1 ナニエル
「あー、つまんないな……」
少年は椅子の上で伸びをして、天井を見上げたまま喉の奥からため息とともに吐き出した。
家は静かに寝静まり、壁に掛けられた時計は深夜の二時を回っていた。少年は椅子から立ち上がってカーテンの隙間から外を見た。月がいつもよりひときわ丸く、明るい夜だった。少年は窓辺に頬杖をついてその美しい月と向かい合った。月の表面がいつもよりもよく見える気がした。じっと見ているうちに月の大きさがどんどん大きくなって近づいてくるような錯覚を覚えたので、少年は少し怖くなって月から目を逸らした。相変わらず、あたりは冷たい月光が降り注いでいるだけで、しんと静まり返っていた。
『ピピ、ガー――ツー』
急にすぐそばで音がしたので少年は飛び上がった。見ると、カーテンに隠れて今まで見えなかったところに、一つの機械が置いてあった。それは古いラジオのようだった。自分の部屋の窓際にラジオを置いた覚えなどなかったし、母親は時々掃除をしにこの部屋に入って来はするが、こんなものを置いていくとは思えなかった。
「何?」
少年はまだ少しドキドキする心臓を押さえながら、まだノイズを出しているラジオを持ち上げた。横長のクッキー缶より少し小さめなその機械には、周波数のメーターとつまみ、アンテナとスピーカーがあるだけの簡単な作りだった。少年はつまみをひねってみる。メーターの中で針が動いた。針には目盛りが無かったが、目盛りを動かすたびにノイズの強弱が変わった。
『やあ、こんばんは。ナニエル』
自分の名前がラジオから流れ出して少年は驚いた。
『さっき、君はつまらないと言ったね。私も実は暇でしょうがないんだ』
ラジオを通して話しかけてくる人物は、声から言って女性のようだった。
「あなたは誰?」
ナニエルは聞いた。
『私はアキ。夜が寂しいから話し相手を探していたんだよ』
返答が帰ってきた。どういう仕組みかはわからないが、ナニエルの言葉は向こう側に届くらしい。
「ラジオは電話じゃない。それに、違法電波って言葉を聞いたことがあるよ」
ナニエルが言うと、アキは笑った。
『はは、このラジオは心配しなくても大丈夫。ねえ、何か話そうよ。眠りたくなるまで』
このアキという女がいったいどういう人物で、ラジオはどうやって動いていて、このラジオはいったいどうしてここに置いてあったのかという少なくない疑問がナニエルの頭を占めたが、それは一瞬のことだった。
「いいよ。話そう」
ナニエルは退屈していた。
🌕 🌕 🌕
「今日は数学、国語、英語、体育、生物、音楽。数学では連立方程式を習った。国語では、」
アキはあの日から毎日深夜二時過ぎになるとラジオを通して話しかけてきた。ナニエルは今日あったこと、世界のニュースをアキに話した。二人の中で、その奇妙な電波による通信は通話と呼ぶようになった。四年ほど、そのような日課が続いた。ある夜だった。
『で、どう。中学は楽しい?』
アキはナニエルの話を遮るようにして聞いた。話を遮られたが、特に話したい内容というわけでもなかったのでナニエルは自分の話をあっさりと諦めた。
「楽しいか?うーん、中学校に上がってはみたけれど、別にどうともないかな。小学校と楽しさはあんまり変わらない気がする』
『まあ学校に行っているだけなら面白さはないかもしれないね。社会というものはやっぱりつまらないものなんだ』
「どういうこと?」
『明日、違う道を通って学校に行ってみなよ。面白い友達ができるかもしれない』
「友達には困っていないよ」
『いいから。行ってみるといいよ』
アキはナニエルの日常をただ相槌を打って聞いているだけだったので、このようにナニエルに指示を出すことは初めての事だった。
🌕 🌕 🌕
『君が七日も通話をしてくれないなんて、相当面白いことがあったんだね』
それから七日後の通話でアキはそう言った。通話を無断ですっぽかし続けていたから拗ねるか怒るかしているかとナニエルは身構えたが、その声は穏やかで、どこか嬉しそうな響きさえ持っていた。
「そうなんだ。アキの言う通り別の道を通って学校に行ったよ。そうしたら廃ビルを見つけた。そこに入って行く7人の高校生くらいの人が見えたから追いかけてみたんだ。彼らは僕が今までに会ったことのないような、面白いやつらだった。彼らは比較的きれいな壁を探すと、それをバックにカメラを設置した。そして、カメラの前に立つ数人は緑色の気色悪いシリコンマスクをかぶった。その他の数人はカメラや機材をいじっていた。そして何をしたと思う?動画サイトへの投稿素材を撮ろうなんてくだらないことじゃない。彼らはテレビの電波をジャックして、日本中に犯行声明を出したんだ」
『日本人しか見ないテレビ電波よりも、インターネットである動画サイトにアップした方が視聴者数は稼げると思うけれど』
「違うんだ。彼らがやりたかったのは有名になることじゃない。彼らは自らを宇宙人と名乗り、二か月後に日本全土を爆破すると犯行予告をした」
『それは面白いね』
「そうなんだ。たぶん日本中だれも相手にしない。でも彼らはやった。僕はこんなに興奮したのは初めてなんだ」
『それで彼らと友達になったの?』
「ああ。僕は少し迷ったけれど声をかけることにした」
『素晴らしい!』
アキは拍手をした。
『ナニエル、そうだよ。それでいい。物語の始まりはいつも、現状を変えたいという強い意志と、ほんの少しの偶然。それが合わさっていろいろなものが巻き込まれていく。ナニエル、彼らと二か月後を見届けてよ。そしてその話を私にしてほしい』
🌕 🌕 🌕
「アキ、日本は爆発しなかった」
『そうらしいね』
アキの声はいつも通り落ち着き払っていた。
「でも、爆発を望んでいた人はたくさんいるということが証明された。彼らの目的は、残された時間が有限ならばどんな風に生きたいのかを人々に考えてほしかっただけだった。彼らはイカれた行動をとったけれど、本当はだれよりもまともで正義感にあふれた普通の高校生だった。今はこの社会で生きていくために勉強をしている」
『物語の結末としては悪くない。現状を変えたくて、いろいろなことが起きて、そしてまた日常に戻る。中のいろいろのおかげで登場人物は多少なりとも成長していて、普通の日常がほんの少し変わって見える。視点が変わると言うのがポイントなんだよ』
「僕にとっては退屈な世界を変えられると思ったのに、今残っているのはやっぱり変わらなかったという残念さだけだよ。何か変わってほしかったんだよ」
『ナニエル、単調でつまらないと思う日常の中にも目を凝らせば、変わるものはあるはずだよ。明日は電車に乗ってみるといい』
🌕 🌕 🌕
「アキ、僕は電車の中で面白いものを見たよ。朝の通勤でやや混んでいる電車の中だ。一人の客の足に大きな蜂が止まっていたんだ。スズメバチの中でも大きいやつだったよ。刺されたらひとたまりもないだろうということがはっきりわかった。その車両内で蜂に気付いていたのはきっと僕と、もう一人、男子高校生だけだったと思う。彼は蜂にひどくおびえていた。生存本能として実に正しいおびえ方だった。彼は理性によって一人逃げ出してしまいたい欲求を押さえていた。だって、彼が逃げ出したら車両内はパニックになって、あの閉鎖空間の中で彼自身も危険にさらされてしまうかもしれないからね」
『君は蜂の恐怖よりも彼の心情のほうが気になったんだね』
「そうだね。彼の行動次第でその車両内のみんなの安全が左右するんだから。彼は自分を含めたみんなを守るために恐怖と一人戦った」
『それで結末は?』
「駅に着くと、彼はあっさり電車を降りた。自分一人が助かる瞬間を見計らい、逃げ出した。彼はその瞬間まではたしかにヒーローだった。自分一人だけが敵の脅威に気付き、恐怖と戦った。しかし、最後は自分だけが知る情報を利用して自分だけが助かった。恐怖から逃亡した」
『面白い。物語の結末はハッピーエンドだけじゃない。ハッピーかバッドかはともかくとして、何かが決定的に変わるということが面白みであったりする。何も変わらない物語は面白くない』
「その通りだと思うよ」
『ナニエル、君はまだよくわかっていない。今度は丘の上にある高校の屋上に行ってみなよ』
「僕は高校生じゃないけど」
『話すだけなら年齢は関係ないよ。それに君は、なろうと思えば高校生にだってなれるでしょ』
🌕 🌕 🌕
「アキ、僕は高校の屋上に行った。高台にあるから見晴らしがよくて、そこで放課後に決まってたむろしている二人の高校生と友達になった」
『そう』
「彼らは家でもどこでもできるはずの読書やゲームをわざわざ予約をしないと使用できない屋上を使ってやっていた。部活動をやっているんだ、と堂々と言い放って、だだっ広い屋上を贅沢に使って、限りある青春を贅沢に浪費していた」
『君が青春に限りがあると知っているようでよかった』
「それくらい知っているよ。そうじゃなくちゃ、今僕が退屈のせいで苦しんでいる理由がないじゃないか。せっかくの僕の青春なのに、なにも面白いことが起きず、ただ時間が過ぎていくんだよ」
『君と同じようにただ時間を過ごしている彼らと何をしたのか話してよ』
「何も。ただ本を読んで、ゲームをして、ジュースを飲んでいただけ」
『まあ、確かに何も起きなければ物語は退屈になってしまうかもしれないね。彼らには何か変わる意志もチャンスもない。ナニエル、そろそろわからないか?この話において私が変わると期待していたのは、』
その時、ナニエルの背後でインターフォンが鳴る音がした。
『誰か来たの?』
ナニエルは家のドアチェーンがしっかりかかっていることを確認すると、ラジオの前に戻ってきた。
「なんでもない。ただの配達だと思う」
『この深夜にただの配達、ね。ナニエル、君はもしかして引っ越したりしたの?もしかして、以前の子供部屋には君はもういないの?』
アキの声に少し焦りのようなものが見えた。それがなぜだかはナニエルにはわからなかった。
「そうだけど。それがどうしたの?」
『ナニエル、隣の町の塾に行ってみなよ。そこで新たな友達ができるかもしれない』
アキはまたナニエルに指示を出した。
「アキ、僕もそろそろ気付くよ。君は一体誰なの?君は僕に指示を出すけれど、君は僕のことが見えているの?」
『私はただの君の深夜通話の相手だよ』
「はぐらかさないで」
ラジオはそこで一方的に切られ、後にはノイズしか聞こえなかった。
🌕 🌕 🌕
「アキ、君の言う通り、隣町の塾に行った。そこで一生懸命勉強している高校生と友達になった」
『君がまた通話してくれて嬉しいよ』
ナニエルはラジオでの通話をやめなかったし、アキの指示に従って行動を続けた。
「僕は退屈なんだ。今はこれが一番の暇つぶしになっている。でもアキ、いつかは君の正体を知りたいと思ってる」
『大変よろしい』
アキは満足したように言った。
「塾の話に戻すけど、友達になった彼にどうしてそんなに一生懸命勉強できるのかを聞いてみた。彼は朝も夜もなく、起きている時間のすべてを教科書の知識を詰め込むことに使っていて、その執念は鬼気迫るものだったから気になった。彼は常に死んだ魚のような目をしていたけれど、僕がそれを聞いたら、その時だけ目に光が戻り、頬を少し染めて、ある女の子の名前を言った」
『君の話の中で初めての女の子だ』
「彼は女の子に恋というものをしているそうなんだ。彼は病気の彼女を助けたいから勉強をしているんだと教えてくれた」
『物語において、恋愛感情というのは大きなエネルギーとなって物語を動かす。愛が世界を動かすと言っても過言じゃないくらい、愛のパワーは大きいんだ』
「その愛とか恋とかいうものが僕にはよくわからなかったんだ。だから彼との会話はそれっきりになってしまったけれど、彼は今も全力で勉強し続けているはずだ」
『じゃあ今度は山の向こうの田舎町に行ってみるといい』
🌕 🌕 🌕
「アキ、僕は山の向こうの田舎町に行って、一人の女性に会った。彼女は無人の駅でずっと空の絵を描き続けていて、なぜかと聞いたら、忘れられない人がいるからだ、と教えてくれた。昔いっしょにいた男を愛していて、彼が病で死んだ後も、彼のことを深く愛し続けているあまり、絵を描き続けているんだと言った。彼はもういないのに描き続けられるんだ。愛の力だ」
『そうだね。それが愛の力だ』
「でも、その愛の力ってなんだ?いったいどうして彼女がそこまで彼を「愛し」続けられるのかわからない。どういう仕組みでそんな思考回路になるんだろう」
アキは少し黙った。沈黙の後で言った。
『さあ。私にもわからない』
その声はずいぶんか細く、力ないつぶやきだった。
「いつもと調子がずいぶん違うね。いつもアキが僕に指示を出してどこかに向かわせるときは決まって、僕の話にからめた説教臭い何かを言ったはずだ。物語がどうとか。愛は物語を動かすすごいパワーなんだろ?どういうものなのか僕は気になるんだよ。教えてよ。それか、もっとわかりやすいように、次の行先を指定してよ」
『ごめん、ナニエル。そろそろ限界が来たのかもしれない』
「限界?」
インターフォンの音が聞こえた。ドアを叩く音もした。
『私はもう君との深夜通話を続けてはいられないのかも』
「どういうこと?嫌だよ、通話をやめないで」
急に不安感が押し寄せ、ナニエルはラジオに叫んだが、通話は切られた。後にはノイズが流れるばかりだった。
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