……っ」
青年は緩慢な動きでベッドから立ち上がると洗面台に向かう。水垢で曇った鏡には、ぼさぼさの寝ぐせのついた髪と生気のない顔をしたパジャマ姿の男が映っていた。髭が少し伸びていた。青年は両手の袖が濡れるのも厭わずに無造作に蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。
洗面所から部屋に戻る動線上の冷蔵庫を開けるが、中身は空だったので、青年は冷蔵庫を閉めた。ドアに開いた細長い穴である郵便受けには封筒が詰まっていおり、青年はその封筒をまとめてつかみ取ると、一枚を残してそれ以外はゴミ箱に突っ込んだ。カーテンを開け、ベランダに出る。部屋の中に日の光が差し込む。白い光が差し込んで初めて、部屋の中が今まで寒色の色彩で沈んでいたことがくっきりと判明する。狭い六畳のマンションの一室には、小さな書き物机とパソコン、その周りに無数の白紙のプロットと灰皿が散乱していた。
狭いベランダからは都会のごちゃごちゃとした街並みが見えた。青年は煙草に火をつけ、大きく一服すると、封筒を開けた。
『進路意志表示遂行督促状』と書いた紙が入っていて、『あなたは大人になるという自らの意思表示をしたにも関わらず、すでに期日を8か月延滞しています。すみやかに当局に出頭してください。過去の意思表示に従わないことはすなわち、この世界の義務を放棄することであり、威力行使の対象となります。この警告はすでに9度目です。これを無視する場合、あなたのこの世界でも権利を剥奪し、義務違反の重大な刑罰が課せられる可能性があります』と続いている。
青年は煙を大きく吐き出した。
「まじかぁ」
青年のアパートの目の前にある電光掲示板には、かわいらしいアニメキャラクターが朝のニュースを報道しているのが映っていた。
🌕 🌕 🌕
「なあエビネ、もう一度僕と合作をしようよ。きっと楽しいよ」
公園のベンチには青年が二人腰掛けていた。
「合作はもうやらないって何度も言ってるだろ。書きたきゃそろそろ一人でやれよ、ナニエル。それに俺たちの合作ったって、大した作品にもならずに終わったじゃねえか」
ナニエルは頭を抱えて大きくため息をついた。そのTシャツの首元にあるものをエビネはちらりと見た。
「お前、そろそろ延滞が厳しくなってきたんだろ?だから俺に連絡してきた」
ナニエルは首にかけている紐をシャツの中から取り出した。それは、正八面体にカットされた石のペンダントのようだった。
「ほら真っ黒だ。時間切れだよ。お前は進路選択で大人になる選択をしてたんだっけか?もう大人にならないといけないんだよ」
この世界は多くの子供と、そしてほんの少しの大人でできている。テクノロジが発展し、人間が生きていくのに必要なことのほとんどは機械がやってくれるようになった。そのため、人間は機械の功績にただ頼っているだけで一生を終えることができる時代が来たのである。人間は仕事というものをしなくてもよくなり、長い一生を仕事以外のことに費やし、時間を潰さなくてはならなくなった。今まで仕事を生きがいのようにしてきた人たちは当然発狂した。仕事をさせてほしい、と機械に懇願する者まで現れた。最初、世間はそんなワーカホリックたちをなだめ、「今までよく頑張ったね、これからは好きなことをしていいんだからね」と慰めた。しかし、そんな風潮も長くは続かなかった。自分のことをそこまで仕事中毒だとは思ってこなかった人たちもだんだんおかしくなっていった。仕事というものを省いた人生というのはその人たちの想像よりも長ったらしく、退屈なものだと気づいていった。大人は全員狂った。家庭に居場所のない父親、金儲けが生きがいの経営者、仕事に全てを費やしてきたために無趣味な人。
しかし、そんな中でも狂わなかった人がいた。子供である。子供は遊ぶことこそが生きがいで、無限の時間の中で無限に遊んだ。与えられたものを純粋に、余すことなく楽しんだ。
大人はほんの一握りの子供を守る役目を負った大人以外みんな自殺した。こうして子供の世界が誕生した。
子供の世界で、大人は生きていけない。子供は、一定の時間、多くは20年間、この世界で生きた後、死によってこの世界から去るか、それとも子供の世話をする大人になってこの世界にとどまるかを決めなくてはならない。この世界に生まれた子供はすべて生まれた瞬間にペンダントをつけられる。そのペンダントは最初こそ明るく輝いているが、徐々に時間経過とともに光を失い、時間切れの時には真っ黒になる。光は子供でいてもいい証明だった。
「でも、なにかを創作している限りはこの世界にいられるという法律があるだろ。延命できるんだ」
すべきことが特になくなって、長ったらしく退屈な人生を送ることになった人々の多くは、生きがいを創作活動に見出すようになった。すばらしい作品を作った者が評価され、その人が創ったキャラクターはこの世界では絶大な発言力と影響力を手にする。テレビのニュースを読み上げるのは人気キャラクターだし、報道の内容はそのキャラクターの思考回路によるフィルターを通して伝えられるということになる。子供だけの閉塞的で、機械によって多くの事がなされる世界において、事件はすみやかに解決されるため、ニュースの真偽というものはもはやどうでもよくなった。それがいかに面白いかということが真偽よりも重要なのであった。ニュースはエンターテインメントという位置づけになった。
すばらしいストーリーやキャラクター、それらを生み出しさえしていれば、子供の時間切れが来てしまった人間にも人権が与えられる。創作は豊かな想像力と自由な遊び心によって生まれるものであるため、創作者は子供のままの心を持つと判断され、この世界で生きることができた。
「エビネ、何か創ろう。創作者になるんだ。最後の警告が来たから、このままじゃ近いうちに僕は当局に捕まるんだ。僕を助けてくれよ」
エビネは乾いた笑いを吐いた。
「お前と合作?俺は知っているぞ。お前は今まで自分一人で創作したことがない。俺は一人でものを創る力もない作家とは絶対に合作したくなんかないね」
「以前の合作がめちゃくちゃのままに終わったのはそういうことか?」
「さあ。以前の失敗は、二人ともに力も熱量も足りなかったというそれだけの話だ」
ナニエルはエビネの胸倉をつかんだ。
「お前に持ち掛けた僕が間違いだった。創作に真剣に打ち込まず、勝手に創作の世界から出て行ったお前なんかに」
「創作以外に別の生きがいを見つけて器用に楽しく生きることを、なんで否定されなくちゃいけないのか俺にはわからないね。一つのことに全てをささげる自分がかっこいいと思っているのなら気の毒に思うよ」
ナニエルはエビネを突き放し、公園を出た。エビネの石はまだ少し光が残っているのがさらにナニエルを苛立たせた。
🌕 🌕 🌕
ナニエルはアパートの自室に戻り、狭い部屋の中を檻の中のクマのようにぐるぐると歩き回った。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」
パソコンの電源をつける。書きかけの小説原稿のファイルと、インターネット上の創作物をアップロードするプラットフォームが立ち上がる。ナニエルのマイページには、ナニエルが今までにアップしてきた作品群がずらりと並んでいる。
「続きはどうしたらいいんだよ」
ナニエルの指は勝手に動いて、過去の作品の評価履歴のページを表示する。数字を見るに、過去の作品は大絶賛とは言わないまでもそこそこに高評価をもらい、そこそこの知名度を持っていることを示していた。インプレッションという、その作品を閲覧した人の数のグラフは安定した数字を保っていた。しかし、そのグラフは8か月前を境に急激に下降している。
「くそっ、駄目だこんなんじゃ。こんな話つまらない」
ナニエルは髪をかきむしる。一人で創作する力もない、というエビネの言葉が泥のように頭の中を占める。
「ああそうさ、僕にはこの続きを書く力なんか無い」
ナニエルは小説家ではなかった。ナニエルは窓辺に置いてある古びたラジオを手に取った。つまみを回したり、アンテナをいじるが、スピーカーからはノイズ一つも流れない。ナニエルは盗作家であった。8か月より前にアップしたすべての作品は、別の人間から聞いた話をただ文字に起こして、自分の名前で発表していただけ。すべてはこの不思議なラジオの向こうの顔も知らない誰かの生み出した物語だった。
ナニエルは10歳の時、偶然街角でこのラジオを拾った。ラジオは壊れていて電波を受信しなかった。しかし、そのラジオのアンテナは真夜中になると、変な電波をキャッチした。ラジオの向こうの声に耳を澄ますと、女性の声が聞こえた。女性は誰かに話しかけているかのように毎日1時間ほど独り言をその電波に乗せて垂れ流し、1時間が過ぎるとぷつりと通信を切った。最初は気味が悪かったが、毎晩その女性の語りを聞いているうちにナニエルはだんだん虜になっていった。彼女の声は特別美しいわけでもなく、なんなら平凡で少し低めの声をしていた。話しぶりも上手いとは言えず、説明の順序や因果がめちゃくちゃなこともあったが、ナニエルがのめり込んだのは、その内容だった。彼女は毎晩、ナニエルが今まで聞いたことのないような物語を語った。その話を聞いている時間は、夢のようだった。ワクワクと高鳴る胸を押さえながらベッドに入り、薄明かりの中、彼女の物語を聞いていた。
この世界の子供は17歳で進路を決定する。進路調査票が届き、子供か大人という項目のどちらかにチェックマークを入れて署名し、子供管理局に提出しなくてはならない。子供にチェックを入れれば3年後に管理局によって死を与えられ、大人にチェックを入れれば3年後までに就きたい仕事を選び、その資格を取得することとなる。
ナニエルが盗作を決意したのはこの時だった。彼女の話が聞けるチャンネルの周波数は他のどんな高性能の機械を使っても見つけることはできず、ナニエルの手元の不思議なラジオでしか受信できないということはすでに実験済みで、わかっていた。この放送は自分だけのもので、彼女の物語は彼女と自分だけが知っている。ナニエルはただ、創作者として世間に認められるほどの評価がもらえればそれでよかった。盗作は3年間の間、だれにも見つかることなく非常に上手くいった。
しかし、8か月前、ナニエルが20歳の誕生日を迎えたときから、ラジオの向こうの誰かは放送をしなくなった。
「インプレッションだ。インプレッションを稼がないと僕は捕まってしまう!」
ナニエルは自分でも物語の続きを書いてみようとしたが、まったく上手くいかなかった。何か創らなければならないという焦りに身を任せ、適当な創作者に連絡を取って共作を持ちかけたが、それも上手くいかなかった。
「なんとか言えよ!結末を教えてくれよ!アキ!」
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