第59話 煙草の香り
「よう、兄弟。またギリギリだなあ」
所定の場所へ到着すると、いつものごとく金髪も茶髪も既に到着していた。足音を消していたのに二人ともすぐにおれの気配に気が付いてしまったので、少し残念だと思った。
ソファにどっかと座った金髪はによによと笑いながら、ふうと息を吐いて煙を出す。手には煙草。葉巻と呼ばれるそれは、少し前の戦争を契機に広まり始めたとアベルが言っていた。戦争はいいものも悪いものも齎すらしいぜ、と好奇に目を輝かせたアベルの顔はまだ記憶に新しい。
「……くさい」
おれは煙草の独特の匂いというか臭いが苦手だった。ユートピアに存在しなかったから勝手に忌避してしまうのだろうか。単純近接効果だろとアベルは笑っていた。早い話、知っているものや頻繁に見るものの方が好きということらしい。矛盾だらけだなとその時のおれは笑った気がする。変化を好むのか好まないのかどっちなんだよと。そうしたらアベルはぱちんとウィンクしてこう答えた。
――結局、ないものねだりなんだって。
「煙草が臭いって、ガキかよ」
アベルの声とは似ても似つかない声に意識が現実に戻った。ぼんやりするのはカインの悪い癖だとアベルに言われたことがある。おれからするとアベルの方が思索に耽っていることが多いと思うのだけれど。似たりよったりとはこのことか。
ともかく、おれの視線の先にいるのはアベルではなく煙草を咥えた金髪だった。
「ガキじゃない。煙草を知らないだけだ」
「そういうのをガキって言うんだって。じゃあ酒は?」
「……知らない」
必要がなかったのだ。フローのせいで酒場には入り浸っていたから、酒も煙草も割と身近にあった。けれどおれらにはいらないものだった。そもそも金というものがなかったし。
金髪はいつものごとく笑って、また紫煙を吐いた。
「おいおい、煙草も酒もやったことがねーなんて、一体どんなお育ちのいいお坊ちゃんだよ?」
「育ちはよくない。最悪だった」
泥水を啜った日々が蘇る。折檻と称して憂さ晴らしの相手になったり、人殺しに加担させられたり。思考を止めた人形みたいな人間ばかりのユートピア、どこをとってもいいところはなかった。
「へえ、最悪ってのはどんなのだよ。食い物にありつけずゴミを漁る日々? それか親の借金の取り立て屋に恐喝される日々? それとも奴隷に身を窶した? もっとひどい境遇があるなら教えてくれよ」
畳み掛けるように金髪は言う。一見怒っているようにもとれる動作だけれど、不思議と金髪から怒りといった感情は感じなかった。ただの興味本位なのだろう。けれどおれは返答に詰まってしまった。
「……」
たしかに、おれらにゴミを漁った記憶も、恐喝に遭った記憶も、奴隷になった記憶もない。親がいないのだから親の借金なんてないし、そもそもユートピアに金という概念がなかった。
どう答えようかと思案する。金髪の言った、「もっとひどい境遇」とはずいぶんと曖昧な表現だ。ひどいとは何を以てひどいというのだろう。衣食住が保証されていないこと? 普通から逸脱していること? じゃあその普通とは?
おれの沈黙を怖気づいたと勘違いされたらしい。金髪の笑みに落胆が滲む。
「ありゃ、お坊ちゃんには刺激が強すぎたか?」
けらけらと笑いながら金髪は煙を吐きだした。ふかふかと夜の空気に立ち消える煙を見ながら、おれはふと沸き上がった願望を口にする。これこそ興味本位だ。
「いや、煙草も酒もしてみたいなと思って」
ぶはっと金髪は吹き出した。噎せたのか咳き込むようにして笑っている。見かねたのか、苦笑するように眉根を寄せた茶髪がとうとう口を開いた。
「少年、この若者の煽りに応じる必要はないよ。どちらも身体に悪い」
気が付くと茶髪はちゃっかり部屋の隅に移動している。おれが立っているのはばっちり金髪の正面。そりゃあ臭いわけだ。しかし適応能力とは便利なもので、その臭いですらだんだんと慣れてきた。
「……でも、知りたい。あんたも吸ったことくらいあるんだろ」
「まあね。昔は私も若かったから」
おれらの会話を聞いていた金髪は、またははっと笑った。本当に良く笑う男だ。
「それが一番の煽りだって、おっさん。……ほらよ、兄弟。オレは寛大だからな、ちっとばかし吸わせてやるさ」
言葉とともに金髪は咥えていた煙草を手に取り、おれに差し出した。もちろん先端も火のついた葉巻はゆらゆらと煙を吐きだし続けている。
「……」
そっと近づいて受け取る。平静こそ装っているけれど、鼓動は知れずその速さを増していた。
――アベルは知らないんだろうな。
それが、おれにとっては初めてのことだった。アベルが頭脳だったから、アベルの方が知っていることが多くて当たり前だったのだ。
その当たり前が変わろうとしている。葉巻から唇まで、あと十センチ。
変化は何を生み出すのだろうか。あと五センチ。
それを考えるのはアベルだった。あと三センチ。
でも、おれが生きているのはおれの人生だった。一センチ。
はじめから。――零。
息を吸う。煙草の香りが口いっぱいに広がる。苦い。さらに息を吸う。吸い過ぎた。盛大に噎せる。息が苦しい。苦い。アベルはこの苦さを知っているのだろうか。苦いと感じるのは、そんな陳腐なことを考えているからだろうか。
わははと金髪が笑ったのがどこか遠くで聞こえる。茶髪が溜息をついたのも見えた。けれど、それも他人事。ばくばくと心臓がうるさい。視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が、今おれの見ている景色がアベルの知らない世界だと伝えている。
そうだった。おれとアベルは同じではなかった。初めからそうだった。その当たり前に気が付かなかっただけで。目を逸らし続けていただけで。
「ほらほら、おこちゃまには早かったんだから、また今度な」
てか高かったんだからな、これ。
ぶつくさ文句を垂れながら金髪はおれの手から煙草を取り上げた。そのまま口に含んで、また満足気に微笑んだ。
「ま、大人の愉しみってことよ」
咳き込みながら、金髪もそう年は変わらないはずだろと内心で呟いた。
「私からすれば、お前さんも十分ガキだけれど」
暗がりから茶髪がぼそりと呟いたので、おれは内心で手を叩いた。
「んだと、おっさん」
「事実じゃないか」
金髪の凄みも茶髪は軽く笑って流している。それに突っかかる金髪。バカみたい。どうせ茶番なのに。
嗚呼と思う。
なんとも穏やかな時間だった。ユートピアでは考えられないくらい、生きた時間だった。人がこうやって会話するのを見るのは新鮮でたのしかった。今まではアベルと二人の世界だったから。たまにマスターが入ってきて、それ以外は有象無象だった。会話なんてできるはずもなかった。誰も話す意思がなかったし、その意思はおれらにもなかった。人形と話す趣味はなかったから。
ああ、この匂い。煙草の香りが何度もおれを現実に引き戻す。金髪と茶髪はまだ茶番を繰り広げている。
ふと笑いが込み上げてきた。そのまま笑う。気がつくと金髪も笑っていた。茶髪も苦笑している。それを見てまた笑う。笑いながら、人は集団で生きるいきものなんだとぼんやり思った。
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