第9話 募る焦燥

「・・・違うっ!」

 掛け布団を乱暴に引き剥がした右手は、そのまま弧を描いて闇夜を大きく切り裂く。反動でベッドから転がり落ちた。肩や腰骨が床にぶつかり激痛が走る。痛む肩を左手で抑えながら、私は彼女に何を言っているのだ、いや、あれは決して自分が言ったのではない・・違うんだ、私が・・僕が君に伝えたいのはそんな言葉じゃない!

 行ってはダメだアイコさん!・・・アイコ・・・

 頭を垂れ、瞼をぎゅっと閉じる。

 誰も居ない、深夜の静寂が支配する部屋に、独り言がこだまする。彼女の名前を声に出して呼んだ。いや叫びに近かった。いつくらいぶりだろうか。彼女の名前を声にだしたのは。私はいつしか、彼女の名前をあえて口にしないようにしていた。彼女のことを忘れようとしたからだ。、次の一歩を踏み出すために。でも今となってはもはや、それは不可能だ。彼女も僕のことを探している。あの理髪店での長い夢、そしてこの謎の力・・彼女と再開することは、私の中で、現実的な可能性になっていた。しかし、いま見た夢は、そんな可能性が、今度こそ、潰えてしまう気がした。二度、この手の届かない場所に、彼女が行ってしまうと。同時に、何か人為的な力によって彼女が誘導されているという疑念を強く持った。なぜなら、私は、誰かに、まるで腹話術師に操られているかのように、思ってもいない言葉が次々と口をついて出てきたからだ。それは決して、善意のものではない。何か良からぬ力でコントロールされていると、私の中の警報音がけたたましく鳴りだしたのだ。


 それはこの不思議な力と無関係ではない気がする。この力が使えるようになった後、何度も自分の身に危険が迫ることがあった。それは偶然ではなく、明らかに何か意図的なものに思えた。まるで、世界が、私のことを排除したがっているかのように。しかし、その度にあのビジョンが見え、事なきを得た。あのベビーカーの親子を助けたときに聞こえた女性の声は、それ以来聞こえなくなったものの、私は次第にその力の扱いに馴染み、危険をことごとく回避してきた。そうするうちに、私に起きる危険の頻度は見るからに減った。いや、意識しなくても、危険を回避するルートを選んでいるといったほうがよいかもしれない。巻き込まれないように距離を取っていたアラタや他の知人とも最近では特に意識せず普段の距離感で接することができるようになった。私はこの力を、誰かが見ている時間と場所へ自在に移動できる力だと解釈していた。時間の方は定かではないが、場所はほぼその解釈の通りだった。だからこの力を使い、彼女の居場所を調べることができるではと考えたのだ。しかしどれだけこのビジョンを探っても、手かがりはつかめなかった。記憶を頼りに、アラタとあの緑の街も探した。しかし見当をつけていた場所には、街の影も形も無かった。そこは再開発の看板が立っているだけの荒れ地だった。看板に描かれていた再開発後の街のイメージも私が記憶しているものとは大きく掛け離れていた。私は途方に暮れた。完全に行き詰まっていたのだ。そうしてるうちに桜の季節は終わり、新緑の季節も過ぎ、その先の夏を思わせる暑い日が増えるようになる頃には、私は再び諦めの気持ちが大きくなっていた。そんな矢先ののこの夢。消えかけていた焚き木に新たな薪が焚べられ、勢いよく燃え上がる炎のごとく、彼女を求める気持ちが激しく高まる。しかし、一体どうすれば・・

 寝室を出てリビングに移動する。そこにはソファでイビキをかいているアラタがいた。昨晩は二人で遅くまで飲んでいたのだ。私が今しがた出した大声で、てっきり目覚めているのかと思ったが、お構い無しのようだ。それともあの叫び声も夢の中だったのか?少し混乱する。時刻は4時を過ぎていた。神経が昂ぶっていて、とても眠れそうになかったので、このまま起きていようと思った。あと1時間もしないうちに、朝日が昇ってくるだろう。それまで、少し落ち着こう、そう思った。キッチンに移動してヤカンに水を入れ、コンロに火を点ける。やかんがカタカタと震え、沸騰する。インスタントコーヒーの粉をマグに入れ、熱湯を注ぐ。書斎に移動してデスクに座り、湯気の湧くマグから熱いコーヒーをすする。窓からは明けの明星が見える。遠くの空が少しづつ明るいコントラストを帯びてきた。カフェインの効果だろうか。思考がクリアになってきた。アイコさんが居たあの場所は一体どこなんだろう。祭壇のような場所と、そこから一面に広がる瓦礫ばかりの不毛な台地。見上げれば、その球体が肉眼でみえるほど近くに浮かぶ無数の惑星。この世界ではない、どこか別の世界の場所である気がした。そしてアイコさんの近くには、見知らぬ男が居たことを思い出した。白いローブに身を包んだあの男は何者だろうか。ひとつだけ言えることは、その男からは友好的な雰囲気を感じなかったことだ。それは、私がまるで操り人形のように思ってもいない言葉を口にしたことと、何か関係があるのだろうか。そして彼女は、私の言葉に説得されるようにうなずいていた。それはつまり、彼女が望んでいなかったことを承諾したかもしれないということだ。そう考えると、彼女と私の関係を知っていて、私の言葉なら彼女が言うことを聞くとわかっていた何者かが、私を利用して、彼女を誘導した。論理の飛躍は多いとわかっているが、そうした考えが私の頭を支配していく。そしてますます、あの白いローブの男が危険な人物に思えて来る。

・・・くそっ・・・一体どうすればいいんだ・・どうすれば彼女のいるあの世界に入ることができるんだ・・・左の手のひらを額に合わせて机に肘をつき、キリキリと頭を締め上げるように思考を走らせる。

その時、不意をつくように、ピンポーンと呼び鈴が鳴る。少しの間を開けて、2度、3度と立て続けに鳴らされる。それはこの部屋の住人に、一刻も早くドアを開けよと急かすような呼び鈴だった。普段ならその時間に鳴らされることはない早朝の呼び鈴に、私は警戒よりも、なにか、行き詰まった問題を解決してくれる糸口がもたらされる予感がして、急いで玄関口に向かった。

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